【随想】葛西善蔵『われと遊ぶ子』
その気もないのに始まってしまった生だから、せめて終わり方くらいは自分で決めさせてくれ。ずっとそう思ってきたし、これからもそう思っていくだろう。だがこの身体は、決して思い通りにならない。生きたいという願いに効果は無いし、死にたいという夢は生活に埋没していくし、何より肉体は、知らぬ間に壊れていく。気付けば、自分で自分の首を絞められない程に、自由を失っている。
そもそもが勘違いだ。この身体が自分のものだということや、この意識の他に自分という主観的存在があるということが、勘違いなのだ。確かなことなど無い。意識も、認識も、魂も、単なる素粒子の偶然の並びなのだ。そして素粒子を並べたのは、時空間の必然だ。全ては必然的な偶然なのだ。終わり方を決めたい。だが、偶然さえ必然であるならば、ここにいるのは誰なんだ。魂を失った時代に、どうして約束なんて出来るだろうか。どうして決定なんて出来るだろうか。意思が無力だなんて、こんな絶望はない。いっそ狂ってしまえば、絶望が消えてくれるのかも知れないが、それとて自由になれるものではない。
死は自由の産物なのか。生は不自由の根拠となるか。生きることが、堪らなく面倒だ。
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