見出し画像

ミモザの候 27: breath ーエピローグー

セージを焚き、その煙に身をくぐらせる。
ひとつ、大きく息を吸って、ふぅーっと吐いていく。
一つひとつ、情景を思いだし、イメージを呼びもどす。
心のままに。
そして、言葉をおいていく。

このちょっとした儀式は、私にとって、あの時に向かう瞑想の時間の始まりだった。

あの頃目にしたさりげないモノや些細なできごとがきっかけとなって、私は記憶の旅に出る。それは内なる旅だ。
セージの香りと早朝の静けさはこの旅が安全だと約束してくれた。
私はあの豊かな混沌に言葉を与えていった。海底深くに一筋の光がさすような、それは静寂のなかの旅だ。
停滞していた窒息するような凝縮した時間、それに言葉が与えられ、過去がすこしずつ光のなかへと解れていった。

どこまでもどこまでも世界から取り残されていくような感覚が、私を支配することはなかった。
そして、私は消え入ることなく、今、海面近くまで浮かんできたのだった。

あの時間への憧憬は予感として常に私の傍らにあり続けた。どうしようもなく痛み果て崩れかけた私の現実を、それが見捨てることはなかった。

結局、ページが開かれずに本棚に座ったままの『誤作動する脳』。それはお守りとなって、トーチとなってこの旅に寄り添ってくれていた。
この世界が「たぶん、安全なのです」という彼女の言葉を握りしめて、私はおそるおそる、世界の網へと身を委ねてみたのだった。

世界には命の網が張られていた。
私はそこからこぼれ落ちることはなかった。

内側から照らされて、私は、私の世界を一つひとつ名付けていった。体から生まれてくる言葉を、それはふたたび獲得していく作業だった。
命によって、命が救われる作業だった。

記されることのなかった日記の頁はこうした形で埋められていった。
抱えてきた現実の痛みも苦しみも、これからきっと私の世界に溶け込んでいくだろう。不思議とそう思える自分が、今ここにいる。

人は、懸命に生まれ、懸命に死んでいく。
なんと尊いことだろう。

ひとつ、すぅーっと息を吸い、ゆっくり、ふぅーっと息を吐いていく。
外からの冷たい空気が、温かい湿った息となって、私から離れていく。
この温かい湿り気が、命だ。
私の魂はこの温かさを経験するために、命が今、私を生きている。

心臓が止まる最期のその時まで、人の魂はどんな旅をするのだろうか。

喧噪のなかにあっても、豊かな記憶の糸は紡がれている。
時間は織られている。
世界は編まれている。
祈りのなかで、私たちは祝福されている。

2022年9月30日 記


いいなと思ったら応援しよう!