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「紫式部と清少納言は会ったことあるの?」という疑問を解決します

こんにちは。こんばんは。
RAPSCALLI😊N です。

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学校の勉強や受験勉強、趣味で歴史の勉強をしていると、「何でこうなるの?」と疑問に思うことがよくあると思います。私は高校の時に日本史を選択し、受験では日本史の共通テストを解き、大学に入ってからも歴検一級の日本史にを受検するなど、長きに渡って日本史という科目と対峙してきましたが、勉強するなかで疑問は山のように積みあがっていきました。

今回は私が抱いた数ある疑問のなかの一つについて調べ、できるだけ簡潔にわかりやすく解説をできればと思います。暗記さえすればテストは乗り越えられるかもしれないけど、疑問に思ったことを追求してはじめて、日本史のおもしろさや奥深さに気付けると思います。

本日の疑問

紫式部と清少納言。平安時代の文学を代表する「源氏物語」「枕草子」を書いた二人の名前を知らない人はいないと言っても過言ではないくらい、有名な二人ですが、実はこの二人は同じ時代を生き、ほぼ同じ時期に宮中(天皇の住んでいる所)に仕えていました。このことは今年(2024年)の大河ドラマ「ひかる君へ」を見ている人にとっては言うまでもない話で、ドラマの作中では紫式部(まひろ)と清少納言(ききょう)が宮中で会話をするシーンが何度かあります。


では、実際にこの二人の文学の天才が対面したことはあったのでしょうか?それともこれは大河ドラマの創作に過ぎないでしょうか?

今回は「紫式部と清少納言は実際にあったことがあるのか」という疑問に答えていきたいと思います。


こういう人に読んでほしい

・紫式部や源氏物語、清少納言や枕草子に興味のある方
・紫式部、清少納言、二人の偉人の関係性について詳しく知りたい方
・日本史に関して新たな教養を身につけたい方
・大河ドラマを観ている方


そもそも紫式部・清少納言ってどんな人

この二人の名前と書いた作品を知っていても、どういう人なのか、どういう生涯を送ったのかは意外と知られていないかもしれません。ここでは紫式部・清少納言の二人の人生の概略、日本史を勉強していなくても大河ドラマを観たことがなくても分かるように解説します。

・紫式部
 藤原為時の娘として生まれ、幼い頃から漢文に対する才能を発揮する。藤原宣孝と結婚するが、夫に死別された後道長の娘・彰子の女房として宮仕えするようになる。また、宮仕えしている間に長編小説「源氏物語」を書き上げて天皇に献上をするなど、文学の才能を宮中で遺憾なく発揮した。また、彼女が書いた日記は「紫式部日記」として現在まで残っている。平安時代を代表する女流作家で、源氏物語は世界中で広く読まれている。

・清少納言
 清原元輔の娘として生まれる。夫の橘則光と離別した後、28歳くらいから中宮・定子の女房として宮仕えをし始める。宮中生活の中で経験したことを基に随筆「枕草子」を書き、宮中でも評判となった。しかし、定子の後ろ盾の藤原伊周・隆家が道長の策略で失脚してしまい、清少納言もその後は不遇な生活を送ったとされる。紫式部と並んで平安時代を代表する作家として有名である。

実際に2人は会ったことがあるのか

二人がどういう人物かおさらいした上で、「紫式部と清少納言は会ったことあるの?」という本題に戻りましょう。早速ですが結論を先に言うと、

一度も会っていない可能性が高い

残念ですが、直接対面した可能性は低いと思われます。なぜならば、紫式部が宮中に仕え始めた頃、既に清少納言は下向しているからです。宮中以外で会っている可能性もないわけではありませんが、そのような記録が残っていないので可能性はあまり高くありません。

じゃあ全く繋がりがなかったかというと、そうではありません。実は紫式部が書いた「紫式部日記」に、彼女が清少納言のことをどう思っていたか記述が残っています。直接会ってはいなくても、宮中で評判になっていたり、実際に枕草子を読んだりしたのでしょう。

紫式部は自身の日記にこのように記しています。

原文:
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。
 さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。 清少納言は、実に得意顔に偉そうにしていた人です。
 あれほど賢がって、漢字を書き散らしています程度も、よく見れば、まだとても未熟な点が多くあります。 かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。
 そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。

