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大江健三郎さん「ヒロシマ・ノート」のプロローグ

小説家の大江健三郎さんが老衰のため88歳で亡くなられたそうだ。

少し前に、ChatGPTに、歴史上、より良い世界のために貢献した日本人のTOP10をリストにさせてみたことがある。(英語で入力し、出力も英語。)

片づけコンサルタントのこんまりさんが最初に出てきたのには驚いたけれど、出力の途中で止まってしまったので、同じ質問をあと2回、計3回することになり、結局、若干違う三つのリストが出力された。

ChatGPTが出力した三つのリストすべてに含まれていた人は、いろいろな活動をされているオノ・ヨーコさん、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子さん(ChatGPTの出力ではPeace Activist(平和活動家)とされていた) 、

そして、三つの内の二つのリストに含まれていたのが、映画監督の黒澤 明さんと、ノーベル文学賞を受賞したこともある

小説家の大江健三郎さん

だった。

インターネット上の英語のデータを基に統計的に処理された結果だと考えると、大江健三郎さんが世界に与えている影響は大きいんだなと、その時、思ったのを覚えている。それなのに、大江健三郎さんの本を一冊も読んでいない私。

亡くなられたというニュースを目にして、図書館で、すぐに借りることができる本は何かないかなと、クライストチャーチ市立図書館のカタログを検索してみた。全9冊。クライストチャーチ市立図書館には日本語の蔵書も結構な数あるのに、大江健三郎さんの本は、すべて英語だった。日本の小説家というより、英語圏でも評価の高かった世界の小説家ということかなと感じた。

どの本を借りようかと、リサーチしていた時に、いくつかのサイトで見かけたのが、ヒロシマ・ノートのプロローグからの引用文。

日本語版から私も引用させていただきたいなと思っていたら、下記、岩波書店さんの「ヒロシマ・ノート」(岩波新書)の詳細ページに、試し読みのリンクがあって、プロローグをPDFファイルで読むことができるようになっていた。

大江さんのご長男が、頭蓋骨異常のため障害をもって誕生され、大江さんは、広島を訪問されていた当時、そのことで、かなり悩まれていたらしい。
そんな大江さんに、家族と向き合うてがかりを与えてくれたのは、広島の人々だったらしい。

しかし一週間後、広島を発つとき、われわれはおたがいに、自分自身がおちこんでいる憂鬱の穴ぼこから確実な恢復にむかってよじのぼるべき手がかりを、自分の手がしっかりつかんでいることに気がついていたのである。そしてそれは、ごく直截に、われわれが、真に広島的な人間たる特質をそなえた人々に出会ったことにのみ由来していたのであった。
僕は広島の、まさに広島の人間らしい人々の生き方と思想とに深い印象をうけていた。

大江 健三郎. (1965). プロローグ  広島へ……. ヒロシマ・ノート(p. 3). 岩波新書

私が持っている「そこはかとなく広島県人」なところと、大江健三郎さんが深い印象をうけたと書かれている「広島の人間らしい人々の生き方と思想」に、ほんの少しでも共通している部分があるといいなと思った。

以前、私が書いた、下記の記事の中で言いたかったことを、なんだか肯定して下さっているような気がした。


もう一つ、プロローグの中に、心に残った一文があった。
大江さんが広島を訪れた際には、父である松坂義正医師を背負って、その救護活動を助けていたという医大生の息子さんで、現在は皮膚科の医師として広島で開業(※ヒロシマ・ノートの出版時)している松坂義孝氏からの手紙を紹介している文章の中の一文だ。

広島の人間は、死に直面するまで沈黙したがるのです。

大江 健三郎. (1965). プロローグ  広島へ……. ヒロシマ・ノート(p. 4). 岩波新書

思い出したくはないけれど、次世代に伝えなければならない想いがあるのは、広島や長崎の被爆者の方々戦争、犯罪、事故、自然災害などの被害者の方々に、共通することなのかもと、心に響いた。ふと、私の父のことが浮かんだ


ヒロシマ・ノートを読んでみたいと思った。いや、読まなければならないような気がした。
広島県人として、「広島の人間らしい人々の生き方と思想」が失われることがないように、持続可能な方法を考えつつ伝えていかなければと思った。

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