『すずめの戸締まり』感想 自己愛と自己犠牲
2022年12月23日、私はすずめの戸締まりを見ました。
とてもとてもいい映画でした。
今回は私がすずめの戸締まりを見て、感じたこと・考えたことを話していきたいと思います。
*ネタバレを含む内容となっているのでご了承ください
小説版も読んでおり、この文章の中で引用する際には小説版を参照しています
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それぞれの戸締まり
映画すずめの戸締まりは"回復"の物語である。
回復
1. 悪い状態になったものが、もとの状態に戻ること。また、もとの状態に戻すこと。
2.一度失ったものを取り返すこと。
登場人物それぞれが何かを失っていて、それに伴う問題を抱えている。
この作品はそれを取り返す、もとに戻す物語なのだ。
ここでキーワードになるのがタイトルにもある"戸締まり"という言葉である。
戸締まりは扉や窓を閉め錠をするという行為そのものではあるが、では私たちがいつ戸締まりをするかというと出かける時であったり、夜に寝る前であったりと他の行為の準備として行われるものである。
つまり戸締まりをすることは逆説的に未来を見据えた行為なのである。
この未来に目を向けることが登場人物らの回復に必要なものであり、この意味において"戸締まり"とは一つのメタファーになっている。
そしてそれは主人公に目を向けたらすずめにとっての”戸締まり”なのであって、また登場人物それぞれが自分の"戸締まり"をしている。
ここからは登場人物がどのような戸締まりをしたのかを見ていきたいと思う。
鈴芽の場合
鈴芽における戸締まりは自分の価値の確認であった。
鈴芽は4歳の頃に天災という人の力が意味をなさない理不尽によって母を失っている。
その果てしなく辛い体験は、鈴芽に自身の生をいとも簡単に消えてしまうものだと思わせたのである。
故に鈴芽はそのような不安定なものの上に成り立っている今の自分に価値がないと思い込む。
初めて蚯蚓と対峙することになったシーンで鈴芽の無茶な行動に、草太が「死ぬのが怖くないのか!?」と問うた時も、鈴芽は「怖くない!」と何の迷いもなく言い切るのである。
また自分を大切に思って気遣ってくれる環叔母さんに対しても鈴芽は冷たくあたってしまうのだ。
このように鈴芽は自分の価値を信じられないがために、自分を粗末に扱うような振る舞いをするのであった。
そんな鈴芽は草太と出会い、共に旅の中で自分の価値を再発見していく。
鈴芽の旅を簡単に振り返ろう。
愛媛では仲良くなった千果の家族にお世話になり、神戸では子持ちのシンママの家にお世話になり、東京では草太の家で1人になり、地元に帰る道では環叔母さんや芹沢はいるものの、最終的には過去の自分と1人で対峙する。
これは彼女自身の人生の追体験でなかろうか。
両親と子どもの家庭→母と子ども家庭→一人暮らしの家と鈴芽が旅の中でお世話になった宿は、最初から欠けている部分も含めて彼女の人生における家族の形を追体験するものとなっている。
(小説版では母子家庭であったという内容の記述あり)
このことは鈴芽にとっては無自覚だったかもしれないが、戸締まりという観点からは必要な体験だったと思われる。
そして 旅の中で鈴芽にとって何より大切だったのが草太の存在である。
草太のことを夢で見たその日に登校中で出会い、所謂一目惚れのような形で鈴芽は颯太と関わり始めていく。
草太は日本各地に現れる後ろ戸を閉めることを生業とする「閉じ師」であった。
そして鈴芽は草太と関わる中で閉じ師の仕事の一端を担うこととなる。
この閉じ師として仕事を通して鈴芽は自分が人のために役に立つことができると実感できるようになる。
愛媛に現れた後ろ戸を草太とともに閉じた後のシーンでこれが顕著に表れていた。
草太 やったな、鈴芽さん。君は地震を防いだんだ。
鈴芽 え・・・ (地震を防いだ。私が?) ほんとうに?
熱い波のような感情がお腹から湧き上がってきて、私の口元を笑顔にしていく。
鈴芽 ・・・嘘みたい!やった、出来たっ、やったあっ!
