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【随想】太宰治『トカトントン』

何か物事に感激し、奮い立とうとすると、どこからとも無く、幽かに、トカトントンとあの金槌の音が聞えて来て、とたんに私はきょろりとなり、眼前の風景がまるでもう一変してしまって、映写がふっと中絶してあとにはただ純白のスクリンだけが残り、それをまじまじと眺めているような、何ともはかない、ばからしい気持になるのです。

太宰治『トカトントン』(短編集『ヴィヨンの妻』)新潮社,1950

 私は花江さんにキスしてやりたくて、仕様がありませんでした。花江さんとなら、どんな苦労をしてもいいと思いました。
「この辺のひとたちは、みんな駄目ねえ。あたし、あなたに誤解されてやしないかと思って、あなたに一こと言いたくって、それできょうね、思い切って」
 その時、実際ちかくの小屋から、トカトントンという釘打つ音が聞えたのです。この時の音は、私の幻聴ではなかったのです。
 (中略) 
花江さんのすぐうしろに、かなり多量の犬の糞があるのをそのとき見つけて、よっぽどそれを花江さんに注意してやろうかと思いました。
 波は、だるそうにうねって、きたない帆をかけた船が、岸のすぐ近くをよろよろと、とおって行きます。
「それじゃ、失敬」

同上

 もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮んでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだの部落に火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。

同上

 イヤーワーム、耳から離れない音や言葉というのは確かにある。
 もう何年も何年も同じ状況で同じ言葉を呟いている。同じ映画を繰り返し見ていると、同じ場面で同じ事を考えている自分に気付く。特に酒に酔っているとその傾向は顕著になる。ぶつくさ独り言を呟いているその姿もその言葉も、何年間も何度となく同じように繰り返されてきたものだなんて、考えてみると滑稽というか不気味というか自分で自分に失笑してしまう。毎晩毎晩、帰り道のコンビニで500のビールと350のチューハイを1本ずつ、それにホットスナックを1つ買って家路に着く。飽きもせずにいつもと同じ動画を見ながら同じペースで酒とスナック、同じ場面で同じ独り言、そんな日々。連鎖、円環、永劫回帰。ふと思う。なんだよこりゃ。人生なんて茶番じゃねえか。

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