
OH!へんろ。親子の88か所巡り(73番札所):我拝師山 出釈迦寺(香川県)
わたしが、子どもたちと決めた今回のお遍路ルールは一つだけ。納経所で御朱印をいただくのは子どもたちの役割ということ。ちゃんと挨拶をして、御朱印をお願いし、最後はしっかり御礼をする、です。
今日の煩悩:
出釈迦寺に上る道に石碑がありました。「悪に染まらず、善に着かず中道これ正なり」。よい言葉です。
悪というのは、種類にもよりますが、結構ですね「人間らしさ」がもとになっているものがあります。なので、まだ、救いわれます。
北斗の拳でラオウが「愛はいらぬ~」と雄たけびを上げるのは翻訳すると「愛がほしい。でも、得られないと思った時が怖い」と雄叫びを上げているわけです。
難癖をつけて蟹股で歩く人も、道行くワンちゃんに対して「何ガンつけてんだ!?」とか言いません。言ってもいいけど。つまり、ちゃんと、人間同士のやり取りに関心を持っている証拠です。本質的に人間好きなのです。
問題は、過去にもいろいろな思想家が述べていることですが、「善に着く」ということの方が怖いということです。独善という言葉の通り「善」に居付くことは頭を硬直化させます。
哲学者のユヴァル・ノア・ハラリさんが、ホモ・サピエンスの認知革命などで本を書いていますが、前頭前野の発達とドーパミンの作用で目の前に存在していない人(亡くなった人、遠くに住んでいる親戚等)のことを考えられるようになったり、未来について想像できるようになったり、そうした人々とストーリーを共有させることが、宗教(まあ、イデオロギーも)を発展させていったと考えられます。
仲間でストーリーを共有することで、多くの人間が仲間意識や協力行動をとることができる一方で、ストーリーを共有できていない人(ほかのストーリーを共有しているグループ)とはわかりあうことが難しいという現象が起こります。その時、「自分たちのストーリーが正しい」「ほかは間違い」とお互いが主張すると、戦争の火種となることがあります。
「メサイヤ・コンプレックス」という言葉があります。「自分は救世主である」といった思いを無意識に抱えているかのように、必要以上に他人や社会あるいは組織を救いたがる心理を指します。
「自分たち以外は正しくない」という「正義感」「善」の基準に居付くことの危険さがわかりますね。
御詠歌:
迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出づる釈迦寺
本尊:
釈迦如来
創建:
奈良後期〜平安時代前期
真言:
のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
歴史:
縁起によれば、弘法大師が7歳の時に、我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、釈迦如来と天女が舞い降り、紫色の雲の中で弘法大師を抱きとめたそうです。弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で釈迦如来像を彫像、安置し、堂宇を建てたといいます。
所在地:
香川県善通寺市吉原町1091
駐車場:
あり