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私は既に生物ではない?

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書籍「生物と無生物のあいだ」(福岡 伸一)

本書の最初の方に出てきた「自己複製するシステム」が生命の定義であるとすると――これには一個体の中で細胞を自己複製するという意味と、子孫を残すことでそれを果たす意味があると思うが、後者に限定すれば――、私はすでに生命にあらず。したがって、生物ではなく無生物かもしれない。

以前何かで、女性が男性を男として見るのは、その男性の年齢がせいぜい64歳までだと、あれはたしか女性作家(誰だったか忘れた)が書いているのを読んだ記憶がある。それはただ単に法令上65歳以上が高齢者扱いになるからだけかもしれないのだが、そんな無粋な話とは別に私はなんだか妙にその64という半端な年齢に納得したものだった。

というのは、たとえば街を歩いていても20~30代の頃は、向こうから来る見知らぬ若い女性が視線をくれるのは当たり前だった(もちろんそれは一瞬で、次の瞬間には「なんだ、ブ男か」とばかりに、その視線は外されてしまうのだが)。それが40代に入るとその数はがくんと減り、それでも50代半ばくらいまでは極く少ないながらも確実にあったはずが(気のせいかもしれないが)、60代になったらほぼなくなり、64歳の今日では皆無という状況を実感しているからだ。

つまり、男として物の数に入れて貰えていないわけである。すなわちそれは、冒頭で述べた「生物の生物たる所以が自己複製」にあるとするなら、そしてそれを支えるのが生殖活動にあるとするならば、その活動に参加させてもらえないということを意味する。それは、とりもなおさず私がすでに生物としての役割を終えているということにもなろう。

しかし本書は、自己複製システムを持つか否かというだけでは生物と無生物の間を論じるに不十分だと言う。そして終盤、「不可逆な時間の流れの中で動的平衡を保っているのが生物だ」と述べる。それは例えば、海岸線の形状は昨日も今日も変わらないように見えるが、それを構成する砂の一粒ひとつぶは、波が打ち寄せるたびにまったく異なっていて、昨日の砂に戻ることはないのにも似ている。要するに、外見上は変わらなくても昨日の私と今日の私は違うということか――。

となれば、自己複製システムに参加させてもらえなくても、動的平衡を保てているうちは私もどうやら生物でいられる――らしい。

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