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『千葉すず』もっと評価されるべき、過小評価されているスポーツ選手①
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これはQuoraで頂いた質問に、2022/08/22に解答作成し投稿した回答を、詳細に書き直した記事です。
1.Quoraでの質問2022/08/22
質問『あなたが実はもっと評価されても良いと思う「過小評価されている有名人・芸能人・スポーツ選手」とはどなたでしょうか?』
質問ありがとうございます。
古い話になりますが、確かに期待通りの結果が出せなかったけど、その功績はもっと評価すべきだと思う水泳選手です。
2.元競泳選手『千葉すず』
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『千葉すず』 1975年8月11日〜 元女子自由形競泳選手
1992年 バルセロナオリンピック日本代表
1996年 アトランタオリンピック日本代表
2000年 シドニーオリンピック 日本代表落選
3.大阪イトマン・スイミングスクール移籍まで
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1980年 『千葉すず』5歳の時に、仙台のスイミングクラブで水泳を始める。
1985年 小学三年生でジュニアオリンピック出場。
1988年春 小学六年生で早くも、『ソウル・オリンピック日本代表選考会』に出場。
※現在でも、小学生で日本選手権に出場する選手は、ほとんどいない。
1988年 『イトマン・スイミングスクール』からのスカウトで移籍。
1988年10月 『大阪イトマン・スイミングスクール』へ。
千葉すずは、中学一年生で親元を離れ、大阪イトマンの寮に入る。
4.イトマン担当コーチ『浦満廣』
大阪イトマン『浦満廣』コーチが課した練習
千葉すず:「無茶な練習してましたよ。練習での設定タイムが自分(千葉すず自身)の持つ日本記録を上回っていました」
そして彼女は、それをこなしていた。
千葉すず:「だから試合で日本記録が出るのは、当たり前なんです」
厳しい練習だが、千葉すずはイトマン時代、練習をサボったことがない。
浦満廣:「すずにやらした練習、今の子にやれ言うても半分もできません。途中で壊れてしまいます」
5.1990年ナショナルチームヘッドコーチ『鈴木陽二』
『千葉すず』は、
1990年 日本選手権自由形50m,100m,200mの3冠を達成。
1990年9月 北京アジア大会出場。
千葉はアジア大会では、それまでの国内でのような結果は出せなかったが、
ナショナルチームに所属し、
『鈴木陽二』=日本チームヘッドコーチ(ソウルオリンピック金メダル『鈴木大地』は教え子)
と出会う。
6.『鈴木陽二』の『千葉すず』の第一印象
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背が外国人と比べて遜色ない
ストロークが日本人離れ
ストロークが天才的
これまで日本人が世界に太刀打ちできなかった、自由形女子の選手
スター性十分
これは凄い選手だと思った。
5.の『スター性』は間も無く、マスコミに注目されるようになってわかる。
鈴木はアジア大会での反省から、世界大会に向けて、『千葉すず』への練習を厳しめにした。
『鈴木陽二』が思った『千葉すず』の弱点
気分的にムラがある、
コンデション
メンタル
タイムがワガママで一定しない。
この千葉の『ワガママ』な性格が、注目されるオリンピック選手として、
後にマスコミから、国民から嫌われる端緒となった。
7.1991年 世界水泳選手権
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1991年1月 世界水泳選手権(オーストラリア・パース)
初日=100m 56'63=日本新記録
二日目=200m 2'00'48=日本新記録
そして三日目、
『世界選手権決勝』400m 4'11'44=自己ベスト・日本記録大幅更新・3位ゴール銅メダル
この記録樹立によって、マスコミが一気に『千葉すず』に食いつき始める。
8.1991年 パンパシフィック水泳選手権
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『パンパシフィック選手権』=環太平洋地域の水泳選手が競う、オリンピックの前哨戦。
1991年8月 パンパシフィック選手権(カナダ・エドモントン)
100m 56'41=4位・日本新記録
200m 2'00'51=3位・日本新記録 銅メダル
400m 4'15'35=3位 銅メダル
水泳選手として脅威の成長度と、連続での日本新記録樹立。
そして、『銅メダル獲得』
9.日本での『千葉すず』人気の加熱
