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【随想】葛西善蔵『湖畔手記』

俺は何もかも、ほしくないのだ。妻子もほしくなければ、お前も、お前の腹の子も、ほしくないのだ。極端に云えば、俺自身をもほしいとは思わない。俺は最早、生活にヘコ垂れはじめたらしい。書くものも、一つ/\駄目になる。俺はどこに生の希望と悦びをつなぐのだ? が今に、だん/\と生活も好くなり、書くものも良くなる……? がその今に、が曲者なんだ。どうして、信じられたものじゃないのだ。その今に、引きずられて徒労を重ねて行くべく俺は少し厭いたようだ。

葛西善蔵『湖畔手記』(短編集『哀しき父|椎の若葉』)講談社,1994

 Kにしても、また同じ仲間の×にしても、××にしても、自分としても、恐らくは四十と云う峠を越せずに、それぞれに自分の身内に巣喰うた悪魔と無意識の中にも戦い続けて来て、結局は打敗かされるのだ。明るみ、奮闘、社交、円満な家庭――永年それらを希求しつゝ、そして誰もが同じように反対の方向に沈んで行き、その結果が肺病か狂気かだ。

同上

「欺く」と云う題で、今月号のある婦人雑誌に発表した三十枚程の短篇が、とうとうKの絶筆となった。十月三日は珍らしく快晴だったので、自分は午後から湖一周の新道をひとまわりして帰って来ると、机の上にKの細君からの電報が載っていた。(ゴゼン三ジニシス)万事終れりである。午前六時五十分の電報だった。臨終の時間から考えても、恐らく細君一人のほかには誰もいなかったに違いない。
「それにしても、もう一欺き二欺きしても、生き延びれなかったのかなあ……」唯一の飲み相棒でもあった彼に、自分は心の中で盃をさゝげた。

同上

 肉体が衰弱するにつれ、少なくともそれと同等以上の速度で精神がやつれていく。この感覚はきっと正しい。人の心は肉体と離れがたく、どうしたって連動せざるを得ない。世間では、魂は肉の傷痍に汚されることのない、誇り高き独立であるかのように喧伝されているが、それは間違いである。精神と身体は一体である。もっと云えば、同一である。精神活動とは肉体活動の一側面であり、生理現象でもある。思考は自由な意思によって為される無限の可能性ではなく、周囲の環境と肉体的生理的状況によって可能性が限定された中で必然的に導かれる唯の反射反応でしかない。ラプラスの魔など想定するまでもなく、不確定原理に夢を保証させるまでもなく、なるべくしてなったもの、宇宙の誕生日に交わされた約束が律儀に果たされたものでしかないのである。そうした謂わば生命世界の根本原理を直覚してしまった人間は、決まって頽廃する。無気力、無欲。しかし肉体はあくまで形を維持しようとする。無感動と生命の継続は矛盾なく両立する。つまり単なる生命維持活動それそのものは夢や希望を生まない、と云うより夢や希望と関係が無い。欲しがれません、死の他は。何故いつも死を想う、死を願う、死に憧れる。死神に気付かれないよう背後に廻りこめるかどうかのチキンレース。本当は気付いて欲しいのか。それが唯一の願いか。あらゆる全ては一分の隙無く無意味であるという確信! それでもまだ、生きるのか。
 

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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