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【随想】葛西善蔵『椎の若葉』

 本能というものの前には、ひとたまりもないのだと云われれば、それまでのことなんだが、何うにかなりはしないものだろうか。本能が人間を間違わすものなら、また人間を救ってくれる筈だと思う。椎の若葉に光りあれ、我が心にも光りあらしめよ。

葛西善蔵『椎の若葉』(短編集『哀しき父|椎の若葉』)講談社,1994

 世間のことはいろ/\とむつかしく出来ているものらしく、僕達には分らないことが多い。自分を本当に信じていてくれるおんな、男なんて、この世間に幾人いるんだろうか。

同上

 ぽつねんと机の前に坐り、あれやこれやと考えて、思いのふさぐ時、自分を慰めてくれ、思いを引立ててくれるものは、ザラな顔見知合いの人間よりか、窓の外の樹木――殊にこのごろの椎の木の日を浴び、光りに戯れているような若葉ほど、自分の胸に安らかさと力を与えてくれるものはない。

同上

 珍しく朝早く、と云うよりも未だ夜明けに目が覚めた。力強く橙色が宇宙を染め上げていく光景を、懐かしくも新鮮な心持ちで眺めている。ああ、静かだ。まだ街は眠っているけれど、世界は確かに此処にある。誰も知らずとも、此処にある。石油の臭いも、腐ったような人間の口臭も、遠く遠く拡散された、地球の素敵な体臭に、どうしてこんなに満足するのだろう。魂が綺麗な桃色に戻っていく。
 曽て、一片の哲学も持たぬ頃、例えば遠足の朝、運動会の朝、始業式の朝、夏休み初日の朝、決まってこんな橙色を眺めていた。家族を起こさぬように家を出た。段々と街の気温は上がっていく。貴重な爽やかな時間を惜しむように、大好きな公園まで歩く。変わり者の早起き猫、君が無口で良かった。君がお喋りな奴だったら、きっと嫌いになっただろうから。木々の緑も今は静かに、街の目覚めを待っている。ブランコの鎖も座面も結露に濡れているから、座ることを諦められた。安いスニーカーは朝露に少し冷たい。付いた砂も離れない。何の目的も無いこの時間が、今この体が、昼間よりも充実感に満ちているのは、不思議なような気がしていた。
 橙色が深い青に溶けていくに連れ、魂は赤く黒く、いつもの色に戻っていくだろう。冷たく清冽な大気が熱を帯びるに連れ、心はまた不安と焦燥に苛まれるようになるだろう。何度も繰り返し訪れる希望と絶望、掴んだり放したりしながら、徐々に死んでいく。

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