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ミモザの候 17: 「その人」をさがして

「お父さん、最近笑わないねぇ」

今振り返ると、あの頃すでに、父の異変は始まっていたのだろう。だが、当時はまだ父の日常に変わりはなかったし、ないようにも見えていた。
けれど、私がたまに会う父は、なんとなくではあるが、たえず何かを考えているような、そんな空気を知らぬ間にまとっていた。

深刻さ、と言えばいいだろうか、そうしたものが父をのみこみ始めた。
以前のように冗談を言うことも、好物を食べて喜ぶことも、しだいに少なくなっていった。

父の朗らかな世界は、ゆっくりとしかし確実に、不安に満ちた世界へ、そして恐怖に満ちた世界へと暗転していった。
父が父として抱いたであろう喜・怒・哀・楽の感情を、病は奪い去ってしまった。

レビー小体型認知症の患者を家族にもった者として、この病が残酷だと思うのは、いわゆる認知症患者が記憶を失うということが、この病においては、幻視や妄想そしてそれらからくる恐怖によって増大しながら上書きされていく一方で、以前と変わらぬ認知がしっかりした「その人」も、また、いるということだ。病をおさえるための薬や妄想によって抑制されてしまうけれど、その合間に、病をえる以前の「その人」が時折、現れ出てくるのである。

 「その人」を捉えられるかどうか、が患者のQOLの鍵となる。 それには、よく言われていることではあるが、患者をじっくり観察し、傾聴する必要がある。その人を「あきらめる」周囲のまなざしが要る。

レビー型の場合、パーキンソンの症状を併発してしまうと、その作業はいっそう困難をます。しかし、「その人」は確かに存在し、いつも見え隠れしている。「その人」はしっかりと意思疎通を図ることができるのである。

 どうやら、施設では、元看護師で副施設長でもある介護士Uさんと施設付の医師を中心にして、父のプロジェクトが進んでいたらしい。レビー小体型認知症患者の介護について、父を実験例として皆があれこれ試行錯誤試し、それが大変功を奏したことを介護施設グループ内の検討会で報告したと、ずいぶん後になって聞いた。

 父はこのプロジェクトに積極的に協力していたらしい。実際、亡くなる半年ほど前まで、徐々に機能が失われていくそのスピードにあがなうように、その都度、父を中心にして皆がなにかしらの術をえようと努力していた。

父の施設での2年間、私たちは「家族」としての役割に徹した。
実際、それしかできなかったのではあるが、つとめて元気に、温かく、朗らかに父に接するようにしていた。

介護士Uさんは、「お世話をするのが私たちの仕事ですから。家族には、家族しかできないことがありますから」といつも毅然としていた。
私たちは彼女のプロとしての覚悟にかけ、父の生活を全譲した。

おそらく、家族が知り得ない困難は山のようにあっただろう。修羅場も間違いなく襲ったであろう。父も介護士さんたちも、一つひとつそれらを乗り越えてきたのだということは想像に難くない。

しかし、介護士Uさんは、私たちには決してそれを口にしなかった。

 父が病院で、「助けてください」と泣いて頼んだというあの時、まちがいなく、運命の車輪がぐるっと回った。それぞれの抱える「必死」が、車輪を回した。

そして、この時を境に、おそらく、一糸の信頼の糸というものが紡がれ始めた。

手繰の糸車から手探りで紡がれる信頼の糸。
それは、その後2年の間、細く長く紡がれていった。

 病のなかにあっても、父は「その人」を取り戻そうと、さぞかし懸命に努力したのだろう。父は、この糸をたよりに、自分のいのちを預けるようにして、「二度生まれ」を得たのだと思う。

 父は、「その人」を取りもどしていった。
この細く長い糸が最後まで切れることはなかった。

そういえば、あの時の主治医も糸の曲の話をしていたなぁ...。

 今となっては、父のプロジェクトについて、その具体的な方法も成果も、私はもはや尋ねることも知ることもできないが、父がそうした時間を過ごしたことを、家族は誇りに思っている。

知見が、それぞれの経験値となって、今に活きていることを願っている。

2018年2月~2020年2月
2022年9月16日 記

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