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【随想】葛西善蔵『哀しき父』

 彼の胸にも霧のような冷たい悲哀が満ち溢れている。執着と云うことの際限もないと云うこと、世の中にはいかに気に入らぬことの多いかと云うこと、暗い宿命の影のように何処まで避けてもつき纏うて来る生活と云うこと、また大きな黴菌のように彼の心に喰い入ろうとし、もう喰い入っている子供と云うこと、そう云うことどもが、流れる霧にように、冷たい悲哀を彼の疲れた胸に吹きこむのであった。彼は幾度か子供の許に帰ろうと、心が動いた。彼は最も高い貴族の心を持って、最も元始の生活を送って、真実なる子供の友となり、兄弟となり、教育者となりたいとも思うのであった。

葛西善蔵『哀しき父』(短編集『哀しき父|椎の若葉』)講談社,1994

 どこまで行っても、いつまで経っても、何を得ようと、何を失くそうと、彼は彼のままである。仕事も、家庭も、彼という現象のほんの僅かな脚色に過ぎない。彼を動かすものは彼の意志などではなく、彼の肉体であり、過去であり、五官であり、即ち、彼を彼たらしめる外形的条件である。人に自由な意志などない、当然彼にもない。彼という物体を定義する幾つかの条件の下、水が蒸発するように、春に南風が吹くように、影が光を示すように、彼はそうなるべくしてなり、そうするべくしてするだけのことなのである。これは運命決定論などではない。もっと根元的なこと……。謂わば時空間というある種の存在欲求が自身を表象する為に、彼という存在がたまたま実現させられてしまった、ということなのである。
 だから、彼を憎んではいけない。彼を恨んではいけない。彼を、自由な意志だと考えてはいけない。彼は何一つ放たない。ただ“大きなものの一部”を表現するのみ。そして彼に向けられる思考もまた、彼を定義する条件なのである。

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