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ミモザの候 9: レビー小体型認知症
認知症というのは、多くの病気の中で唯一、自分の治療について自らが決定権をもつことができない病気だ、と聞いたことがある。確かにそのとおりだと思う。
アルツハイマー型にくらべ、レビー小体型は稀である。ゆえに、症例も少なく専門医もあまりいない。家族の会が各地方にあるくらいだから、知る人しか知らない類の認知症だ。厄介である。
睡眠障害や幻視、妄想を伴い、パーキンソン病を発症することが多い。比較的男性が多いのも特徴だ。薬のコントロールが極めて難しく、アルツハイマー型とは異なる診断と症状に応じた繊細な処方が必要だ。進行も極めて速い。
要するに、パーキンソンを発症したら、しだいに体のあらゆる筋力がなくなって、死ぬ。
けれど、どうやら脳すべてが委縮しているわけではないらしい。時間はかかるものの、しっかり状況認識をしていたり、判断や評価をしていたり、意志を表明することもできる。時折、以前の父に戻るのだ。
家族会の人が、クスリをきちんとコントロール出来てその人に見合った施設を見つけられたら驚くほど穏やかに過ごすことができる、と言ったのも後々わかってきたことだった。
現在の介護の世界でも認知症に対しては、基本的にはアルツハイマー型の対応になっていると思う。医師も、家族も、コ・メディカルも介護士もみな暗中模索。厄介である。
自宅にいた頃、自分の感情をもてあました父はよくスリッパで床を叩いていた。病への恐怖と身体的精神的疲労、そして先の見えない不安に襲われて、きっとそうせざるをえなかったのだろう。鬼のように荒々しい父を、皆、ただ黙って見ているしかなかった。
どうやら、認知症を治療する世界にもその道の大家といえるような医師がいて、私たち家族は、当初そこここへと走り回った。とにかく、何か父を落ち着かせる薬を処方してほしかったからだ。
とはいえ、この頃は父もようやく運転をあきらめたばかりで、まだまだ意志も意識も判断もしっかりしていた。ただ、睡眠中に大声で怒鳴ったりベッドから落ちたり、妄想からくる不安に悩まされていた。
ある日、母は、新聞に父の症状を的確に説明している記事をみつけた。それはレビー小体型認知症専門の医師を紹介する記事だった。早速、父を慰めて、その医師が勤務する総合病院に連れて行った。
そして、父には、レビー小体型認知症の診断名がついた。
しばらくこの医師に診てもらっていた父は、その後、彼のもとを離れる。症状に診察が追いつかないのである。
父の生活は日に日に困難になっていった。食事、睡眠、入浴、排せつといった力が徐々にそがれていった。
私たちは、漢方の処方を中心とした認知症専門医をたずね、父はそこで長くお世話になった。同居する家族は、父の精神的安定を図ることと全身の健康状態を管理してもらいたかったからだ。それには、町医者が必要だった。
家族の生活も大きく疲弊していった。父は徘徊こそしなかったものの、妄想や幻視からくる不安症状が大きく、常に傍らに人を探していた。家族はデイサービスとショートステイを利用し、束の間の安息をえようとしたのだが、父の症状はそれに比例して悪化した。
後に母から聞いたことだが、ある日、父が救急車をよんでくれと頼み、市民病院の救急外来に駆け込んだことがあったそうだ。その時、医師に、「そろそろ入院させてはどうですか?もう限界ですよ」と言われた、と。
それでも、父と母はそれぞれに頑張っていたのだと思う。できるだけ長く、住み慣れた自宅で一緒に過ごせるように。
やがて、修羅場がきた。限界が限界をよび、限界が極まった。
その後、父は別の医者の診察を受け、警察のお世話になり、夜間救急に運ばれ、精神病院へ転院し、そして施設で最期を迎える。
ところで。年末に、父が最後に救急搬送されたのは、最初に訪れたこの病院だった。奇遇なことに、父はこの医師と再会し、3週間、ふたたび彼を主治医とするのである。
この数年間の施設の生活で父のQOL(生活の質)は大きく向上した。私たちは、かけがえのない時間を家族として過ごせた。そのことに間違いはない。
だから、この医師に対して、彼の治療を離れたことに対して、私たちはなんらの後ろめたい気持ちももっていなかった。かつての彼の治療方針に怒りさえもなかった。
あいかわらず権威をまとった彼をまえに、私たちは堂々としていた。彼が知ることもないであろう、あのゆるぎない時間がそうさせていた。滅菌室で生死をさまよう父も、同じ思いだったと思う。
人は、懸命に死んでいくのだ。
ただ、それだけだ。
命が尽きるまでの愛しいその時間を、ただ、大切に過ごす。
もはや、病名なんて関係ないのだ。
この総合病院は、父の母、つまり私の祖母が息をひきとった病院だった。
搬送先がなかなか決まらず、施設から遠く離れたこの病院に運ばれたと聞いた時、私は、「あぁ、おばあちゃんが呼び寄せたのだ」と思った。
自宅からのアクセスがよいこの病院に、年末年始、私は毎日父を見舞った。
年末の街の喧騒も、年始の空気の清らかさも、私からはどこか遠くにあった。
こうして、「お別れ」への心の整理というものが、静かに始まっていった。
2016年~2020年冬
2022年9月5日 記