【随想】葛西善蔵『哀しき父』
どこまで行っても、いつまで経っても、何を得ようと、何を失くそうと、彼は彼のままである。仕事も、家庭も、彼という現象のほんの僅かな脚色に過ぎない。彼を動かすものは彼の意志などではなく、彼の肉体であり、過去であり、五官であり、即ち、彼を彼たらしめる外形的条件である。人に自由な意志などない、当然彼にもない。彼という物体を定義する幾つかの条件の下、水が蒸発するように、春に南風が吹くように、影が光を示すように、彼はそうなるべくしてなり、そうするべくしてするだけのことなのである。これは運命決定論などではない。もっと根元的なこと……。謂わば時空間というある種の存在欲求が自身を表象する為に、彼という存在がたまたま実現させられてしまった、ということなのである。
だから、彼を憎んではいけない。彼を恨んではいけない。彼を、自由な意志だと考えてはいけない。彼は何一つ放たない。ただ“大きなものの一部”を表現するのみ。そして彼に向けられる思考もまた、彼を定義する条件なのである。
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