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ミモザの候 7: ラジオ体操と「ありがとう」
ヨガ歴が25年を超える母は、毎朝のラジオ体操を日課にしている。
まだ父が家にいた頃、彼女は妹の介護もしていた。実家の家じまいやお墓のこと、相続等々のことがらが重なり、彼女の心身は疲労困憊していた。
そんなある日、自転車で転んでしまった。股関節を痛めたため、もうヨガのクラスには通えなくなった。それ以来、彼女は毎朝熱心にラジオ体操をするようになった。
そんな母を横目で見ることはあっても、あるいは、時にちょっとだけ一緒に体操をするふりをすることはあっても、ラジオ体操が父の日課になることは決してなかった。
ずいぶん昔、何かの介護士さんのインタビューで「ありがとう」の話をきいた。その方いはく、「どんなに痴呆が進んでいても、介護をする側からすれば、いつも怒っている入居者さんよりも、口癖ではあっても『ありがとう、ありがとう』の言葉を口にする入居者さんのほうがお世話をしたくなる」というものだった。
介護がこんなに大きな社会問題になるはるか以前のことだったし、それまで私の身近に認知症を患った者がいなかったこともあって、「へぇ、そんなものなんだなぁ」という驚きがあった。そして当時、このことを母に話した。
さて。父が施設に入る際、「最初の2週間は面会ができない」という約束事があった。新しい環境に慣れるために、だ。父にとっては、生き直し。「これは戦争だな」と思った。精神病院を強引に退院しての施設への受け入れだったので、家族は藁にもすがる思いで承諾した。
救急で運ばれた病院から、深夜に精神病院へ転院して約1か月。私たち家族は一刻も早く父にここを退院させたかった。奇跡のようなご縁がつながり、この介護施設と後に父担当となる介護士さん(Uさん)を紹介された。父の受け入れは、元看護士で副施設長でもあったこのUさんの一存で決められた。
施設を見学に行った時、私は思わずUさんに、「精神病院から父を助けてください、脱出させてください」と頼んだ。隣にいた家族たちは驚いた様子だったが、私も必死だった。
知り合いのケアマネさんからの直接の紹介だったこともあってか、定員がいっぱいのところを、Uさんは、無理をおして父の受け入れに踏みきってくれた様子だった。が、家族の私たちには、「レビー小体型認知症の方は一人経験しているから大丈夫だと思う」とだけ言った。
後にUさんは、受け入れの準備のために精神病院で父と面会した際、「助けてください」と父が泣いた、と母に教えてくれた。それと、これももうずいぶん後になってぽつりと彼女が言ったことだが、昔、あの精神病院に入居者さんを手放してしまった、という後悔があったのだそうだ。まだ、介護ができたはずだ、と。そして、私に脱出させてくれと頼まれたことが、父を受け入れる最後の決め手になった、と。
とにかく、入居後最初の2週間は、父にとって、まさしく生き直しの時間だっただろう。
その間に母の妹も亡くなった。私たち家族にとっては、まさに、むきだしの命とまるごとで向き合う時間が続いていた。
「落ち着いたので」と連絡が入り、私たちは施設に急いだ。久しぶりに見た父の姿は、病院で誰かの服を間違って着せられて表情なく車いすに座らされ、猛スピードで右へ左へと運ばれていた父のそれとはまったく異なっていた。顔に血の気が戻っていた。不安な様子はところどころ見せるものの、リビングダイニングには皆と一緒に座っている見慣れた父がいた。
家族が驚いてUさんにこの間の様子をたずねると、「はい、大変でした!」と笑って言った。この正直さは介護技術の高さとともに彼女の最大の美点で、そのおかげでそれから後、Uさんと私たち家族との間には強い信頼が築かれていった。
父も、Uさんも、家族も、皆がそれぞれ決死の覚悟で生と向き合った、これは勝負どころの2週間だったのだ、と思った。
新緑の頃には、父はすっかりリビングダイニングのメンバーになっていた。車いすなんかには座らせない、というUさんの特訓のおかげで、父は次第に歩けるようになってきた。
ある日、いつもとは違った時間に面会に訪れると、ちょうど皆でラジオ体操をしているところだった。父は、それはそれは上手に張りきって体を動かしていた。
また別の日、ある介護士さんが、「お父さんは『ありがとう』って言ってくれるから嬉しくなる」と伝えてくれた。
それはすべて、母の作戦だった。密かに種はまかれていたのだった。
そんな頃、父のカバンの中から見つかった、とUさんから一枚の紙を渡された。それは、精神病院で治療に関して同意を求められたことに父が署名したものだった。当時の父の状態ではほとんど内容を理解できなかっただろうし、そんなことは家族には全く伝えられていなかった。
ミミズが走るような判別不能の文字に目を落とすと、くやしさと悲しさと、つらさがこみ上げてきた。病院中に漂うあの消毒液の臭いがよみがえってきた。
しかし、くやしさを振りきって顔を上げると、目の前には父がいた。長いダイニングテーブルの端には、ちゃんと、父の居場所があった。
「今」という時間が、目の前に、間違いなくある。そして、父は今、ここにいる。
もう、いいんだ。懸命に丁寧に大切に今を過ごしていこう、と思った。
2018年3月~初夏
2022年9月2日 記