死ぬ理由を見つけるのは、生きる理由を見つけるよりはるかに容易い。破産した、失恋した、夢に破れた、大切な人が死んだ、何でもいい。明日仕事に行きたくない、もうあの人に会いたくない、何でもいいのだ。思い詰めれば、何だって死ぬ理由に足る。寧ろ人は、死ぬ理由をいつでも探している嫌いさえある。生きる理由は、適当に考え、御座なりにしてしまうのに。生きる事は苦しくて辛い。これは事実だ。この世界に存在するという唯それだけで、膨大なエネルギーを必要とし、そのエネルギーは、どこかで獲得してこなければならない。それは、辛い、苦しい、難しい。
苦しみと喜びは対比しているようで、全く違う性質のものである。喜びは、何か外的な事象や経験に対して発生する副次的なものだが、苦しみは、何も起きずとも、自分がこの世にいるだけで、一生共にある。つまり、自分と一心同体の、もっと言えば、苦しみとは自分それ自身であり、何かに連れて発生するような性質ではない。死が、苦しみからの解放になるという根拠は、無い。だが、それ以外に解放される可能性のある方法が無いのも事実。死を救いと信じ、一縷の望みを託し、人は死を選ぶ。それは、悪だろうか。死に鈍感でいられない事が、そんなに悪い事だろうか。少なくとも、この国ではかつて、自死を”生き様”として皆が認めていた時代があった。理屈に囚われず、矛盾を超克し、生と死を等しく捉える事が出来ていた。現代は、或る一方的な思想に、偏重していないか。人間の精神が、追い詰められていないか。