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【随想】葛西善蔵『遁走』

 私は平生から用意してあるモルヒネの頓服を飲んで、朝も昼も何も喰べずに寝ていた。何と云う厭な、苦しい病気だろう! 晩になってよう/\発作のおさまった処で、私は少しばかりの粥を喰べた。梅雨前の雨が、同じ調子で、降り続いていた。
 私は起きて、押入れの中から、私の書いたものゝ載っている古雑誌を引張り出して、私の分を切抜いて、妻が残して行った針と木綿糸とで、一つ/\綴り始めた。皆な集めても百頁にも足りないのだ。これが私の、この六七年間の哀れな所得なのだ。その間に私は幾度、都会から郷里へ、郷里から都会へと、斯うした惨めな気持で遁走し廻ったことだろう……。

葛西善蔵『遁走』(短編集『贋物|父の葬式』)講談社,2012

 振り返ると、どうということもない人生だ。何があった訳ではなく、何も無かった訳でもない。記憶と、形ある物と、幾つか残っているけれど、それを眺めたとて、さしたる感動も、懐かしさに浸るような事も無い。数秒で飽きて、また現実のつまらなさに捉われてしまうだけだ。虚しさこそが、理性の本質なのかも知れない。理性は、一種の呪いだ。ただ希望が無くとも、やるべきことがあれば人は生きられる。将来なんて何も考えず、目の前の義務を果たし続ける人生は、きっと最も幸せだ。何故人は、夢を描くのか。そんなもの、無い方がいいのに。

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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