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【随想】葛西善蔵『暗い部屋にて』

 先月の初め、例に依って、私は毎月一回の定期の金策に上京した。そしてT新夫婦から絶交されたような形ちになって帰って来た。これで、自分は最近になって、二人の友達を失ったようなことになる。山口の場合は、自分の書いた小説のモデル問題からであった。併しTの場合は、一寸へんなものである。自分はまったく狐にでも魅されたような気がして、さっぱり訳がわからない。やっぱしTと云う男は怖い男だ、したゝか者だ、喰せ者だと云う気がされてならない。自分は此頃だん/\人間が怖くなる、娑婆のことが怖くなって来る。何もかも解らないことばかしだ。自分のことを考えると、頼りなくて、醜くゝて、浅ましい。無力で無智で、どうにも仕方が無いと云う気がされる。だん/\考え込んで行くと唯々憂鬱で、無限に/\退屈になって来る。

葛西善蔵『暗い部屋にて』(短編集『哀しき父|椎の若葉』)講談社,1994

 友人たちの間にいろ/\な取沙汰が伝わった。それに、彼は、ほとんど先天的の芸術的ウソツキ者と見做されているだけに、一層誰もが好奇心をそゝられたのである。「Tの奴何を云うか。堂々たる外交官の令嬢だなんて、彼奴何を云うか。話がどうも臭いぞ。眉唾者眉唾者」誰もがこんな風に見ているらしかった。彼は山師者と云うほどの性根の据ったウソツキ者ではないが、一もウソなら二も三もウソと云ったように、どこまで押詰めて行っても細いウソの根を引いているような、それでそれを自分の保護色としているような、型の小さなウソツキ者で、不快ではあっても憎むべきほどの人間ではない。尤も憎むべきほどの人間と云うものがそんなにザラにあって堪るものではないが――

同上

私はこの和尚さんが好きだ。こゝの寺中でほんとに心から私が敬愛しているのは、この和尚さんだけだ。その晩も和尚さんは栗本のことをいじらしそうに眺めては、
「人相がいゝとこがあるでな、出世するだよ。苦労はせにゃならんがな。播州の士族だったな。そうよな、僧堂で二三年修行するのもわるかないだろうが……」和尚さんは斯うも彼のことを云った。
「和尚さん、では私の方はどうでしょう、うまく行くでしょうか?」と、私も自分のことを訊くと、
「君か? ……ハヽ、君は焼石に水だ」と、歯の無い、小さな口を開けて、珍らしく君と云う言葉を使って、斯う云って笑った。……

同上

 こゝには暗い室もなく、高い崖も無く、あの私が土牢の達磨と云っていた――雪舟の模写だとか云うが、あの陰気な顔した達磨の懸物も無いのだ。私はその達磨の画では、寺へ行った当座夜中によく怯えさせられたものである。ふと夜中に半睡状態で眼を開けて見ると、その陰気な顔の鋭い眼が暗いランプの光の中で私を睨まえていた。やがて眉と眼頭を一緒に寄せ、かなりの速度でしばたゝきながら、いつまでもその叱責的な眼光で私を捉えていて放さないのである。私はそれに対して自分ながら不思議に思われる程に、反抗的な態度を執れなかった。私はいつもひどく脅やかされ、己れの罪業の苛責を感じた。

同上

丁度大晦日の日であった。私はまったく出鱈目の書きかけの原稿を持って行って、ある雑誌社の編輯者から金を借りて来て、その原稿を寺へ持帰って破って了った。それから幾度催促されても原稿を送らなかった。毎日机に向っても、出来ないのだ。

同上

私は実際首を刎ねられると云われても、書く気がしなかったのだ。書くことがないのだ。書く気分が無いのだ。極楽も無く地獄も無いのだ。神も無く悪魔も無いのだ。倦怠と敗滅――があるばかしだ。妻も子も、自分に取ってはどんなに遠い/\、稀薄な存在物だろう!

同上

 食って寝て出して。それだけを繰り返して順調に分解されていく。理想の生き方、それは死に方。残るのは、ここに何かがあった、という感覚だけ。世界をほんの少しだけ汚した染み、それがこのバカを、語り得る全てであればいい。それでいい。少しだけ話して、少しだけ書いた。少しだけ大気を揺らして、少しだけ自由に色をつけた。この世界に。世界が連続するならば、だけど。見えないほど、その隙間が薄いのならば、希望だって、居てもいい。ここと、そこに、居てもいいよ。あるとき、あるところに、バカが一匹あったとさ。バカは考えた。何も考えたくないと、考えた。この世界を、なるべく汚したくないと、考えて、考えて、夢を見ることに、したんだとさ。だってバカだから、夢見るくらいしか、出来ないし。夢を見ようと、していたんだよ。矛盾だらけでも、いい。夢だから、いい。

 意図的な堕落、必然的な自己破壊、相対主義からの逃避。世界が美しくあるために、彼は醜く愚かでなければならなかった。

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Junigatsu Yota
素晴らしいことです素晴らしいことです

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