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日本統治下の台湾における客家音楽


初めに

 日本統治時代の台湾で発売された音楽レコードの歴史は客家音楽に始まり、客家音楽に終わる。
 1910年代から1930年代までの台湾では台湾語の流行歌や伝統音楽のレコードが発売されており、台湾音楽の黄金時代と言っても過言ではなかった。この時代に台湾音楽の基礎を築く作曲家や作詞家、名曲が数多く輩出され、望春風(コロムビア80283-A、1933年)や雨夜花(コロムビア80300-A、1934年)と言った台湾語の流行歌は今でも歌い継がれている。
 しかし、この時期に発売されたレコードは台湾語やホーロー人の音楽に限らず、台湾に居住する漢人の中の別グループである客家人の音楽も発売されていた。ここでは当時の台湾で発売された客家音楽について紹介したい。

客家について

 日本統治時代の客家音楽について紹介する前に客家(Hakka, hagˋ gaˊ)について簡単に解説したい。現在、台湾の住民は基本的にホーロー人、客家人、外省人、原住民からなる四つのエスニックグループ(四大族群)から構成されており、客家人はその中でも二番目に大きな集団である。彼らは福佬人に次いで十七世紀頃に台湾へ移住した。また、客家はブリタニカ国際大百科事典では次にように記載されている。

中国の広東省を中心に広西,福建,江西の諸省に住み,移住民として在来の住民 (本地人) から区別されてきた住民をいう。ハッカは広東方言で,クーチヤすなわち客人の意。かなり古く,華北から南方へ移住した漢民族の一派ともいわれ,広東語系のハッカ (客家) 方言を話す。農業,手工業に従事し,海
外への移民も多い。
(中略)今日では多くのハッカが台湾,ホンコンほか,東南アジア諸国に移住している。

出典: ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 “ハッカ (客家) ”

 客家の語源が「客人」である通り、彼らは中国において流浪の民であり、各地に点在して居住する。そして、独自の言語や文化を有している。
 客家は政財界において多くの有名人を輩出しており、鄧小平やシンガポールのリークワンユー初代首相、タイのタクシン元首相、フィリピンのアキノ元大統領が挙げられる。また台湾の李登輝元総統も客家の子孫であるが、「福佬客(ho̍h-ló-kheh)」と呼ばれる福佬人(ho̍h-ló-lâng)に同化した客家人であり、母語が台湾語であるため、客家語は話せない。また、ここで忘れてはならないのは、台湾歌謡の父である作曲家の鄧雨賢(Then Yí-hièn)も客家人であった。
 次に日本統治時代の台湾において客家人はどのように認識されていたのかを当時の文献を通じて見ていくこととする。

移住は閩族の方が早くて粵族(廣東人)が後であったから、粵族は閩族のことを福老と呼び、閩族は粵族のことを客人(新來の意)と稱へて昔から二族親和しない。各一團をなして屢屢(しばしば)爭鬪すること數百年である。斯くして各一部落を成して言語、風俗などを異にして互いに婚嫁することなどは今日でも甚だ尠(すくな)い。

帝国最初の植民地台湾の現況(1919年)

臺灣で福建人と廣東人は元から仲が惡かった。時には戰争の眞似までやつたものらしいが、今では餘程融和している。反目でもした時には、福建人でも廣東人でも内地人同様、光輝ある日本國民だぞと聞かせるが。傳統的宿敵關係を有って居るから腹の蟲までは承知せないと見へる。福建人とは對岸の福州方面から來た者で全島至る所に住んで居る。廣東人は新竹州下に多いが南部の方にも散在して居る。孰れも支那から渡来して生蕃人を山の中に追い上げた連中であるが、福建語廣東語に分かれていて言葉が違つている。性質とは云へは福建人は温和で、廣東人は剛健として奉つて良い。福建部落には貧富の差が多いが、廣東村は割に揃ふている。廣東人は小兒がりに泣いて居つても菓子でも直ぐ買つてへるようなことは少ない頑固さが見へる。無論廣東人は意志堅固で何事でもウツカリかからない。文化協会の如きワイワイ仲間にも廣東人は入つて居らぬとのことである。福建人の女には纏足なる足の先きの少いさい吹けばヒヨロヒヨロしそうな者が居るが、廣東人にはこれが全くなく女でも良く働く、廣東人女が日傘をさして足の先で他の草取りをやつて居るのは珍である。廣東人女は働くだけ骨格が良く色が赤黒く白粉など塗る者は田舎には至つて少なく勝手に取つては上々吉である。

