【随想】葛西善蔵『呪われた手』
できることなら、誰とも話さず、誰も見ず、誰のことも考えず、誰も知らず、独りで生きて、独りで死にたい。って、みんな思ってるんじゃないの。できることなら、太陽と一緒に起きて、綺麗な水を飲んで、少しの肉と、少しの塩と、少しの山菜を食べて、散歩して、木陰に寝転んで、そよ風に吹かれて、空を眺めて、鳥や虫の声を聴いて、また散歩して、また綺麗な水を飲んで、少し湯に浸かって、少しだけ未来のことを考えて、すぐに忘れて、眠って、起きて、また同じ一日を繰り返して、そうして生きて、そうして死にたいって、そう思ってるんじゃないの。
何処にも誰もいないってこと、本当は知っているんでしょ。全ての思考は辻褄合わせに過ぎないってこと、何となく気付いているんでしょ。言葉は、後付けです。好きとか、嫌いとか、そうするべきだからそうしているんでしょ。だからできることなら、何も考えたくないんだ。何も考えないのが、唯一真実の世界だから。見られているから、そうするんだ。過去の自分が見ているから、今の自分を演じるんだ。夢よりたちが悪いよ。だって、死ぬまで終わらないんだから。いやもしかしたら、死んでからが本番かも知れない。誰も見ていない演劇、主役も、脇役も、敵役も、全部自分。つまり誰もいないんだ。ああ、何がしたいの。何がしたいんだろうって、誰が訊いているの。誰もいないのに、誰かがいなきゃいけないなんて、何だこれ。
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