塾という「場」 5 ー「学び」のありようー 対象が「破れている」
3 塾という場における「学び」のありよう
「なんだかわからないけれど、いろいろな要素が絡んでいるようだ」と思われた方が多いのではないでしょうか。「なんとなく、わかる」「まぁ、そんなものだ」と感じられた方もいらっしゃると思います。
その通りです。私たちにとって、あまりにもあたりまえの、ありふれた、しかも明確に組織化・体系化されていないところで起こっている学びです。このもやもやとした言語化しにくいものが、塾という場が持つ性格なのです。
これから、その塾という場で「学び」がどのように起こっているのか、そのありようを詳しく見ていきたいと思います。
3-1 対象が「破れている」
先にも少し触れましたが、そもそも、塾という場に量的質的調査研究を持ち込むことは馴染みません。
それは、
・対象が「破れている」
からです。
対象とは、生徒のことです。
対象が「破れている」とは、少しわかりにくいのですが、
・主体の学びが多元的で多重的な性質をもっている
ということです。
たとえば、学びの方向性を考えてみましょう。
生徒が塾で学ぶ理由は、学校のテストで得点するため、受験生ならば模試の偏差値をあげるためです。学力の評価は、塾ではなく、学校という公の場で生じます。学力を発揮するのは塾という場ではありません。
たとえば、学びの機会を考えてみましょう。
生徒が塾で学ぶ機会は、究極的には、受講料を支払う保護者の裁量に任されています。そして、先ほども述べたように、塾という場における学びの評価として、生徒の満足と保護者の満足は時に一致しないことがあります。
たとえば、指導の性格を考えてみましょう。
塾という場において、生徒の学力はただ知識を伝達するというやり方だけでは伸びません。一時的に伸びたとしても、得点が安定し生徒本人がなんとなく自信をもち始めるまでには、学力以外の部分での、生徒の側での何かしらの成長が必須になります。
このように、対象が「破れている」がために、学力をつけることを第一義的な目的としつつも、学力以外の生徒の生活という部分も引き受け、学習プロセスのなかでそれらの困難を解きながら学力向上につなげていく、そうした多元的で多重的な手法が塾での指導には必要になります。
なぜなら、
・学びが、生活のなかにあるから
です。学びが発生するところが生活にあるのです。学習ありき、ではないのです。
したがって、塾における学びの最大の特徴は、
・生徒個々の、今現在の生活を、プレッシャーのより少ない、よりバランスのとれたものに変えていくこと
・その成長の葛藤に寄り添うこと
です。これが、指導者の役割として底流にあります。
もっと踏み込んでいえば、学力をつけるためのいわゆる学習プロセスは手段にすぎません。生徒が自らの生活、自らの世界を「整える」ための学習という手段です。
身につけた学力そのものは、もちろん、評定や偏差値といった形となって彼らの武器になっていきます。学校のテストで得点が伸びるということは、何よりも、担任教師にも保護者にも、生徒の努力が自明になるということであり、これは、生徒本人にとっては自己効力感が高まる大きなできごとです。ひいては、自己肯定感を高めることにも繋がります。
しかしながら、その学力にいたる背景として、彼らが不安や変化に満ちた自分の生活、つまり、自らが生きている世界を整えていく、また、その主体としての感覚を身につけていくといった、個々の生命力から引き出されてくる力を発見し育むということが、塾での学びを支える本質にはあるのです。
そのためには、指導者には、生徒一人ひとりを「まるごと」で見ていく視点や態度が欠かせないということになります。