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1991年は、翌年の『バルセロナ・オリンピック』を控えた年。
『千葉すず』は、これら連続記録樹立や銅メダルの獲得などで、マスコミが報道を始めると、
オリンピックに期待する日本国民に、一気に知れ渡った。
アスリートとしての期待値だけでなく、
『すず』という珍しい名前。
スポーツ雑誌などの写真で見られる『すずスマイル』と呼ばれる笑顔。
などで、スター性を発揮。
しかし、彼女自身は以前から大のマスコミ嫌いだった。
そして日本国内での彼女の人気の盛り上がりは、
すべてオリンピック前の時点でのこと。
当然、彼女へのオリンピックでの期待値は高まる。
10.1992年 『バルセロナ・オリンピック』
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200m自由形6位入賞
メドレーリレー7位入賞
400m自由形8位入賞
100m自由形9位
これらの結果を残す。
特に、200m自由形は、
200m自由形予選 2'00'96=予選8位⇨決勝進出
200m自由形決勝 2'00'64=6位入賞
オリンピックにおいて、日本の自由形女子選手の入賞は、1936年以来の快挙。
※1936年 『ベルリン・オリンピック』自由形女子『小島一枝』400m自由形6位。
しかし、試合後のマスコミからのインタビューでは、
『メダルが取れなかったですね』ばかりを言われる。
オリンピックでの入賞だけでは、認めてもらえない。
そして彼女の場合、オリンピック前のマスコミからの期待値が高すぎた。
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さらにバルセロナではこの後、
『千葉すず』にとっては『不幸・不運な事件』が起きた。
11.女子平泳ぎ200m『岩崎恭子』
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『岩崎恭子』=当時14歳
競泳女子200m平泳ぎ予選 2'27'78=日本新記録・自己記録を3秒30更新。
優勝候補『アニタ・ノール』(アメリカ)に次ぐ全体2位で決勝に進出。
そして決勝では、
岩崎恭子は、ゴール寸前でノールを逆転⇨2'26'65で一位ゴール
この記録『2'26'65』は、当時のオリンピック新記録&自己生涯ベスト記録で、
『金メダル』を獲得。
12.『岩崎恭子』金メダル獲得以後の変化
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この業績は岩崎の努力の結晶とはいえ、
ナショナルチーム日本コーチ鈴木陽二:「あれはね、100年に一度の奇跡だよ」
その奇跡が、千葉すずにとっては、最悪のタイミングで起きてしまった。
オリンピック以前に、『千葉すず』の持つスター性が予想以上の注目を集めた。
そのため、バルセロナではマスコミ・国民が期待するような結果が出なかった。
マスコミ・国民が求めるのはタイムや、入賞ではなく、あくまでわかりやすいメダル獲得。
千葉すずからすれば、これまでの努力を否定されたような思い。
さらに上乗せして、マスコミがほとんどノーマークだった
『岩崎恭子』が奇跡の金メダル獲得。
そして岩崎恭子の金メダルは、バルセロナ大会での日本唯一のメダルだった。
マスコミがもてはやす対象は、一気に『千葉すず』⇨『岩崎恭子』に移った。
彼女は元々マスコミが嫌いだったので、それで良かったが、
帰国すると待っていたのは、マスコミからの、
メダルが取れなかった『千葉すず』へのバッシングだった。
13.高校卒業後、アメリカ留学
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『バルセロナ・オリンピック』後は、
マスコミはメダル獲得できなかった選手には見向きもしない。
特に千葉の場合は、
マスコミによるオリンピック前の持ち上げ方が異様だったので、
マスコミの豹変ぶりは、はっきりしすぎていた。
実際にオリンピック出場選手の中でも、
メダル獲得者と、
そうでない選手では、
いろんな場面で扱いがあからさまに違う。
特に期待に応えられなかったことに対しての日本のメディアや国民からのバッシングに対して、千葉が反論しても、
『現に千葉すずより年下の岩崎恭子は、金メダルを取った』
と言われてしまう。
ところがその後、千葉は、
1993年 パンパシフィック選手権(神戸)に出場。
200m自由形 1'59'56=日本記録(日本人初2分の壁を破る)
400m自由形 4'10'93=日本記録
また日本新記録を出し始める。
1994年『千葉すず』は高校卒業後、
アメリカに留学。
ロサンゼルス近郊の『ゴールデンウェスト・スイミングクラブ』
ここには『バット・マカリスター』というコーチがいた。
※次回の記事に続きます。