面白い台湾(1925年)

 清朝時代に分類械闘と呼ばれる族群(エスニシティ)同士の争いが頻発していたためか、少なくとも大正時代までは客家人とホーロー人とでは相容れない関係であったようだ。また、両者の文化や言語が異なることはもちろんのことであるが、客家人が比較的裕福である記述もあり興味深い。
 日本統治時代の台湾では「客家」という単語は用いられておらず、彼らは「粤族」あるいは「広東人」と称されていた。また、彼らの言語についても客家語ではなく「広東語」と呼ばれていた。のちに紹介する楽曲の区分についてもレコード上では「広東音楽」や「広東語流行歌」という用語が用いられている。しかしながら、香港や中国の広州周辺で使用されている広東語と客家語は別言語であり、類似する発音はあるものの、互いに意思疎通を行うことはできない。
 余談ではあるが、当時の台湾語と同様に広東語(客家語)は漢字で表記されており、かつ発音を記載するためにカタカナを用いた「広東語仮名」が編み出されていた。例えば、広東語仮名で客家のことを「ハㇰカア」と表記する。

日本統治時代にレコード化された客家音楽

 ここから日本統治時代の台湾でどのような客家音楽がレコード化されたのか、簡単に紹介したい。

1. 客家八音

 客家八音は客家を代表する音楽である。八音とは「金、石、絲、竹、匏、土、革、木」といった楽器の材料を指している。典礼儀式や歓迎、宴会の際に演奏されていた。演奏形態は「吹場」と「弦索」(吹奏楽と弦楽)の二種類から成り立っており、主な楽器はチャルメラである[2(中)]。その他二胡や銅鑼も用いられる。
 初めて発売された台湾音楽のレコードは日本蓄音器商会から発行された「一串年(4000、1914年)」と「大開門(4001、1914年)」であり、両面ともにも客家八音のレコードであった(レコード番号は異なるがそれぞれA面B面の曲である)。また、1940年代前半にビクターレコード(勝利曲盤)からも「結婚行進曲(FJ-1201)」や「一串蓮(FJ-1201)」のレコードが発売されたそうだ。日本統治時代の台湾音楽レコードの歴史は文字通り客家音楽に始まり、客家音楽に終わった。

2. 採茶戲

 採茶戲(caiˋ caˇ hi)は日本語に訳すと茶摘み劇であり、いわゆる客家オペラのことを指す。台湾語の歌仔戲(kua-á-hì)と同様に人気があり、数多くのレコードが発売された。レコード上では主に「改良採茶」や「廣東採茶」、「新款採茶戲」と区分された。
 ここでは1930年にコロムビアレコードから発売された「遊河南(80019)」を紹介したい。「遊河南」は小鳳園と言うグループによって演じられており、メンバーは林泰山、張福來、清香である。特筆すべきはメンバーの一人である清香はコロムビアレコードで数多くの台湾語ヒット曲を歌った人気歌手である純純(本名は劉清香)のことである[3(中)]。彼女は13歳の際に歌仔戯の劇団に加わったとされており、その際に客家オペラも覚えたのだろうか。客家語と台湾語は全く異なる言語であるものの、劇団員は両言語を介する者も少なくなかったのだろう。族群(エスニシティ)の垣根を超えた一種の文化交流が行われていたと推測される。

