「じゃがいも」のお寺話17 初転法輪
いろいろな見解があり正確には分からないようですが一説には、お釈迦様は初転法輪で、中道、四諦、八正道、無我について解いたとされます。
◆中道
お釈迦様は苦行の先に悟りはないと感じて苦行放棄をし、スジャータという娘さんから乳粥を布施してもらって食べてブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いたと伝わります。
苦行を積めば積むだけ悟りに近づけるのかという想定は、例えば、アスリートが10kmのランニングを日課としていたが、なかなか成績が上がらないので20kmに増やした。少しは成績が上がっても目指すレベルには全く及ばないので30km、40km•••100kmと人よりも2倍3倍の距離を走れば成績も比例して2倍3倍良くなるはずだと考え、やり続けた先にトップアスリートになれる希望や可能性があるのかと考えたら、ないと判断されるでしょう。
苦行の中で、さらに辛く厳しい苦行に突き進んでもその先に悟りはないと気づいたお釈迦様の教えが中道だと思います。
お釈迦様もしくはお釈迦様の思想を濃く受け継ぐ上座部仏教での中道は現代でもこのような理解なのかなぁと思っています。中道はお釈迦様の教えとは言われますが、仏教の修行を行うための前提、心構えのような言葉だと思います。
大乗仏教での中道はもう少し広い意味を持っているのかなぁ思っています。
約束の時間は絶対に守らないとならない1分でも1秒でも遅れたら遅刻は遅刻だから厳しい罰を与える。逆に時間なんて守る必要は全くないやることさえやれば良く本質は全く別にある。
そんな議論があったときにどちらかの極論に至って議論しない。そもそも時間厳守と時間無視とは正確に対立した議論なのか。本質は別にあるのではないかと極論から離れて考えることが大切であるという理解が近いでしょうか。
0か100か、白か黒かの2択で判断しないという考え方は現代でも、とても大切な感覚だと常々思っています。中道と言えるかなぁと。