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【随想】芥川龍之介『六の宮の姫君』

 暮しのつらいのは勿論だった。棚の厨子はとうの昔、米や青菜に変っていた。今では姫君の袿や袴も身についている外は残らなかった。乳母は焚き物に事を欠けば、立ち腐れになった寝殿へ、板を剝ぎに出かける位だった。しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、じっと男を待ち続けていた。
 するとその年の秋の月夜、乳母は姫君の前へ出ると、考え考えこんな事を云った。
「殿はもう御帰りにはなりますまい。あなた様も殿の事は、お忘れになっては如何でございましょう。就てはこの頃或典薬之助が、あなた様にお会わせ申せと、責め立てているのでございますが、……」
 姫君はその話を聞きながら、六年以前の事を思い出した。六年以前には、いくら泣いても、泣き足りない程悲しかった。が、今は体も心も余りにそれには疲れていた。
「唯静かに老い朽ちたい」……その外は何も考えなかった。

芥川龍之介『六の宮の姫君』(短編集『地獄変・偸盗』)新潮社,1968

 乳母はまるで気の狂ったように、乞食法師のもとへ走り寄った。そうして、臨終の姫君の為に、何なりとも経を読んでくれと云った。法師は乳母の望み通り、姫君の枕もとへ座を占めた。が、経文を読誦する代りに、姫君へこう言葉をかけた。
「往生は人手に出来るものではござらぬ。唯御自身怠らずに、阿弥陀仏の御名をお唱えなされ」
 姫君は男に抱かれた儘、細ぼそと仏名を唱え出した。と思うと恐しそうに、じっと門の天井を見つめた。
「あれ、あそこに火の燃える車が、……」
「そのような物にお恐れなさるな。御仏さえ念ずればよろしゅうござる」
 法師はやや声を励ました。すると姫君は少時の後、又夢うつつのように呟き出した。
「金色の蓮華が見えまする。天蓋のように大きい蓮華が、……」
 法師は何か云おうとした。が、今度はそれよりもさきに、姫君が切れ切れに口を開いた。
「蓮華はもう見えませぬ。跡には唯暗い中に、風ばかり吹いておりまする」
「一心に仏名を御唱えなされ。なぜ一心に御唱えなさらぬ?」
 法師は殆ど叱るように云った。が、姫君は絶え入りそうに、同じ事を繰り返すばかりだった。

同上

「この頃この朱雀門のほとりに、女の泣き声がするそうではないか?」
 法師は石畳みに蹲まった儘、たった一言返事をした。
「お聞きなされ」
 侍はちょいと耳を澄ませた。が、かすかな虫の音の外は、何一つ聞えるものもなかった。あたりには唯松の匀が、夜気に漂っているだけだった。侍は口を動かそうとした。しかしまだ何も云わない内に、突然何処からか女の声が、細そぼそと歎きを送って来た。
 侍は太刀に手をかけた。が、声は曲殿の空に、一しきり長い尾を引いた後、だんだん又何処かへ消えて行った。
「御仏を念じておやりなされ。――」
 法師は月光に顔を擡げた。
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ」

同上

 死ぬ理由を見つけるのは、生きる理由を見つけるよりはるかに容易い。破産した、失恋した、夢に破れた、大切な人が死んだ、何でもいい。明日仕事に行きたくない、もうあの人に会いたくない、何でもいいのだ。思い詰めれば、何だって死ぬ理由に足る。寧ろ人は、死ぬ理由をいつでも探している嫌いさえある。生きる理由は、適当に考え、御座なりにしてしまうのに。生きる事は苦しくて辛い。これは事実だ。この世界に存在するという唯それだけで、膨大なエネルギーを必要とし、そのエネルギーは、どこかで獲得してこなければならない。それは、辛い、苦しい、難しい。
 苦しみと喜びは対比しているようで、全く違う性質のものである。喜びは、何か外的な事象や経験に対して発生する副次的なものだが、苦しみは、何も起きずとも、自分がこの世にいるだけで、一生共にある。つまり、自分と一心同体の、もっと言えば、苦しみとは自分それ自身であり、何かに連れて発生するような性質ではない。死が、苦しみからの解放になるという根拠は、無い。だが、それ以外に解放される可能性のある方法が無いのも事実。死を救いと信じ、一縷の望みを託し、人は死を選ぶ。それは、悪だろうか。死に鈍感でいられない事が、そんなに悪い事だろうか。少なくとも、この国ではかつて、自死を”生き様”として皆が認めていた時代があった。理屈に囚われず、矛盾を超克し、生と死を等しく捉える事が出来ていた。現代は、或る一方的な思想に、偏重していないか。人間の精神が、追い詰められていないか。

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