3. 流行歌

 数は多くないが客家語の流行歌も発行された。オーケーレコードからは「誤認君(3314、1934年)」や「夜深(3314、1934年)」、黒リーガルレコードからは「仰頭看天(T230-A、1934年)」と「送情人(T230-B、1934年)」が発売された。送情人は当時台湾で流行した「雪梅思君(イーグルレコード 19009~19010、1931年)」が原曲である。

4. その他

 日本統治時代の台湾で客家音楽として発売された音楽に「勸世文」というジャンルがある。もとは薬商人であった蘇萬松が商売の宣伝のためバイオリン片手で歌っていたところ一世を風靡し、レコード化された。当初は警察から取り締まりを受けていたものの、歌詞の内容が善行や親孝行、アヘンや賭博をやめることを進める内容であったことから次第に警察当局からも認められることになった[4(中)]。コロムビアレコードから「孝子堯大舜(其一)~ (其八)(80208~11、1933年)」や「救母菩薩(一)~(四)(80254~55、1934年)」などが発売された。

客家音楽を発売したレコード会社

 ここでは客家音楽のレコードを発売したレコード会社を紹介したい。日本統治時代の台湾では現地語での音楽が発売されており、日本の大手レコード会社からローカルの会社までもが発売を手掛けていた。

1. コロムビアレコード(古倫美亞唱片)

 台湾で初めて現地の音楽をレコード化したのはコロムビアレコードの前身である日本蓄音器商会だ。最初に発売されたレコードは客家八音の楽団による演奏曲であった。日蓄台北出張所の責任者である岡本檻太郎が客家の演奏家を15名日本に招いて「一串年(4000、1914年)」や「大開門(4001、1914年)」といった客家八音の楽曲が録音された[3(中)]。その他客家音楽は採茶劇や勸世文をメインに発売していたが、数は多くない。

2. 黒リーガルレコード(黑利家唱片)

 コロムビアレコードの廉価ラインとして販売されていたレーベルである。採茶劇や管弦楽、流行歌のレコードを発売していた。

3. 赤リーガルレコード(紅利家唱片)

 こちらも同じくコロムビアレコードの廉価ラインとして販売されていたレーベルである。採茶劇のレコードが発売された。

4. オーケーレコード(奧稽唱片)

 1933年に陳英芳蓄音機商会が立ち上げたレーベルである[1(中)]。このレーベルも数多くの台湾語流行歌や歌仔戲、伝統音楽のレコードを発行していた。製造はテイチクレコードが行っていた。当時テイチクレコードは朝鮮半島でもオーケーレコード(오케ー레코ー드)を展開しており、レーベルのデザインも同一であることから、台湾ラインとして市場展開していたのだろう。
 また、客家語音楽のレコード販売にも力を入れており、初めて客家語流行歌を発売したのはオーケーレコードである。

5. 美楽レコード(美樂唱片)

 他のレコード会社と異なり、客家語音楽をメインで販売していた珍しいレーベルである。辻利茶舗レコード部[3(日)]が運営していた。制作は京都昭蓄レコードスタジオで行われた[3(日)]。辻利茶舗は宇治茶や抹茶で有名な祇園辻利の前身であり、当時台湾に進出して事業を展開していた。現地では茶のみならず、レコード事業も展開していたようだ。

6. ビクターレコード(勝利曲盤)

 当時の台湾でコロムビアレコードに次いで大手のレコード会社。1934年から台湾語流行歌のレコードの発売を開始した。
 ホーロー人の音楽をメインで取り扱っていたため、客家音楽の発売は少ないが、1940年代に客家八音のレコードをいくつか発売していたようだ。

