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【随想】葛西善蔵『われと遊ぶ子』

そしてこれから先きいつまでか続くであろう廃人同様な生活――それは考えるだに堪まらないことだった。悪――そのものなのだ。「自分はどんな病気で死ぬことも構わないが、気ちがいになることだけは御免だ……」自分は他の場合にも斯う書いているが、それは自分の死についての自由だけは、失いたくないと云う自分の念願なのだ。

葛西善蔵『われと遊ぶ子』(短編集『哀しき父|椎の若葉』)講談社,1994

その時分は幾人かの子供等も引取られて来ていて、彼自身は裏の物置小屋に監禁同様になっていたのだが、隙を覘って、裏口から六七町の鉄道線路を伝わり、田圃中を通り、自分の山小屋へのかなり急な長い阪を登って来たのだった。誰かに自分がそこに来ていることを聞いて、会いたく思って来たのだろうが、息切れがして、かなり苦しそうな様子だった。彼は話すのも退儀そうだった。そして自分等は小屋の外で、ほんの少しばかり立話しただけで別れたのだが、自分は畑の中を捜して、まだ充分に熟し切らない葡萄の房を二つ三つ、ひどく人見知りするその女の子に持たせたが、ふとその女の子の眼を覗いて、自分はやはり普通でない、何かしら野生的な動物など聯想させる、黒いチカ/\と射すような光りを感じた。そして、彼等親子の後姿を見送って、自分は云いようのない傷ましい気持に打たれたのだった。

同上

 その気もないのに始まってしまった生だから、せめて終わり方くらいは自分で決めさせてくれ。ずっとそう思ってきたし、これからもそう思っていくだろう。だがこの身体は、決して思い通りにならない。生きたいという願いに効果は無いし、死にたいという夢は生活に埋没していくし、何より肉体は、知らぬ間に壊れていく。気付けば、自分で自分の首を絞められない程に、自由を失っている。
 そもそもが勘違いだ。この身体が自分のものだということや、この意識の他に自分という主観的存在があるということが、勘違いなのだ。確かなことなど無い。意識も、認識も、魂も、単なる素粒子の偶然の並びなのだ。そして素粒子を並べたのは、時空間の必然だ。全ては必然的な偶然なのだ。終わり方を決めたい。だが、偶然さえ必然であるならば、ここにいるのは誰なんだ。魂を失った時代に、どうして約束なんて出来るだろうか。どうして決定なんて出来るだろうか。意思が無力だなんて、こんな絶望はない。いっそ狂ってしまえば、絶望が消えてくれるのかも知れないが、それとて自由になれるものではない。
 死は自由の産物なのか。生は不自由の根拠となるか。生きることが、堪らなく面倒だ。

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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