現代語訳:
清少納言は、実に得意顔に偉そうにしていた人です。
 あれほど賢がって、漢字を書き散らしています程度も、よく見れば、まだとても未熟な点が多くあります。
 このように、他人とは違おうとばかり思っている人は、かならず見劣りがし、先行きは悪くなっていくことばかりですから、思わせぶりの振る舞いが身についてしまった人は、ひどく無風流でつまらい時でも、しみじみと情趣にひたったり、また興趣深いことを見過ごすまいとしているうちに、自然とその折に適切ではない軽薄な振る舞いになるものです。
 そのように実意のない態度が身についてしまった人の行く末が、どうして良いことがありましょうか。

紫式部日記


なんと、紫式部は清少納言に対して、長々と悪口を言っているのです。直接会ってそう思ったのならまだしも、噂を耳にしたり、枕草子をよんだだけでこれだけの嫌味を書いてしまうとは相当なことです。

では、これは紫式部の本心なのでしょうか?人の悪口を日記に書くような、そんな嫌味たらしい人物だったのでしょうか?

勿論真実はわかりません。しかし、紫式部がこれだけの悪口を清少納言に向けて書いた背景に二つの理由が考えられます。

理由その1:政治的対立

紫式部・清少納言が生きた時代、宮廷では壮絶な権力争いが繰り広げられていました。後に藤原氏の全盛期を築いた藤原道長は、甥の伊周・隆家と対立していました。道長は娘の彰子、伊周・隆家は姉の定子が当時の天皇の一条天皇に嫁いでおり、両派閥とも天皇の子どもを産ませて時期天皇とすることで、権力を握ろうと画策していました。この頃定子に仕えていた女房の一人が清少納言でした。

結局対立は道長の勝利に終わり、伊周・隆家は失脚、定子は難産で亡くなります。また、清少納言は道長側と通じていると噂され、宮中を離れることを余儀なくされ、その後の人生の詳細は分かっていません。

その6年後に宮中に入ってきたのが紫式部です。紫式部はいわば定子のライバルである彰子の女房としてはたらき、彰子や他の女房達といわゆる「サロン」を形成していきます。逆に彼女の10年ほど前には清少納言を中心に定子サロンが形成されており、道長、彰子、紫式部はやはりライバルのサロンを越えるような文化的水準の高い場を宮中に作りたかったことでしょう。

紫式部日記は道長から依頼されて書かれたという説もあり、清少納言批判は自分たちのサロンの方が素晴らしいことを主張するために敢えて厳しい言葉で書かれたのかもしれません。

理由その2: 個人的なライバル視

紫式部が宮中に入った頃、清少納言はもういないものの、その評判は健在で、著作物の枕草子も流布していたことでしょう。

書物を書く紫式部のような才女が宮中に現れると、清少納言と常に比較されたりしていても不思議ではありません。このことに紫式部は嫌気が差して清少納言という会ったこともない人物に怒りを覚えるようになったのかもしれません。

また、実は枕草子の中で清少納言は紫式部の夫・藤原宣孝を批判しています。批判したのは御嶽参りに行く服装が派手すぎるという些細なことでしたが、紫式部がこれを読んで清少納言に多少の恨みを感じたのかもしれません。

今年の大河ドラマでは?

史実では二人は一度も会っていない可能性が高いということが分かっていますが、今年の大河ドラマではそれと異なるストーリーを描いています。私も今年の大河は所々しか見ていないのでわかっていないところもありますが、紫式部と清少納言は実際に何度も会っている設定で、かなり仲の良い二人として描かれています。やはりドラマとしてはこの二人の時代を代表する女流作家が共演をしないと面白くないのでしょう。

これからどうやって紫式部が清少納言を嫌いになっていくのか、そもそもそういうシーンをドラマに入れるのか分かりませんが、いづれにせよ今後の展開が楽しみです。

最後に

最後までよんでいただきありがとうございました。
今後も歴史の疑問に答える記事やその他学びになるような記事をどんどん書いていくので、興味のある方はスキ、フォロー、コメントを頂けると大変励みになります!

参考文献


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