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【随想】葛西善蔵『浮浪』

 二月一日の午後であった。鎌倉から汽車に乗り、新橋で下りて、銀座裏のある雑誌社で前の晩徹夜をして書きなぐった八枚と云う粗末な原稿を金に換え、電車で飯田橋の運送店に勤めている弟を訪ねると丁度退ける時分だったので、外へ出て早稲田までぶら/\話しながら歩くことにした。神楽坂で原稿紙やインキを買った。
「近所の借金がうるさくて仕様が無いので、どこかに行って書いて来るつもりだ。……大洗の方へでも行こうかと思う」と、私は弟に云った。
「うまく書けるといゝですがねえ……」と、斯うした話の計画の度々の失敗を知っている弟は、不安な顔をして云った。

葛西善蔵『浮浪』(短編集『贋物|父の葬式』)講談社,2012

 晴れたいゝ天気であった。海が青く輝いて居た。床の間の大花瓶の梅が二三輪綻びかけたのも風情ありげに見えた。猟銃の音など聞えた。斯んな気持なら書けるぞ! と云う気がされた。

同上

 日当りのいゝ小綺麗な気持のいゝ六畳の室であった。斯うしてる間に十枚でも五枚でも兎に角に書きあげてしまいたいと思って、私は朝から原稿紙をひろげて返事の来る間やって見たが、やはり五六枚書くと後が続かなかった。午後の三時頃まで待ったが返事がないので、またお内儀がやって来た。
「もう一晩だけ! 屹度返事が来る筈になってるんだから……」

同上

「そんな事云ったって駄目だよ。金どころかこの通り外套も時計も取られて来た始末で、兎に角もう一度方面を変えて出かけて来る。そして今度こそは屹度一週間位で書きあげて金を持って帰って来るから、うちへ帰ってそう云って呉れ」
「困るわ、そんなことでは。うちではたいへん怒っているんだから。Fさん一人置いといてもう二十日にもなるのに何のたよりも無いって、今日もポン/\怒っていたところなんだから、どうしてもあなたに来ていたゞいて極りをつけて貰いたいと云ってよこしたんですから、わたし一人では帰らりゃしないわ」と娘は泣き出しそうな顔をして云った。

同上

 気の向くまま風に吹かれるままに唯ふらりふらりと漂う命でいいじゃないか。生まれたくて生まれた訳ではないし、生まれたから一応生きてみてるってだけのこと。それだって、死なないから死んでないってだけなんだ。何者にもならなくていい、無理して何かを求めなくてもいい。今こうしてここにいる、それだけでいい。流れ流されてこんな形になりました。何故だかは知らないけれど、別に何故かを知りたくはないよ。これまで何年経ったとか、後何年あるだとか、そんなのどうでもいいんだよ。誰かの為だとか、自分の為だとか、生きる意味だとか、未来がどうだとか、そんなのもどうでもいいんだよ。膨らんでは弾けて消えていく泡の一個一個なんて、誰が気に留めるだろう。どこにも誰も何も無いんだから、何が起きても、何が起きなくても、夢より無意味なんだ。また風が吹く。また飛んでいく。また雨が降る。また流れていく。何もいらない。何も考えない。あるようにあって、なるようになる。ほら、スッキリしてるよね。

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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