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気づかぬうちに生き急ぎ過ぎていた

こういうことに気づけたのは、やはり休職することになったからだろう。出勤時に恐ろしく吐き気が襲ってきたり、一時期外に出られなくなってしまったのは、もちろん、感覚が鋭敏になってしまい、エネルギーの消費やストレス感知が著しく高まったためだろう。たが、おそらくそれだけではなく、症状が落ち着いてからも気づいたことがある。今まで、恐ろしく早歩きだったことだ。

症状が落ち着いているはずなのに、電車に乗ったり、他の場所へ向かったり、散歩をしているつもりでも、かなり足が痛くなる事が多い。それもマスクをよくつけているので、ちゃんと呼吸もせずに、息苦しくなりながらである。しかも、かなり速いスピードである。仕事をしていたときは、エスカレーターを歩いて登っていくたくさんのビジネスマンですら、自分より遅いので前を歩かないでほしい、と思っていたほどだ。ほとんど毎日、そのようにして速歩きしていては、自分をある意味鞭打しながら酷使していたのである。

いつからこんなことをしていたのだろうか。思い返せば、中学校から遠くの学校を受験して、1時間以上かけて通学していたときからだろう。大量の荷物を持っちながら、体力が有り余って、ひたすら速歩きを続けていた。そして、体力が衰えても、そのまま続けていたのである。


この速歩きが板についてから、INFPらしからぬ思想として、「時間を1秒たりとも無駄にできない精神」が生まれ、大学の受験戦争によりそれはさらに火が灯ることとなる。思考しすぎてしまいながら、効率を求めて自分をさらに稼働させ、余計に思考にもエンジンをかける。これを人生の大半の時間費やしていたんじゃないかと思う。


速歩きしすぎたせいで、自分の身体を酷使させていたり、人生で見落としていた色々なものを探し直すきっかけは、これまでもあったが、社会に戻るたびに、また効率重視モードに切り替えてしまっていた。今また時間が与えられ、自分の体と心と向き合わざるを得なくなっている。経済的に余裕があるわけではないし、人生の貴重な時間を食っている感覚はどうしても拭えない。こんな生活でいいのか、こんなことしてていいのか、悩みがないわけではない。しかし、今後は効率化スイッチを使いすぎない人生にしなければならないと思う。せめて外を歩いている間は、時間を忘れて周りの空気に感覚を研ぎ澄ませたい。


時間が決まった生活もしたくない。社会にいる以上、他人との時間の約束や、仕事の時間があり、時間制約のない生活なぞ無理な話だろうが、それでも、あらゆる約束の時間が近づくたび、緊張感が高まってしまうのもやめたい。美容院の予約、病院の予約、食事の予約、出発時間を自分で決めたとき、仕事に関するものでなくとも、自分の一生に深く関わる程の危機もないのに、緊張感に襲われてしまう。


こうしたらいいのでは、というのはまだ特に浮かんでない。せめて、顔を上げて、景色を見たり、息が上がらないように気をつけることだろうか。スローライフでもいいじゃないかと、思えるようになってきたので、自分の体にも伝えてあげたい。

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