(中略)
私の服も、きっと顔も、泥だらけだ。それが何かの証しみたいで、こんなことまでも誇らしくて嬉しくて楽しい。
鈴芽 ねえ、私たちって凄くない?
純粋に発せられた「私たちって凄くない?」や汚れた服に誇らしさや嬉しさ、楽しさを感じていることから、この経験がいかに鈴芽に自信を与えたかを理解するのは難くない。
その後も草太への想いと自分の価値を感じるため、鈴芽は「閉じ師」の仕事を続けながら旅をしていくのである。
そして鈴芽が自分の価値に関する考え方に明らかな変化が読み取れる出来事として、草太が要石になってしまうと出来事がある。
ダイジンに草太は要石に変えられてしまい、超常的な存在として現世を守る役割を課せられることになった。
このために鈴芽は草太を失ってしまうことになるのだが、何とか助けるために奔走するのである。
羊郎 —あなたは怖くないのか?
その問いに私は草太さんの声を思い出す。
(中略)
鈴芽 ・・・怖くなんてない
私はおじいさんを睨め付けるように言った。
鈴芽 生きるか死ぬかなんてただの運なんだって、私、小さい頃からずっと思ってきました。
でも—— でも。でも今は。
鈴芽 草太さんのいない世界が、怖いです!
両の目の奥が熱かった。涙が勝手に溢れそうだった。でももう泣きたくなんかなくて、私はまぶたをぎゅっと閉じた。
ここでの鈴芽と草太のおじいさんとのやりとりの中で、彼女の人生観が大きく変わっていることが伺えるだろう。
これまでは抗うことのできない運がもたらす思っていた死というものに鈴芽が立ち向かおうとしているのである。
ここには草太への恋情的なものも当然あるだろうが、鈴芽が自分自身を以って抗することができるという自信を持ったという精神的成長も大きなものだと思われる。
そして物語においても鈴芽にとっても戸締まりそのものであったと言えるのが、常世で過去の自分と邂逅する場面だ。
常世で鈴芽は母親を探して彷徨い込んでしまった当時の幼い自分に出会う。
当時の心情をまざまざと思い出しながら鈴芽も幼い自分と一緒に涙を流す。
ただ鈴芽は「泣き止まなくてはならない」と思うのである。
それは今の鈴芽はそれから12年生きていて1人でもないが、当時の鈴芽は1人であると気づいたからであった。
鈴芽 ・・・何て言えばいいのかな
あのね、すずめ。今はどんなに悲しくてもね——
すずめはこの先ちゃんと大きくなるの
だから心配しないで。未来なんか怖くない!
ねえ、すずめ——。あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを好きになってくれる誰かともたくさん出会う。今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る。朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。必ずそうなるの。それはちゃんと決まっていることなの。誰にも邪魔なんて出来ない。この先に何が起きたとしても、誰もすずめの邪魔なんて出来ないの。
あなたは、光の中で大人になっていく。
幼鈴芽 お姉ちゃん、だれ?
