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偉大なるバイプレーヤーよ 永遠に

最近、「スクールカースト」という言葉をnoteでみつけた。おそらく2000年代に学生だった方の文章なのだろう。

「スクールカースト」は、学校における生徒間の序列を、インドの固定的・階級的な身分制度であるカーストになぞらえた和製英語だそうだ。

そういえば、朝井リョウさんの「桐島、部活やめるってよ」でも、スクールカーストのような場面が出てきた気がする。

ウィキペディアによれば、以下のように順列がつくられるという。


いったい、ぼくだったらどのカテゴリに入るのだろうとしばらく考えていたのだけど、アホらしくなってやめてしまった。いつの時代にも、何かのカテゴリに当てはめて、物事を考えたいという人は多いようだ。

ぼくは自分の居場所(畳一畳の世界)さえ確保できていれば、そのほかは興味がないので、おそらくその時代でも知らぬ存ぜぬで済ませた気がする。

でも、noteではブサイク、ドン引きコミュ障でキモ男なので、おそらく3軍行きは間違いないだろう(笑)



最近、バイプレーヤーという言葉をよく耳にするようになった。

バイプレーヤーとは脇役のこと。転じて、名脇役として使われたりするのだろうか。そう言えば、なんという映画だったか忘れたけれど、バイプレーヤーたちがたくさん出てくる映画を前に見た気がする。

よく、脇役がいてこそ、主役が成り立つといわれる。その通りだと思う。今は脇役にもちゃんとスポットが当たる時代なのだろうか。だとしたらいい時代になったといってもいいんじゃないだろうか。

出雲神話には数々の英雄神が登場する。しかし、主役級の神様達だけではさすがに神話も面白あろうはずがない。出雲神話にもちゃんと名脇役は存在するのである。

その一人(一匹)は因幡の白兎で有名な、敵役の「和邇(わに)」だろう。出雲神話に何度か登場する「和邇(わに)」はクロコダイルのワニではなく、サメのことを指す。よって因幡の白兎に騙されて、いいようにこき使わされてしまうのはサメたちである。

あの白兎の白兎神話は、また壮大で、隠岐の島から因幡(鳥取)までサメたちを一列に並ばせて、その上を白兎が走って渡るという試みである。白兎に騙されたサメたちこそ、お気の毒な話である。隠岐の島から因幡までは直線で約100km、サメの胴回りを考えると間隔を開けても最大50cmがいいところだから、凡そ20万匹が必要ということになる。1m間隔開けても10万匹必要ということになる。

それに粛々としたがったサメたちのことを思うと、いったいどっちが悪者だったのかわからないということになる。こうなったら、脇役どころかその他大勢のエキストラともいえる。

さて、そんな物語の脇を固めるサメたちであるが、英雄神をしのぐような伝説を残した無名のサメもいる。

古代の地理誌「出雲国風土記」の仁多郡の項にその記載がある。山の名前は恋山(したいやま)という。

その名の由来は、一匹の和邇(わに)が阿伊村にいらっしゃる玉日女命(たまひめ)を恋い慕って、川を上ってやってきたという。そのとき、玉日女命が石で川をふさいでしまわれたので、会うことができないままだった。よって、恋山(したいやま)という。

一見すると、ああそうなんですか、かわいそうでしたねで終わりそうな話だ。ひょっとすると、今でいうストーカー行為なのではないかと勘繰ってしまう。しかし、実はこれは壮絶な神話であることが、よくよく考えると分かってくる。

サメは、当然ながら、海水魚である。川に生息するのは淡水魚である。海水魚と淡水魚の違いを考えたことがあるであろうか。彼らの生息域は当然異なるが、それぞれの場所で生きていくために自分の体を進化させてきた。

淡水魚は普段、塩分濃度がほぼ0%の淡水の中で暮らしている。 淡水魚の体液濃度は0.7%~0.9%ほどで、体液よりも周囲の水のほうが塩分濃度が低いことになる。 海水魚は、塩分濃度がおよそ3.5%の海水の中で暮らしている。一般的な海水魚の体液濃度は1.5%ほどである。

淡水魚は水と比べて体液濃度が濃いので、浸透圧の関係で自然と水が体内に入ってくる。そのために尿を出すことで体液濃度を調節している。海水魚は海水の塩分濃度のほうが高いので、海水を飲み込んで、鰓(えら)から塩分を排出することで体液濃度を調節している。よってほとんど尿は出ない。

では淡水魚を海に入れた場合どうなるかと言えば、体の水分が外に出てしまうので、干からびたようになって死んでしまう。それでは海水魚であるサメが川を進んでいくとどうなるだろう。サメは川を進むうちに、体内に水分が入っていくことになる。しかし、その水分を排出する機能が元々備わっていない。すると、どんどん水ぶくれのようになってしまい、こちらも死んでしまうことになる。