台湾のレコード産業と客家音楽の市場性

 ここまで客家音楽を発売したレコード会社を見てきたが、台湾のレコード産業と客家音楽レコードの市場性に関して簡単に考察してみたい。1930年代はレコード産業の戦国時代であると施[6(中)]は表現しており、数多くのレコード制作会社が設立され、各社がしのぎを削っていた。
 客家音楽の市場性を考察するにあたり、まず客家音楽の市場規模について確認したい。昭和7年時点での台湾における本島人(原住民含む、内地人・朝鮮人等を除く)の総人口は4,641,686人であり、そのうち客家人の人口は696,140人(15.0%)であった[3(日)]。レコード会社は営利目的で音楽レコードの販売を行うことを考慮すると市場のない、儲かる見込みのない音楽については販売を積極的に行わないことが推測される。実際、当時発売されたレコードで台湾原住民の音楽はごくわずかに存在したものの、伝統音楽の録音(日月潭の杵唄 コロムビアレコード 80422、1929年・1943年)やホーロー人向けにアレンジされた物であり、彼ら向けの音楽については発売されていなかった。それには彼らの所得水準や人口比率[3(日)](4.3%、熟蕃・生蕃の合算)が関係していたと思われる。
 ここからは当時の台湾における蓄音機やレコードの価格を確認したい。当時蓄音機は高級品であり、施[6(中)]によると1930年代の電気蓄音機価格は150円から600円であった。廉価版の蓄音機も携帯型で最低28円から販売されており、例え奢侈品であったとしても、中・上流階級にとっては手が届かないことはなかった。レコードの価格は林[7(中)]によれば1933年のコロムビアレコードは1.5円/枚、黒リーガルは0.85円/枚である。また、1938年においてはコロムビアレコードが1.65円/枚、赤リーガルが1.2円/枚、黒リーガルが0.9円/枚と価格が上昇している。
 次に当時の本島人の賃金レベルについて確認したい。施[6(中)]が「台灣省五十一年來統計提要」の情報をまとめたところによると、例えば1933年の日給は臨時工で本島人は0.70円、内地人で1.00円、電気工で本島人は1.60円、内地人で2.12円、庭師で本島人は2.00円、内地人で3.00円であった。1938年は臨時工で本島人は0.85円、内地人で1.50円、電気工で本島人は1.37円、内地人で1.74円、庭師で本島人は2.50円、内地人で3.50円であった。ここでは一カ月当たり約27円から75円稼ぐことができると指摘している。また、警察官の月収は45円、教師は45円から55円であった。1933年から1938年の給与上昇を鑑みると一定の経済成長がなされていると同時に、台湾住民にとって蓄音機やレコードといった娯楽に消費できる余裕も増えたことが想像できる。施[6(中)]も指摘しているように1930年代に農業型社会から工業化社会へと移行したことも、レコード市場が拡大した一端を担っているのであろう。
 上記で紹介した「面白い台湾」の記述にある通り、客家人はホーロー人と比べ比較的に裕福である記述がなされている。当時の本島人の族群ごとの所得に関するデータはないものの、客家人の購買力はホーロー人よりも高かったことが推測される。その点を考慮するとレコード会社自身が客家語の音楽レコードを発売しても全く売れないといったことが発生しないと判断したのではないか。人口比率では15%程度の集団であったが、一定の市場や購買力を有している点で、レコード販売による売上を拡大するために各社がこぞって客家音楽のレコードを販売したのであろう。
 当時の台湾で販売されたレコードは台湾域内のみならず、対岸の福建省や英領マラヤ、仏領インドシナといった東南アジアへも輸出されていた。施[6(中)]によれば1936年から1937年にかけて毎年約10万枚のレコードが英領マラヤに輸出されており、「南洋各地は台湾語流行歌レコードの最大消費市場であった」との証言があるとしている。資料はないが、輸出されたレコードの内、客家音楽がどれだけ占めていたかについても関心があるところである。