鈴芽 私はね——
私は、すずめの、明日。
「あなたは、光の中で大人になっていく。」このセリフが全てであるように思われる。
これは未来の鈴芽からの約束であり愛情なのである。
理不尽に曝され絶望の淵に立たされている幼い鈴芽に対して、鈴芽は(幼い鈴芽からしたら)無条件的に未来を肯定することで救済しようとする。
ここには自分への大きな愛があり、それを授かっていたことを鈴芽は思い出す。
これを以って鈴芽の戸締まりは完遂されるのである。
草太の場合
草太の戸締まりもまた自分の価値の確認であった。
ただ鈴芽のそれとはまた違う意味で草太は自身を等閑にしていたのである。
草太は自分の人生よりも閉じ師としての役割の全うを第一にしていた。
それは彼が後ろ戸を閉じることを、大学4年の集大成である教員採用試験より優先していたことからも明らかである。
また草太の「大事な仕事は、人から見えない方がいいんだ」という台詞からも、閉じ師としての仕事によって草太自身が評価されることを求めていないことがわかる。
そんな草太であったが、鈴芽と出会って、と言うよりダイジンに鈴芽が母親から作ってもらった椅子に閉じ込められることで閉じ師というロールとの付き合い方の変更を余儀なくされる。
椅子になった姿では1人で満足に閉じ師の仕事をこなせなくなったため、鈴芽と共に後ろ戸を閉じていくことになる。
(これは草太が頼んだ訳ではなく、寧ろ鈴芽が半ば強引に手伝おうとしたのだが、、)
その旅の中で椅子の姿にはなったものの、草太は鈴芽と多くの時間を共にすることになったのだ。
草太の内面が描かれることはあまりないが、彼が要石になりそうになった場面と実際に要石になった場面を比較することでこの物語を通して彼がどのように変わったかを検証することができる。
神戸で後ろ戸を閉じた後
砂浜に着いた素足が、氷に覆われている。カチカチとまるで虫が鳴くような小さな音を立てながら、分厚い氷がみるみるとその範囲を増していく。
(中略)
そうか、と彼は思う。
(中略)
草太 ここが俺の、行き着く先か——
口元に微笑みの形を浮かべ、彼はうなだれる。
(中略)
?? ——
遠くから、誰かの声がする。しかし広がっていく無の甘さに彼はまどろむ。 ?? ——
誰だ。彼は不意に苛立つ。なぜこのままいかせてくれない。俺はまどろみを選んだのに。ようやく、今度こそ、全てが消えるのに。
この段階ではまだ草太の役割に徹しようという心意気が見て取れる。
直接的には草太自身の行く末を言葉にはしていないものの、自身を殺してでも”閉じ師”を全うしようとしているのである。
しかしそれを「広がっていく無の甘さ」と感じているのは、草太が役割に身を投じることにどこか楽さを感じているようにも思える。
だからこそ、”草太”としての人生を消そうとしたのに引き戻されたことに苛立ちを感じたのではなかろうか。
東京の蚯蚓の上で
草太 ・・・すまない、すずめさん
鈴芽 え?
草太 すまない——
ようやく分かった——今まで気づかなかった——気づきたくなかった
鈴芽 え、ちょ、ちょっと
草太 今は——
今は——俺が要石なんだ
鈴芽 え・・・?
(中略)
草太 ああ——これで終わりか——こんなところで——
鈴芽 草太さん?
草太 でも——俺は——
俺は——君に会
草太が要石になる直前で途切れてしまった言葉と彼の心情については、常世で鈴芽が草太を人間に戻すときに彼の記憶を追体験する中で明らかになる。
ああ——これで——。
これで終わりか——こんなところで——。
でも俺は——君に会えたから——。
君に会えたのに・・・!
消えたくない。
もっと生きたい。
生きていたい。
死ぬのが怖い。
生きたい。
死ぬのが怖い。
生きたい。
生きたい。
生きたい。
もっと——・・・
この場面では一転して、草太はいざ”閉じ師”以外の自分の要素が捨象される要石になることに改めて直面したときに、それを拒絶するのである。
先の場面との違いといえば鈴芽と対面しているかという部分であろうか。
そう鈴芽こそが草太に旅の中で一人の人として関わり、そのために草太は”草太”としての人生に価値を見出すことができたのだ。
「でも俺は——君に会えたから——。君に会えたのに・・・!」の台詞は、閉じ師として生きてきた草太が、一人間草太として感情を発露した瞬間であるように思われる。
そしてその後堰を切ったように草太として在りたいという思いが溢れている。
この閉じ師ではない”草太”としての生を選ぶということが、草太にとっての戸締まりなのである。
環さんの場合
環さんの戸締まりは、鈴芽に対する想いの清算である。
環さんは鈴芽にとっての叔母にあたる人物であり、天災で親を亡くした4歳の鈴芽を引き取り女手一つで育てた。
物語においては突如旅に出た鈴芽に大量の或いは長文のLINEを送ったり、九州から東京まで駆けつけたりとちょっと過保護ではと思われるような面もある。
そんな環さんであるが、鈴芽に対して何も思うことがなかったという訳でもない。
環 あんた分からんと!?私がどんげ心配してきたか!
