【再公開】映画『ジョーカー』を絶賛してはいけない理由
『ジョーカー』の物語はいたってシンプルである。「ネタバレすることなど特にない」がある意味ネタバレと言えるかもしれない。
ホアキン・フェニックス扮するアーサーは、ゴッサムシティの貧民街で母親の世話をしながらコメディアンを目指している。しかし彼は突然意味もなく笑い出す癖があり、他者とコミュニケーションが満足に取れない。周囲からも「気色悪い」と距離を取られ、ときには暴行をも受けてきた。
そういったゴッサムの不条理や、自身の過去と接するうちに、アーサーが抱いていた「他人を笑わせたい」という夢が少しずつ歪んでいく。それは、アーサーが突発的に犯してしまったある罪を契機に一転し、アーサーは「ジョーカー」へと成長していく。
こういった内容は、既に公開された2分24秒のトレーラーの中からもまるきり把握できることだ。哀れなピエロが、闇社会を支配するジョーカーへ化ける。何もかも欠けた男が、全て満ちたピエロとなる。そこにはSNS等で話題になる「衝撃のラスト5分間」や「誰も想像しない展開」といったものがなく、非常に淡々としている。
しかしだからこそ、『ジョーカー』は恐ろしい。何も驚くようなことがない、等身大のアーサーという人間を見つめ続けることで、次第に我々は後にジョーカーとなる人間に対して感情移入してくからだ。
2時間あまりの上映時間のうちおよそ1時間45分はアーサーの物語である。本作は淡々とアーサーの日常を描く。都会の古いアパートで少しボケかけた母親を世話しながら、地下鉄やバスといった貧困層が集まる交通手段を使いながら、売れないコメディアンとしてギリギリの生活を送る。
そうした生活の中で、ジョーカーは徹底的に疎外され続ける。突然笑い出す癖から周囲に「気味悪い」と距離を取られ、痩せこけた肉体からストリートキッズに暴行を受ける。そして何より、コメディアンを目指すアーサーのジョークを誰も笑わない。実際には彼は誰かを「笑わせる」ことがなく、むしろ彼が「笑われる」ばかり。
そういった徹底して社会の爪弾きものであり続けるアーサーの姿は、痛々しいと同時に極めてリアルでもある。他者との接点を作るために、自分が面白いとも思っても居ないことで甲高く笑い続ける姿は、ピエロを演じるコミュ障そのものだ。
もちろん、ここでホアキン・フェニックスの怪演が常に光っていた。アーサーは口下手な男でありだ。そうした彼の複雑な表情と、奇っ怪な行動の中で、アーサーの狂気の中に埋もれた普遍的な人間性を見事に再現している。
こういった丁寧な描写、そしてホアキン・フェニックスの演技によって、正直に白状すると私はこのアーサーの痛々しい日常に感情移入せずにいられなかった。このアーサーという人間の生き方に、不覚にも自身を重ねてしまったのである。
恐らく、同じように感情移入した人間は日本にもアメリカにもいる。経済的に恵まれない、社会に適応できない、周囲と打ち解けられない、他人の感性が理解できない、これらに一つでも当てはまった瞬間、スクリーンの道化が他人事ではなくなってしまう。
「これまで生きてきて、自分が存在しているのかもわからなかった」というアーサーの台詞は、突き刺さる人が多いと思う。
「ジョーカー」と聞いて想像する狂人とは、かけ離れた普遍的な人間性はまさしく、往年の『ダークナイト』等で描かれた「一般市民と同じように悩み、苦しむスーパーヒーロー」と同じ、我々と何も変わらないヴィランの姿だった。
しかし、アーサーが突発的に富裕層の証券マンを(自己防衛のために)射殺してしまった時に、彼の人生は一変する。
そのニュースは新聞やテレビを通じて人々に浸透し、それが肯定的に評価されてしまう。貧困層にとって富裕層は敵であり、市民は当時アーサーが偶然ピエロのメイクをしていたことを真似し、ピエロの仮面を被って各地でデモや暴動を起こすようになるのだ。
次第に、アーサーは「誰かを笑わせる」という自分のコメディアンの夢を叶える道筋を理解する。誰も自分の笑いを理解せず、同時に自分も他人の笑いを理解できなかったが、「気に入らない人間たちが死んだり、苦しむ様」はどんなジョークよりも「ウケる」ことを理解してしまう。
そして遂に、蛹が羽化する。アーサーは自らを苦しめたあらゆる敵に報復し、自身の憎悪と憤怒をテレビを使って拡散する。それに感化された市民は次々に暴動を起こし、ついには彼は「ジョーカー」として彼らの精神的な支柱となるのだ。
このジョーカーに化けてからというものの、光を使った演出が非常にうまい。ジョーカーの凶行の尽くに逆行が入り、あたかもそれは至福の時間のような美しい演出がなされていくのだ。
上映時間のほとんどをアーサーの苦痛に満ちた日々なだけに、彼がジョーカーとなって世界を混沌へ陥れていくカタルシスは尋常ではない。アーサーとしての彼に感情移入した人間ほど、劇中の市民と同様にそのアナーキズムに同調し、爆炎の中でダンスを踊る悪魔の姿に共感するだろう。
そのようにこの作品をたっぷりと楽しんでしまった一部の鑑賞者は、この作品を心底「名作」と思い、SNSで惜しげもない賞賛を拡散するだろう。そう、まさにここが本作最大の恐ろしさである。
映画『ジョーカー』はそれ自体が「ジョーカー的」である
何度も言うように『ジョーカー』は特段革新的な演出も、あっと驚く展開も用意されているわけではない。
ただ丁寧にアーサーが社会から阻害されていく暗黒を描き続け、それが最後にジョーカーとして化けて民衆の怒りを代弁する煽動者へ化けるカタルシスを味わうだけだ。ある意味で、非常に娯楽的な映画と言える。そこには未知の心境も、驚天の開悟もない。
そう、誰でも何となくは『ジョーカー』を楽しめてしまう。アメコミ映画としてブレない娯楽がある。
政治的文脈や歴史的背景に詳しくなくとも、とことんブラッシュアップされた映像と共に「自分を虐げてきた社会を破滅へと追いやる」という欲望を見事に叶えてくれる本作は、多くの人にとって「70点以上」の作品になる。
私が思うに、映画『ジョーカー』はそれ自体が既に「ジョーカー的」なことが、何より恐ろしいと思う。
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