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三四郎(夏目漱石) 思い出の本③

夏目漱石との出会いは、おそらく多くの人と同じだろう。
中学校の教科書に載っていた「坊ちゃん」の冒頭部分を読み、続きを知りたくて文庫本を買ったのと、高校の授業で「こころ」を学び、先生の遺書に衝撃を受けたというのが始まりだったように思う。
その後、高校生から大学生の頃までに漱石の主だった作品を一通り読みあさった。
小澤征爾のエッセイ「ボクの音楽武者修行」のなかにも、フランス留学へ向かう船旅の途上で、漱石の小説を日本から取り寄せて読む場面があったので、それに影響されたのかもしれない。
その時に読んだ作品のなかに「三四郎」もあった。この本のページを最初に開いたのは、たしか高校三年生の秋のことだったと思う。

夏目漱石「三四郎」(新潮文庫)模写(すみがき たけし)

恥ずかしながら、三四郎を読みはじめたときは、完全に柔道モノだと思い込んでいた。「姿三四郎」と混同していたのだ。
さあ今に三四郎が柔道を始めるぞ、と思いながら読み進めたが、一向に始めない。
能弁な先生に汽車の中で出会ったり、同郷出身の科学者に会いに行ったり、活発で天真爛漫な同級生に東京中を連れまわされたりして、そのたびに三四郎はびっくりさせられたり、たまげたりするばかりである。

で、この本にがっかりしたのかと言えば、そうではなかった。
むしろ、はまった。
当時、もうすぐ高校を卒業しようとしている自分の境遇や気分とも、ぴったり重なってしまったのだ。
新しい世界を前にしたときの、戸惑いやまぶしさ、ドキドキ感は、明治の学生も、昭和の高校生もそう大きく変わらなかった。
三四郎のヒロイン美禰子への関心が、ほのかな憧れ、そして恋心に近いものに変化していくプロセスにも胸がときめいた。
辞書を引いて美禰子が繰り返しつぶやく「Stray Sheep」という言葉の意味を知り、これはまさに自分に向けられたものではないか、と勝手に思ったりもした。

また、この小説の語り口に、漱石のユーモアのセンスが絶妙に効いているところも、はまった理由の一つだろう。
決して無理に笑わそうとはしていない。むしろ対象から少し距離を置き、淡々とそっけなく語られる言葉に、おかしさが宿っている。
登場人物の物腰やしぐさ、行動が、まるで北斎漫画を眺めているように生き生きと伝わってくる。

それに加えて、磨き上げられた漱石の文章表現がふるっていた。

上から桜の葉が時々落ちて来る。その一つが籃の蓋の上に乗った。乗ったと思ううちに吹かれていった。風が女を包んだ。女は秋の中に立っている。

夏目漱石「三四郎」より

この一節を読んだとき、あまりの見事さに卒倒しそうになったものだ。
短く区切られたシンプルなセンテンスを重ね、情景と情感を余すことなく写しとっている。
明治半ば、多くの人が試行錯誤を繰り返していた言文一致の日本語表現が、「三四郎」の時点で非常に高い水準に到達している。

紹介した文章の中にも、秋という言葉が出てくるが、三四郎は秋の物語である。
明治の当時は、学校の新年度は秋にスタートしていたのだろう。
三四郎が大学に入学してすぐにこういう表記がある。

そのうち秋が高くなる。食慾は進む。

夏目漱石「三四郎」より

大学の池の情景、先生の引越し手伝い、千駄木や谷中あたりの菊人形小屋、競技会、みんな秋の光景だ。
さて、秋も深まってきたこの季節に、いま一度「三四郎」のページを開いてみるのもいいかもしれない。

夏目漱石「三四郎」(新潮文庫)模写その2(すみがき たけし)

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