つまり、このサメは自分の命を顧みず、危険な橋を渡っていたということになる。

おそらく、このサメは海岸かどこかで、玉日女命(たまひめ)を一目見て、恋に落ちたのに違いない。しかし、その後、玉日女命(たまひめ)は一度も姿を現すことはなかった。おそらく海水浴にでもたまたま来ていたのではなかろうか。それではと、サメは玉日女命(たまひめ)を探すことにする。すると、どうやら川を渡った、ずっと山奥の阿伊村に住んでいるお姫様だということがわかる。

一目会いたい、その一心である。

周りのサメたちからは馬鹿にされる。当然、彼らは川を渡れないことを知っている。自分の命を懸けてまで、ただ姫に会いたいがために川を上っていくのは馬鹿のすることだと相手にしなかったに違いない。しかし、玉日女命(たまひめ)を慕っているサメは、ある日、覚悟を決める。

一目会うためならば、この体を投げ出そう、と。

 ちなみに恋山(したいやま)、今は風光明媚な観光名所になっている。「鬼の舌震(おにのしたぶるい)」という。「鬼の舌震」は「ワニの慕う(したう)」が変化したものだという。


さて、覚悟を決めたサメである。

阿伊村まで海からは直線でいくと約30km、川は蛇行しているので約50kmと考えていいだろう。サメの泳ぐスピードは時速約50kmなので1時間弱である。川を進むにつれて、身体が水ぶくれになっていく。ちょっと岩に身体が擦れただけでも血が出たであろう。

それでもサメは川を上っていった・・・・。

阿伊村では川下から変な魚が上ってくることが噂になっていた。どうやら玉日女命(たまひめ)に会いに来ているらしい。客観的に見て、水でブクブクになった血だらけのサメである。どう見ても、グロテスクな物体に見えたことだろう。

ひょっとしたら姫が岩でふさいだ(女の身でまずは不可能だろう)のではなく、村の衆が率先してやった行為かもしれない。もう命が終わろうとしているときに、岩で塞がれた川を見たとき、いったいサメは何を思ったのだろう・・・。そして、無残に死んでいったサメを、村人は笑っただろうか。

いや、そうではないだろう。

こうやって、神話に加えられた無名のサメの行為は後々まで人々に語り継がれたはずである。ただし、このサメの行為は本当に恋だったのであろうか。そこまでして姫に会いたいがために命までも落とすという行為を恋と呼べるのであろうか。もしその行為に名前を付けるとすれば、僕は別のものを思い描く。

玉日女命(たまひめ)がどれだけ美しかったのか、今となってはわからないが、おそらく村人を感動させたのは、サメの美しいものに憧れるその心そのものだったのではなかろうか。

命を賭してまで「」を追求するその姿そのものが、人々をして語り継がれ、伝説となり、後の神話になったのではなかろうか。そう考えると、この無名のサメも出雲神話の偉大なるバイプレーヤーといえなくもない。

 

美に殉じた名もなき和邇(わに)よ
その美しき心を我々は決して忘れない

偉大なる神話のバイプレーヤーよ
永遠(とわ)に



今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
 
よかったら、鬼の舌震にもいらしてください。

あなたなら主役がはれるかもしれませんよ ♪

お待ちしています。



ゴゴゴゴゴッ

(この音は!)

ヒトコトヌシ: お前は絶対3軍カーストだったろうな(笑)
ぼく: 3軍で悪かったですね じゃぁ、逆に聞きますけど、ヒトコトヌシさんは神様の中でどんな立ち位置なんですか?
ヒトコトヌシ: ・・・一軍に決まっておるだろ!!
ぼく: ほんとですかぁ(疑いの目) なんだかスサノオ様に頭が上がらないし、ひょっとして3軍じゃあないんですかぁ(笑)
ヒトコトヌシ: そ、そんなわけないだろ(汗)!! 馬鹿にしおって(怒) もう、わしは帰るぞ!!
ぼく: あ、ちょっと待ってください
ヒトコトヌシ: なんだ!?
ぼく: スクールカーストとかけて、海の中と解く
ヒトコトヌシ: ・・・・
ぼく: すいません、「そのこころは?」と言ってもらえませんか
ヒトコトヌシ: そのこころは?
ぼく: どちらも階層(海藻)があります!!  いずっちでした ♪

ヒトコトヌシ: ズバリ、ひとこと言わせていただく!!
ぼく: はい、どうぞ
ヒトコトヌシ: お前は海(階)底でずっと暮らしてろ!!


こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。

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