鈴芽 ——それが私には重いの!
環 もう私——
しんどいわ・・・・・・ 鈴芽を引き取らんといかんようになって、もう十年もあんたのために尽くして・・・馬鹿みたいやわ、わたし
どうしたって気を遣うとよ、母親亡くした子供なんて
あんたがうちに来た時、私、まだ二十八だった。ぜんぜん若かった。人生で一番自由な時やった。なのに、あんたが来てから私はずっと忙しくなって、余裕がなくなって。家に人も呼べんかったし、こぶ付きじゃ婚活だって上手くいきっこないし。こんげな人生、お姉ちゃんのお金があったってぜんぜん割に合わんのよ
鈴芽 そう—— だったの・・・?
でも私だって——
私だって、いたくて一緒にいたんじゃない 九州に連れてってくれって、私が頼んだわけじゃない!環さんが言ったんだよ!うちの子になれって!
環 そんなの覚えちょらん! あんた、もううちから出ていきんさい! 私の人生返しんさい!
これはサダイジンが環さんに乗り移った(?)ような形でのカミングアウトではあったが、決して嘘を言ってる訳ではない。
心の奥底に押し込めながらも、環さんがずっと抱えていた思いなのである。
母親を亡くして不憫な鈴芽を見て衝動的に「うちの子になりなさい!」と鈴芽に言ったものの、ずっと我慢を強いられてきたのであった。
では鈴芽を引き取ってからの12年間を本当に返してほしいと環さんが思っているかというとそういう訳でもない。
環 あのね、
駐車場で私が言ったことやけど——
胸の中でちょっとは思っちょったことはあるよ・・・。——でもそれだけではないとよ。
ぜんぜん、それだけじゃないとよ
「ぜんぜん、それだけじゃないとよ」この台詞に環さんの想いの全てが詰まっている。
カミングアウトしてしまったことも確かに思ってしまうようなこともあったけど、それ以上に鈴芽を大切に想っていたんだということを伝えている素晴らしい台詞である。
「うちの子になりなさい!」と言ったときは、鈴芽が幼かったのは当然として環さんもまだ親としては未熟であった。
ただ12年という時を経て2人は大人になり暗黙裡だったことを明るみになっても、環さんの言葉を以ってそれ以上の関係性であったということを2人で再確認することができた。
このことを鈴芽に伝えられたことが、環さんにとっての戸締まりなのである。
ダイジンの場合
ダイジンの戸締まりは自身の役割の遂行である。
ダイジンは要石の封印から解かれて白い猫の姿となって鈴芽たちの前に現れる。
そして鈴芽の何気ない「うちの子になる?」の言葉を受けて、その鈴芽の優しさや愛情の虜となって彼女と一緒にいようとするのである。
そしてダイジンが鈴芽といる上で障害となる草太を排除しようとするのだ。
ダイジンは草太を鈴芽の椅子に閉じ込めたかのように思えたが、実は自身が担っていた要石の役割を草太に与えていたことが明らかになり、鈴芽はダイジンを拒絶する。
ダイジン すーずめ
すずめ、やっとふたりきり
鈴芽 ダイジン!
あんたのせいで—— 草太さんを返して!
(中略)
ダイジン すきじゃないのぉ?だいじんのこと?
鈴芽 はあっ? 好きなわけ——
ダイジン すきだよねえ?
鈴芽 大っ嫌いーー!
(中略)
ダイジン ——すずめは だいじんのことすきじゃなかった・・・
このように鈴芽から強い言葉で拒絶されたダイジンは老猫かのような見た目になって、鈴芽の前から姿を消すのであった。
しかし鈴芽の地元では再びダイジンが現れ、探していた後ろ戸へと鈴芽を案内するのである。
そして鈴芽から「ありがとう!」と感謝を伝えられるとまた元の大福のような可愛らしい姿へと戻るのであった。
また常世において鈴芽が草太を救おうとした際にもダイジンはまた手助けをするのであった。
ダイジン いしぬいたら みみず、そとにでちゃうよ
鈴芽 私が要石になるよ!
