応急住宅
前回の記事から少し時間が経ちました。
仕事のことでだいぶゴタゴタしていたのと、こがし祭りがあったりと良くも悪くも充実、していたのかなぁ?と思います。
仕事のゴタゴタで結構滅入っていましたが、こがし祭りに参加して皆と楽しく過ごしたことで気持ちも楽になりました。
厄払いができたのかな。なんて思ってます。
・別々の生活
以前書いた通り、被災後は私は私の実家で、妻と子どもは妻の実家で生活していました。
お互いに熱海市街地なので歩けば10~15分程度で行き来できます。子どもがいなくて騒がしくないのは楽に感じることもありますが、味気ない事も事実です。
そして勝手知ったる実家なのに、10年近く離れるともう他人の家。
他人は言いすぎかも知れませんがどうにも落ち着かない感覚でした。
・どこに住むか
当時は「七尾に応急仮設住宅を作る」なんて噂だったり、県知事がそのことについて言及したりと少し記憶が曖昧ですが、七尾団地に。という声がかなり聞かれていたと思います。
正直七尾では不便だなぁ。と思っていました。元々住んでいた場所でもコンビニまでは少し遠く(国道のコミュニティ・ストア)、このコンビニも6月いっぱいで閉店していました。
結婚当初に住んでいた沼津では徒歩圏内にコンビニとスーパー、駅があったので、正直岸谷地区でも不便と感じていたのに今度は自販機しかない場所では…という気持ちと、通勤に不便という懸念がありました。
そして多分法律で1世帯何人かで家賃補助の制限があり、その基準がなかなか厳しいのです。我が家は4人家族で民間の賃貸物件では7万円まで。ということでした。
これは7万を超えたら超えた分を自己負担ではなく、全額を自己負担するようになります。他にも耐震基準の制限もあり市内ではなかなか適合する民間の物件がありませんでした。
正式に発表された応急住宅のリスト(市内外の県営、市営の団地と民間の賃貸住宅)には、正直あまりいい物件は市内ではなく、通勤の事も考えると今住んでいる団地の抽選が外れたら市外へ出るつもりでした。
ですがちょうどタイミング悪く会社の事業所が閉鎖という発表がされて、次の勤務地が(恐らく)都心になる。ということでした。場所で言えば羽田の辺り。ここでどうやって家賃7万円で探す?
今思っても、この時の状況で知らない土地へ行ってイチから生活を立て直すのは心身ともにかなりの負担です。
沿線で家賃7万、耐震基準を満たして転校と保育園探し各種の手続き。そして熱海に戻ってくるかどうかも分からない。
全く先の見えない状況なのに、更に茨の道を進む気にはなれなかったです。
幸いにも第一希望だった団地に入居することが出来、熱海から離れることはありませんでした。
(別の次元の話ですが、熱海から離れない。という選択肢が仕事について良い選択だったかどうかは全く別です。行くも地獄、留まるも地獄でした)
この時に色々相談に乗って頂いたのは熱海にあるマチモリ不動産の代表取締役である三好さんです。
今も三好さんとはお付き合いさせて頂いていて、祖父の家が空き家になっていることを相談させてもらったりしています。
・生活をはじめるということ
応急住宅の抽選は8月初めだったのですが、結果的に入居は9月初めでした。
それは家電や生活物資の到着が8月後半だったからです。
つまり別々の生活は2ヶ月にわたりました。
そこから生活の再建です。
今までの生活は足らない物を買い足して、古いものは買い替えて。という生活でした。誰しもがそうだと思います。
ですが今度は違います。一気に揃えなければならない。
例えば洗濯物を干すのに洗濯ばさみやピンチがない。メモを取るのにペンがない。料理するのに調味料が足らない、調理器具がない。そんな状態から生活を始めます。
使う時にないことで、それがないことに気付く。
でもそんな些細な事が多すぎて買い物に行っても買い忘れる事が多かったです。
1ヶ月ぐらいはそんな生活だったと思います。
・今思うこと
1年が経って、色々なことがいっぺんに元通りになることはない。そう思います。当然のことなんですけどね。
家族とやっと一緒に生活を送ることが出来て「やっと元の生活に近づいたな」と感じましたけど、それはまだ仮の生活が始まっただけで前述の通り全然足らないことが多かった。
そのちいさな1歩を積み重ねて元の生活に近づいて行くのだと思います。
被災してから実際に事業所閉鎖になるまでの3ヶ月間は元の生活を取り戻す事に必死だった、と今振り返れば思います。
でもゆっくりでいい。もしあの時の自分に言えるなら、そう伝えたい。
完全には元に戻らないのだから、これからは新しい生活を作る準備をしよう。
ものの見方、考え方。今までの経験の延長ではなく、経験は経験として残しながら”せっかく被災したのだから”新しい元の生活を探していきたいと思います。