漢文の訓読って面倒だよね

タイトル通り。でも、日本の言葉なり文学を勉強するのに漢文って重要だ、という話です。今回の内容はやや専門的です。

まず、日本語ってのはやまと言葉だけで出来てるわけじゃない。これはまあ、感覚的にわかるだろう。事実、ここまでのめちゃくちゃ短い文章でも十個ほど漢語を使っているし、逆に漢語由来の言葉を使わずに文章を作るとなったら苦労するに違いない。

これだけでなぜ日本の国語の授業で漢文をわざわざやる理由になるのか、といわれたらそんなことはない。多分高校生くらいの私が言われたら「寝言は寝て言え。というか帰ってクソして寝ろ。というか寝ながらクソしろ」と言い放つだろう。

大体、漢文って元々中国語だし、まさか昔の中国人が

少年易老学難成。

少年老い易く学成り難し。

なんてわざわざ日本語にして読んでたわけはない。頭から読んでいただろう。従って、「何故日本の国語の授業で漢文をやるのか」という疑問に対して「漢文を読めるようになることそれ自体を主眼に置いている」というだけでは説明がつかない。

むしろ漢文をやる意味というのは、日本の文章、つまり漢語とかそのレベルではなくて「日本語なり日本の文学作品の成立過程で漢文の訓読が関わっているため昔の日本語を考えるにあたって漢文の訓読をする必要があるから」といったほうが良い。

といっても実例がなければわかりにくいだろう。まずは極端な例から。日本で最初の公式の歴史書とその訓読のされ方から、「漢文訓読」について見てみよう。


【原文】
古、天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。

【書き下し文章】
古(いにしへ)、天地(あめつち)未だ剖(わかれ)ず、陰陽(めを)分かれず、混沌(まろかれ)たること鶏子(とりこ)の如く、溟涬(くくもり)て牙(きざし)含めり。

さて、この書き下し文、普段慣れ親しんだ漢文とはちょっと毛色が違うだろう。この文面、何処かで聞いたことがあるという方もいらっしゃるのではないだろうか? 実は『日本書紀』の冒頭である。

『日本書紀』は正式漢文である。つまり、書かれた当時の中国人が読んでも意味が通るような文章である。

ところが、その書き下しはまるで漢文訓読っぽくない。

古、天地(てんち)未だ剖かれず、陰陽(おんみょう)分かれず、渾沌(こんとん)たること鶏子(けいし)の如く、溟涬(めいし)にして牙含めり。

ならば漢文訓読っぽい。じゃあ何故最初に挙げた訓読文になっているのか、といえば、それは貴族が講読してきたといった享受史の問題になる。

『日本書紀』は講読の中で訓読が幾度となくなされ、漢文テクストであるにも関わらず、徹底的な和語化が為されてきたのである。

その訓読の歴史は平安の初期には既にあった。その貴族のノートがまとめられる形で鎌倉時代に『釈日本紀』といった形で記されたわけだ。

徹底的な和語化という営みを漢文を通して行ってきた。『日本書紀』一つ取っても漢文と古文は切り離せないということがわかる。

またあるいは、和歌について考えてみてもわかる。日本において有名な和歌集を挙げるとしたら何が挙がるだろう? 古い順から『万葉集』『古今和歌集』と挙がるはずである。

『万葉集』と『古今和歌集』とで一番の違いを挙げるとすれば、それは「見立て」の技法の有無だ。

『古今和歌集』の菅原道真の有名な歌

この度は幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに

といった歌のような「紅葉」を「錦」に見立てる、といった技法は『古今和歌集』くらいの時代からというのが定説だが、この背景には「国風暗黒時代」と呼ばれた漢文学メインの時代があった。

「見立て」の技法は漢詩の技法である。

また、最後の例として『源氏物語』の幻巻の歌を挙げよう。

大空をかよふまぼろし夢にだに見え来ぬ魂の行方たづねよ

『源氏物語』の幻巻はしばしば桐壺巻との呼応が指摘される。冒頭で「長恨歌」に擬えて記された訳であるが、幻巻でも同じく「長恨歌」の影響が見られるわけである。「長恨歌」から引用しよう。

鴛鴦の瓦冷やかにして霜華重く
翡翠の衾寒うして誰と共にせん
悠悠たる生死別れて年を経たり
魂魄曾て来たりて夢に入らず

さて、引用部最後の一行。実は現代の読みであれば「夢に入らず」なのであるが、金沢文庫本『白氏文集』の「長恨歌」では「夢にだに入らず」なのである。

金沢文庫本に従えば、恐らく当時の読み手は「ああ、これ長恨歌だな」と受け取ったと考えて良いだろうし、「一部を引用する」といった現象が文章に見られる限り、「元ネタをできるだけ元の形で読む」といったことが重要になると思われるのである。

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