(中略)
ダイジンは口を大きく開け、椅子の脚をくわえる。・・・手伝ってくれているのだ。
(中略)
ダイジン だいじんはね——すずめの子には なれなかった ・・・
一度開かれたダイジンの瞳が、また閉じていく。軽かった仔猫の体が、石のように重く、ますます冷たくなっていく。
鈴芽 ・・・ダイジン?
ダイジン すずめのてで もとにもどして
鈴芽 ——!
鈴芽は自分を犠牲にしてでも草太を救おうとするが、ダイジンは鈴芽のために自らがまた要石となることを選ぶのである。
そして(ダイジンの視点からは)自分に好意を注いでくれた鈴芽と別れ要石になる最後の瞬間を鈴芽に託したのは、ダイジンが最後まで鈴芽に好意を抱いていたことの表れだ。
この自分が元の姿に戻ることを決めること、またそれが鈴芽の手を以って行われるように依頼することが、ダイジンの戸締まりである。
自己愛と自己犠牲
ここまで4人の戸締まりについて確認してきたが、私はここで自己愛/自己犠牲という観点を導入したい。
鈴芽・草太・環さんの戸締まりがもたらしはものは、自己愛である。
鈴芽にとっては不安定な生だとしてもそれを自分自身で肯定することであり、草太にとっては社会的責任のある存在としての自分以外も大切にすることであり、環さんにとっては鈴芽にまつわる様々な感情を認めた上で諾うことである。
彼らがそこに至った経緯も自分への愛の形もそれぞれであるが、共通しているのは”自分を愛する”ことにより戸締まりが成し遂げたということである。
一方でダイジンの戸締まりがもたらしたものは自己犠牲であった。
自身の好意を抱いた鈴芽という存在のために、鈴芽から好意を自らが享受することは諦めて要石となることを選択するのである。
ダイジンのこの振る舞いは物語においてはデウスエクスマキナ的なものであると思われるかもしれない。
否、そうではない。
ダイジンは鈴芽と草太の側面をもつキャラクターであるからである。
鈴芽的側面としては、鈴芽-ダイジンの関係と環さん-鈴芽の関係を比較すると明らかになる。
鈴芽がダイジンにかけた「うちの子になる?」はそのまま環さんからかけられた言葉である。
ダイジンは向けられた好意に返す形で無邪気に鈴芽と関わろうとするが、鈴芽の大事なもの(草太)を奪うことになってしまう。
これに対して鈴芽もまた無自覚ながら環さんの大切なもの(時間や機会)を奪っていたのだ。
そして鈴芽は草太を要石に変えたダイジンを強い言葉で拒絶するが、同じく鈴芽も環さんから拒絶される。
このようにダイジンは鈴芽が体験してきたことを、鈴芽によって経験するという存在である。
草太的な側面とは映画の中における役回りについての観点に依るものだ。
映画としては先に述べた自己愛の成就によってハッピーエンド的な結末を迎えることになるのだが、それはダイジンの自己犠牲の上に成り立っているものである。
ただ決してその事実が取り糺されることはない。
これこそまさに草太の発言「大事な仕事は、人から見えない方がいいんだ」を体現していると言えよう。
これを踏まえるとダイジンとはいかなる存在なのであろうか。
私はダイジンは鈴芽と草太が戸締まりをするにあたって乗り越えたものの象徴的存在であると考える。
このように考えると鈴芽と草太にとっての障壁をダイジンが解決するのは必然と言えるはずだ。
ダイジンは決して予定調和的な存在ではなく、あまり注目されない自己犠牲への焦点を当てるために描かれたと捉えることができるだろう。
すずめの戸締まりとは、自己愛を回復する物語であると同時に見えにくい自己犠牲性へも光が当てられた作品であるのだ。
さいごに
最後まで読んでいただきありがとうございました。
すずめの戸締まりという物語を私はこのように捉え、それは私自身にとても刺さるものだったので今回ブログにまとめることにしました。
それと映画館で見る映画はやっぱり家で見るものとは別物でした、また見たくなるものがあれば足を運びたいですね。
PS.芹澤朋也は最高の男