最後に

 2021年時点での台湾の総人口は2,356.1万人であり、そのうち客家人の人口は466.9万人である(19.8%)[8(中)]。客家人は台湾において漢人の中ではマイノリティであるものの、一定の存在感を示している。台湾が民主化された後、各種社会運動が発生し、台湾各地の客家人も共通の政治的権益を求めて共に行動するようになり、客家運動が発生した[5(日)]。また、エスニックな概念としての「客家」を受け入れた結果新たに構築された客家意識は、1980年代後半になり客家運動という形で顕在化する[5(日)]とも記述されている。この時代から台湾ナショナリズムの流れから「客家」というアイデンティティが顕在化したが、それは同時にホーローショービニズム(ホーロー人のことを台湾人と称し、ホーロー語のことを台湾語と称してはばからないホーロー人の態度のこと)への対抗でもあった[5(日)]。また、1990年代後半になると客家文化政策が積極的に示されるようになり、客家語メディアの設立、行政院客家委員会や地方政府の客家事務委員会の設立、客家関連施設の建設など次々と実現されていく[5(日)]。
 一般的に台湾人アイデンティティが生まれたのは、日本統治時代からと言われている。若林[6(日)]は台湾人アイデンティティを「台湾大(サイズ)」の社会統合を基礎として、日本国と「内地人」が押し付ける「本島人」という「二等臣民」のアイデンティティとステータスにあらがう知識人らの言説や運動により、清朝時期に定着したホーロー・客家のアイデンティティの上に、想像され創造されたとしている。この時代にも台湾が民主化された時と同様に、当時の客家人は何らかの形で自らのアイデンティティや文化を表現することを試みたのではないだろうか。それを知る上で、当時発売された客家音楽が一種のカギになるのではないかと思う。当時の台湾で発売された音楽レコードの多くはホーロー人向けであったため、一種のホーローショービニズムを当時の客家人も感じていたのかもしれない。客家音楽のレコードを出すことでアイデンティティの表出に結びつき、自らの存在を他社に対して示すことが可能となる。また、流行歌といった形で自らの言語や文化に対して創作を行うことで、客家という集団への帰属意識を醸成することにもつながったのではないだろうか。
 日本統治時代に台湾住民が音楽を通じどのようなこと考え、何を感じたのかということについては、資料が多くないため計り知ることができない。しかし、音楽は生活との関わりが強く、かつ当時では娯楽であるといった側面がある。そのため、この時代に発売された音楽は当時の台湾住民の生活習慣や風習・嗜好、さらにはアイデンティティ形成への影響を測る手がかりとなるであろう。


参考文献・ウェブサイト

日本語

  1. 広松良臣 [1919]『 帝国最初の植民地台湾の現況』 台湾図書刊行会

  2. 茅野湾久 [1925]『 面白い台湾』 朝日印刷出版部

  3. 内務省警保局 [1938]『 蓄音機レコード製作所並發行所明細表 昭和13年末現在』 内務省警保局圖書課

  4. 台湾総督官房調査課 編 [1933]『 台湾現住人口統計 昭和7年末現在』 台湾総督官房調査課

  5. 田上智宜 [2007]『 「客人」から客家へ ―エスニック・アイデンティティーの形成と変容― 』 日本台湾学会報 第九号(2007.5)

  6. 若林正丈 [2001] 『台湾―変容し躊躇するアイデンティティ』 ちくま新書

中国語

  1. 林太崴 [2015] 『玩樂老臺灣』 五南

  2. 客家八音 文化部文化資產局--國家文化資產網

  3. 小鳳園的清香與流行歌手純純 開放博物館

  4. 何來美專欄/緬懷客家勸世歌王蘇萬松 HakkaNews

  5. 第一張商業販售的臺灣音樂唱片 - 臺灣音聲一百年

  6. 施慶安 [2012]『日治時期唱片業與臺語流行歌研究』 国立成功大学

  7. 林太崴 [2009]『日治時期臺語流行歌的商業操作-以古倫美亞及勝利唱片公司為例』 《臺灣音樂研究》 8期 (2009/04) Pp. 83-104

  8. 110年全國客家人口暨語言基礎資料調查研究報告 客家委員會


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