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【随想】葛西善蔵『子をつれて』

「私もそりゃ、最初から貴方を車夫馬丁同様の人物と考えたんだと、そりゃどんな強い手段も用いたのです。がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居られる方だろうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云いなりになって延期もして来たような訳ですからな、この上は一歩も仮借する段ではありません。如何なる処分を受けても苦しくないと云う貴方の証書通り、私の方では直ぐにも実行しますから」
 何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\気味悪るく視廻しながら、三百は斯う呶鳴り続けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引払うことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑える為め手を振って繰返すほかなかった。
「……実に変な奴だねえ、そうじゃ無い?」
 よう/\三百の帰った後で、彼は傍で聴いていた長男と顔を見交わして苦笑しながら云った。
「……そう、変な奴」
 子供も同じように悲しそうな苦笑を浮べて云った。……

葛西善蔵『子をつれて』(短編集『哀しき父|椎の若葉』)講談社,1994

「だからね、そんな、君の考えてるようなもんではないってんだよ、世の中というものはね。もっと/\君の考えてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理というものはね。……つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達なんか要らないという訳なんだよ。他に君にどんな好い長所や美点があろうと、唯君が貧乏だというだけの理由から、彼等は好かないというんだからね、仕様がないじゃないか。殊にYなんかというあゝ云った所謂道徳家から見ては、単に悪病患者視してるに堪えないんだね。機会さえあればそう云った目障りなものを除き去ろう撲滅しようとかゝってるんだからね。それで今度のことでは、Yは僕のこともひどく憤慨してるそうだよ。……小田のような貧乏人から、香奠なんか貰うことになったのも、皆なKのせいだというんでね。かと云って、まさか僕に鉄唖鈴を喰わせる訳にも行かなかったろうからね。何しろ今の娑婆というものは、そりゃ怖ろしいことになって居るんだからね」

同上

「いや、いつだって同じことさ。ちょい/\これでいろんな事件があるんだよ」
「でも一体に大事件の無い処だろう?」
「がその代り、注意人物が沢山居る。第一君なんか初めとしてね……」
「馬鹿云っちゃ困るよ。僕なんかそりゃ健全なもんさ。唯貧乏してるというだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもそう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも国家社会の為めに貢献したいと思って、貧乏してやってるんだからね。単に食う食わぬの問題だったら、田舎へ帰って百姓するよ」
 彼は斯う額をあげて、調子を強めて云った。
「相変らず大きなことばかし云ってるな。併し貧乏は昔から君の附物じゃなかった?」
「……そうだ」

同上

 で彼等は、電車の停留場近くのバーへ入った。子供等には寿司をあてがい、彼は酒を飲んだ。酒のほかには、今の彼に元気を附けて呉れる何物もないような気がされた。彼は貪るように、また非常に尊いものかのように、一杯々々味いながら飲んだ。前の大きな鏡に映る蒼黒い、頰のこけた、眼の落凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見遣りながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしていた。そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ない程疲れて居る気持から、無意味な深い溜息ばかしが出て来るような気がされていた。
「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」
 寿司を平らげてしまった長男は、自分で読んでは、斯う並んでいる彼に云った。
「よし/\、……エビフライ二――」
 彼は給仕女の方に向いて、斯う機械的に叫んだ。
「お父さん、僕エダマメを喰べようかな」
 しばらくすると、長男はまた云った。
「よし/\、エダマメ二――それからお銚子……」
 彼はやはり同じ調子で叫んだ。

同上

 で三人はまた、彼等の住んでいた街の方へと引返すべく、十一時近くなって、電車に乗ったのであった。その辺の附近の安宿に行くほか、何処と云って指して行く知合の家もないのであった。子供等は腰掛へ坐るなり互いの肩を凭せ合って、疲れた鼾を搔き始めた。
 湿っぽい夜更けの風の気持好く吹いて来る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力で駛った。生存が出来なくなるぞ! 斯う云ったKの顔、警部の顔――併し実際それがそれ程大したことなんだろうか。

同上

 全く、ネガティブを自称する奴の傲慢さには呆れてしまうね。奴らは自分を卑下することがまるで快感なんだろう。ぼくはダメだ、社会不適合者だ、落ちこぼれだ、クズだ……、なんて聞いてるこっちも不愉快になるようなことを神妙な顔してボソボソ言いながら、手だけは忙しそうにせかせか動かして特盛りの牛丼なんかペロリと平らげてしまいやがる。奴ら他人の言葉なんか聞いちゃいねえんだ。こっちは気を使って慰めたり明るい話題を考えたりしてるのに、ダメだダメだって不幸暗澹のぬるま湯に気持ちよく浸かって出てきやしねえ。なんなら一杯飲んでホロ酔い気分くらいなもんさ。大体ネガティブな奴らほど図太いんだ。心折られる前に自分から折ってしまうから、周りに何されようと何が起ころうとびくともしねえ。最悪の事態しか想定しねえ、だから何が起きても想定通りってなもんだ。ったく気分が悪い奴らだよ。凹ませてやりたくても、自分で好き好んで地べたを這いずり回ってやがるから凹ませようがねえ。死にたい死にたいと年がら年中ほざいてるのに、一向に死にやしねえじゃねえか。逆に何もかも手に入れた成功者の筈のあいつが、あんなに明るくて気持ちいい奴だったあいつが、一度の失敗であっさり電車に轢かれちまいやがった。ポジティブって何だろうな。ネガティブって何だろうな。生き残ってる奴を強いと言うのなら、自分が嫌いで、自分にも他人にも何も期待してなくて、不幸を当然のように受け入れている奴らこそが、負け切ってるが故にもう負けることがない、真の強者なのかも知れねえな。

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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