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ミモザの候 21: 月のいない夜空

救急車は私たちを真新しい県立病院へとどけた。運ばれる父を追いかけて急いで車を降りる。そびえ立つ総合病院の気配は闇夜に紛れていて、救急のエリアだけにこうこうと明かりがともっていた。広い車寄せにはすでに一仕事をおえた救急車がとまっていた。

運ばれていく父とその後を追う私たちの間を遮るように、看護師が状況確認のために話しかけてきた。ものの10秒ほどで、渡したお薬手帳を手に彼女は処置室へ走っていった。

警備員が私たちを待合へ案内した。そこには、同じように着の身着のまま付き添ってきた家族が2組、手持無沙汰に立ったり座ったりして時間をつぶしていた。

もうすぐ日が変わろうとしていた。

 

しばらくして処置室横の部屋に呼ばれた。腰の高さほどのベッドのうえで父は点滴を2本受けて眠っていた。フランネルのパジャマと靴下には枯れ葉や泥がついていた。

当直医は、外傷を一緒に確認するようにパジャマをめくって父の腕や足を見せた。そして、低体温への処置をしていることを伝えた。

片隅のデスクのモニターにはバイタルやレントゲン等々のデータがうつしだされていた。それを見ながら、彼は、所見では大きな問題がないこと、そして今夜退院も可能であるということを告げた。物腰は穏やかではあったが、ベッドはできるだけ空けておきたいのだな、と私は感じた。彼は内科の役付きの医師だった。

父がレビー小体型認知症だと言うと、医師は「それは...大変ですね」と言った。救急ではなく、一人の内科医としての彼の顔がのぞいた。初対面のこの医師がこのどうしようもない病を理解してくれた気がして、ほっとした。かかりつけ医を確認され、明日以降受診するように言われた。父が精神的に不安定なので今夜一晩ここで様子を見てほしいと伝えると、医師も承知した。

父は車いすに乗せられて処置室脇の観察エリアに運ばれた。私たちは、意識がはっきりしてきた父をなだめるようにして今の状況を説明した。「今晩ここでとまってね、明日迎えに来るから」。家族も父もそのつもりだった。


ところが、である。救急救命にまた一人、患者が運び込まれてきた。それは外傷患者だった。中年の男性がお腹を押さえて苦しみ悶えている。処置エリアに人が集まり、あわただしく処置がなされる。さっとカーテンがひかれた。私たちも、父のベッドエリアのカーテンをひいた。

仕切りのない広いフロアだ。患者のうめき声と、機材の機械音、医師や患者の声が聞こえてくる。あれだけ落ち着いていた父はみるみる不安に飲みこまれていく。そわそわして落ち着かない。点滴をしたままその場を逃げだそうとした。家族がどれだけなだめても無駄だった。父はあっという間に恐怖にさらわれてしまった。

誰か、どうにか、私たち家族を助けてほしい。

病院という場所は、一人ひとりのいのちがむき出しになる戦場だった。だが、私たちは闘うための武器を何一つとして持っていない。なんて無力なのだろう。

 

先の患者が病棟へと運ばれフロアに静けさが戻ったころ、看護師が父を確認にきた。すっかり動揺してしまった父は、ここから離れたいと言う。しかし、今夜の父を自宅に連れ帰ってフォローする自信は家族にはなかった。でも、現実として、父自体がこのフロアにはいられない。

医師はその日の当番医にあたって、深夜搬送の手はずを整えた。

 

救急出入り口の自動ドアが開いた。車寄せにはすでに救急車がドアを開けていた。
この夜はまだまだ続いていく。どこまでも、どこまでも果てしなく闇へと転げ落ちていく。
小部屋からドアを開閉する警備員だけが、どこか冷静に見えた。

 

救急車は見慣れた街を走っているのだろうけれど、サイレンの音と車の揺れはあてどない私の不安そのものだった。
あの医師の、あの止まり木で羽を休めることさえも、今の私たちにはできなかった。
いったい、私たちは、これからどうなるのだろうか。


サイレンがとまると、そこには真っ暗な建物があった。闇夜に潜むその気配に一瞬、冷たさを感じた。病院のエントランスをくぐると、そこには当直の女性医師と看護師や介護士らしき人たちが5.6人待っていた。つん、と鼻をつく消毒薬の臭いが私を覚醒させた。

非常灯だけが灯された玄関わきのホール、その暗がりの中で、父の担架を囲んで救急からの引き継ぎが行われた。

 

そこに、白衣を羽織りながら年配の医師が現れた。医院長らしき人だった。「こんな時間になんなのだ...」と言いながら。彼が現れたとたん、皆の雰囲気が変わった。医師たちには緊張が走った。救急もあわただしく帰り支度を始めた。

私は、「あぁ、とんでもないところに来てしまった...」と思った。

 

医院長は「こんな夜中に来られても何もできない。とにかく診察は明日になる。家族は明日9時に来るように」と私たちに言った。そして、父を早く病棟へ連れていくように当直医たちに指示をした。

大勢の真ん中で横になっていた父は、すぐさま病院のベッドへと移された。女医が「ゆるく拘束しますね」と告げると、父の両手と足元がベッドの手すりに結ばれた。

ベッドが奥へと向きを変えるときだった。父は首を起こして顔をあげ、私たちに向かってかれた声で、「おかあさん...」と言った。

するすると、あっという間に父は暗い廊下の先へと消えていった。
私は、「あぁ、なんということを、私たちはしてしまったのだろう...」と思った。


駐車場で車に乗り込むころには午前2時を過ぎていた。衣服に消毒薬の臭いがまとわりついているように感じた。

あぁ、父は、私たち家族は、この臭いに掬いとられてしまった。とうとう...。


満天の星々が冷たい夜にキラキラと輝いていた。
けれど、見慣れた月の姿はどこにも見つからなかった。

悔しくて涙も出なかった。

私は、ここから父を脱出させようと天に誓った。

2018年2月
2022年9月22日 記


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