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ミモザの候 26: ボイスメッセージ

父は年末に緊急搬送された。暮れもおしせまったころだったので、精密検査も投薬も、しっかりした処置は年が明けてしばらく経つまで待たなければならなかった。滅菌室で酸素吸入をして意識もほとんどない父ではあったが、救急担当の医師が適切な診断を下し高度な投薬をしてくれたおかげで、なんとか簡易検査の数値は改善していった。そして、しだいに意識を回復していった。

年が明け、かつての主治医に再会し、今後の治療方針が話し合われた。父は減菌室をでてナースステーション脇の大部屋へと移された。HCU(高度治療室)扱いの男性が4人入る部屋だった。そのとなりには女性のHCU部屋があった。

筋力の確認等々リハビリの可能性を検討して父の入院期間を延ばす策を探したが、そんなことは到底無理だった。家族が呼ばれ、看取りへと話がすすむ。たちまち父を繋ぐ点滴の数本が外され、父をこの世に繋ぐ点滴はただ1本となった。点滴が外れると、父はしだいに弱っていった。

父の生命力にあがなうことを、私たちはやめてしまった。だんだんと静かに眠ることが多くなった父とは対照的に、家族には急速に施設や病院との事務的なやりとりが増えていった。傍らの父は、おそらく、「これから」をわかっていたと思う。

私たちも、そして父もまた、大きな生命の力に完全にその身を委ねた。ここからは、もう天にお任せしよう、と。

失望というよりも、それは決意だった。そして、プライドでもあった。

 

少し話を戻してみたい。

この年末年始をはさんだ3週間ほどの入院期間、私は可能なかぎりの仕事の都合をつけ、毎日父のもとへ通った。家族には休息が必要だったし、さぁ、私の最後の出番だ、と心に決めていたところがあった。

とはいえ、この頃の面会はお互いにつらい。

今日の父は、生きているのだろうか。

あぁ、生きていた。

あぁ、話ができてうれしい。

明日も来るからね。


話ができるといっても、それは片言だったり、しぐさだったり、表情だったりするのだが、毎日どこかに父のささやかな生命力を探しそれを称えることでしか、父の不安には寄り添えなかった。それは、また、私の不安でもあった。

年末年始に入っていたあの減菌の個室では、まだ希望があった。それは、生命力というものをかき分けて、父も家族も、皆がつかんでみたい光だった。

時折横切る、「ここを、父は生きて退院できるのか」という気持ち。それを考えないようにして、私は目の前の父に対峙した。

おそらく、父も、自らの生命力と気持ちの間で綱引きをしていたのだろう。「帰れるのか」と口にしたことがあった。

父にはまだ気持ちがあって、その気持ちに寄り添っている者がいるということを伝える。

それが、私の役目だった。まずは自身の身をもって。

そして、私は毎日、母のボイスメッセージを運んだ。

母のボイスメッセージはだいたい決まって、「おとうさん」「がんばってね」「元気になるのよ」「会いに行くからね」等々の短いものだったが、いつもより大きなはっきりとした声で母は毎日スマホにふきこんでいた。

耳元で再生すると、父は、うなずいたり返事をしたりして心地よさそうに聴いていた。


父はこの部屋で、おそらく時間の感覚もなく、眠ったり天井を見つめたりしてひとり過ごしている。ソファもテーブルも冷蔵庫もシャワーも洗面も、なにもかもが準備された個室なのに、もっと側にいてあげたいのに、私はどうしても15分ほどしかいられなかった。

父をのせたベッドには体重を示す表示がついていた。入院時に目にしたそれは38キロを示していた。胸が切り裂かれるような思いがした。以来、父の足元を通るときにはこの表示を目にしないと決めた。

発する言葉に想いをのせた。触れる手に想いをこめた。


父の容態が深刻になるほど、病院への足取りは使命感を帯びたものになっていった。

HCUの病室に入るには、なおいっそうの覚悟が要った。そこでは、患者がそれぞれに、各々のむきだしの命を抱えていた。4つの命がまるごと露わになった病室は、恐ろしくもあり、崇高でもあった。半端な気持ちでここに入ることは許されない、そんな空気が漂っていた。身を正して潔斎して、とそんな構えが必要だった。


私にとって今日が最後の面会だという日。この頃の父はもうずいぶん長く眠るようになっていた。

カーテンを引いて、ベッドの父に話しかけ、ボイスメッセージを再生する。

「おとうさん...おとうさん...おとうさん」。今朝キッチンで録音した母の声が流れる。

父は眠ったままだ。

もう一度、再生すると目を開いた。

そして、もう一度、再生したとき。

「おとうさん」という母の声に、父は、「はい...」と答えた。そして、その目がゆっくりとあたりを見渡した。

私が父の声を聞いたのは、この時が最後だった。

くまちゃんのぬいぐるみが枝のように細くなった父の姿勢を支えていた。

ビルの合間から西日がわずかに射す窓際のベッドだった。


年末年始に薄くなった診療体制に不安を抱いていた私たちだったが、結局その時間に父はもちなおし、結果的に私たちは穏やかな時間を過ごすことができた。

待ち焦がれていた年明けの診療は、皮肉にも父の命を一歩前へと誘った。


父は、もはやレビー小体型認知症患者ではなかった。

命のゴールを迎えつつあるひとりの人間であった。

2019年12月~2020年1月
2022年9月29日 記

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