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ロベルト・シューマン Robert Schumann

アイドルのファンは、誰より応援している子のことを「推し」という。
流行りのアニメやマンガのおかげで、推しを使う人が増えたが、急に生まれた言葉でもない。
何を隠そう、私だって四半世紀前は、モーニング娘。の中では石川梨華が推しメンだったし、四十年前のアイドル全盛時代、そうそうたる顔ぶれがしのぎを削りあっている頃は、デビュー間もない菊池桃子を推していた。

「推し」というものは決して、決してアイドルだけが対象になるわけではない。
たとえばスポーツ選手にだって、推しは存在する。
私はサッカーが大好きで、Jリーグの試合をよく観に行くが、サポーターの多くは推しの選手の名前と背番号の入ったシャツやグッズを身に着けて応援をしている。
うちの母親は阪神タイガーズのファンだが、やはり推しの選手が存在する。

私の知り合いには戦国武将が大好きな人物がいるが、彼によると「蒲生氏郷」が推しなのだそうだ。
「なんでまた、蒲生氏郷なのか?」
理由を問うても、明快な答えは返ってこない。理屈なんて置いても、とにかく蒲生氏郷が他のどの戦国武将より好きで、誰がなんと言おうと「推し」なのだそうだ。

この気持ちはよくわかる。
「何でか知らんけれど、他の誰より好きやねん、惹かれるねん」というものは、どの世界、どのジャンルにも存在する。
いわゆる偏愛というやつである。
私にも次のような、理屈では説明のつかない推しが存在する。
画家ならばクロード・モネ、日本人作家ならば北杜夫、詩人ならば中原中也、新選組隊士ならば斎藤一、星ならばシリウス、昆虫ならばビロウドツリアブかヒメクロオトシブミ、山ならば岩手山、モビルスーツならばグフ、ポケモンならばイーブイ、怪獣ならばアンギラス、平家物語の登場人物ならば熊谷直実、うる星やつらの登場人物ならば因幡君、ジャズシンガーならばチェット・ベイカー……。

そして、作曲家では断然、ロベルト・シューマンが推しなのだ。

「なんでまた、ロベルト・シューマンなのか?」
そう問われても、はっきりと答えることはできない。
他の作曲家を差し置いて、シューマンこそが最高の作曲家だと主張する気もない。
欠点も、弱点もある。そういうところも含めて、愛すべき音楽家なのである。


ロベルト・シューマン(すみがき たけし 2024)

シューマンの音楽を初めて意識したのは、中学一年生の頃、FMのラジオで流れてきたピアノ協奏曲イ短調を聴いたときのことだ。
たしか、まだデビュー間もないクリスティアン・ツィメルマンがソロを弾いたコンサートライブ音源だった。
出だしから情熱的なリズム、幻想的な曲想が目まぐるしく移り変わるように続き、あっという間に音楽に引きこまれていた。
何という感覚だったろう。
遠い異国で、百年以上前に作られた音楽。それなのに知らない他人が作った曲とは思えない親近感を、この音楽に感じた。
その後、シューマンの曲がラジオで放送されるたびにカセットテープにラジオ音源を録音して、何度も繰り返して聞いた。
小遣いを少しずつためて、ピアノ協奏曲と、交響曲全集のレコードを買った。

じつは、シューマンのピアノ協奏曲については、もっと幼い頃に最初の出会いをしていたはずだ。
そう、ウルトラセブンの最終回。モロボシ・ダンがアンヌ隊員に自らの正体を明かしたとき、この曲の冒頭部分がアンヌの心の衝撃を表現するかのように使われた。
そして、そのままシューマンの情熱的な音楽がバックに流れ続けるなか、ウルトラセブンは命をかけた最後の戦いを行ったのだ。
しかし、子供の頃はセブンの戦いの行方にハラハラし通しで、バックに流れる音楽など気にもしていなかった。それがシューマンのピアノ協奏曲だったと気づいたのはずっと後年のことである。

ピアノ協奏曲に続いて、私の心をとらえたのは、交響曲第2番と第4番だ。
これらもシューマンの情熱と幻想がほとばしる音楽だった。
最初はカラヤン指揮ベルリン・フィルの演奏を中心に聴いていたが、その後シノーポリやバーンスタインが指揮する演奏も聴いて、よりシューマンの交響曲の魅力に取り憑かれていった。

このようにして、私はシューマンの世界に、ピアノ協奏曲や交響曲などオーケストラ作品から入ったわけだが、実のところシューマンのオーケストレーションについては様々な問題点が指摘されている。
楽器の響きをやたら重ねすぎる癖があって演奏効果が上がらない、とか、そもそも管弦楽法の専門的教育を受けていないから楽器の使い方がまるでなっていない、とか……。
確かに「指摘されるとおり、ごもっとも」とうなづかなければならない点もあるだろう。
しかし、それを補う魅力がこれらの音楽にはあると思うし、演奏効果が上がらないという指摘についても、意図的に混ざり合った中間色のような音を求めて、スコアを書いたのではないだろうか、と反論したくなるところもある。

シューマンのエッセンスは、ピアノ独奏曲や歌曲にこそ色濃く現れるといわれる。
これらのジャンルを本格的に聴き始めたのは大学生の頃だった。アルバイトで収入を得て、CDも買えるようになり、これらの音楽にも手を伸ばせるようになってきたのだ。
蝶々、アベッグ変奏曲、謝肉祭、ダヴィッド同盟舞曲集、交響的練習曲、クライスレリアーナ、子どもの情景、アラベスク、花の曲、トッカータ、幻想小曲集、ピアノ・ソナタ第1番、第2番、第3番、幻想曲……。
そこはもう、宝石がぎっしりつまった世界だった。
多くの宝石の中でも、ひときわ心をわしづかみにされたのは幻想曲ハ長調だった。
この曲に関しては、数あるロマン派のピアノ曲の中でも最高ランクに値する作品だと私は思っている。
歌曲では「詩人の恋」が素晴らしい。第7曲目のIch grolle nicht (恨みはしない)が私にとって最大の聴き所だ。

そして、忘れてはならないのが室内楽曲。
これらも、シューマンの魅力がぱんぱんに詰まったジャンルだ。
弦楽四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ三重奏曲、ピアノ四重奏曲、そして圧巻なのがピアノ五重奏曲。あふれんばかりの情熱や幻想に、ブラームスを先取りするような堅固な構成力が兼ね備わった稀有な傑作だ。

また、近年では、オペラやオラトリオ、宗教曲など声楽付きの大規模作品の再評価も始まっている。


シューマンは、ツヴィッカウというドイツ東部の小都市で、父親が書店と出版業を営む家庭に生まれた。
そんな家庭環境からか、子ども時代からゲーテ、シラー、ハイネ、ホフマン、ジャン・パウルなどの作品に親しみ、音楽よりも文学に夢中だったようだ。
文筆活動への関心が、後年、作曲と並行しておこなった音楽評論の仕事につながったのだろう。生前は、作曲家としてよりむしろ評論家として知られていたとも聞くし、ショパンやブラームスの才能をいち早く認め世に知らしめたのも、シューベルトの埋もれた作品の発掘や再評価に貢献したのもこの分野での功績だ。
また、シューマンの音楽全般に色濃く漂っている文学的な香りは、ここに源を発しているのだろう。

シューマンは、歌好きの母親の影響で音楽に関心を持ち始めたが、同世代のメンデルスゾーンやショパン、リストのように幼年期から音楽の英才教育や専門教育を施されたわけではなかった。
ピアノ演奏に関しては、18歳頃に自らの意思でライプチヒの音楽教師フリードリヒ・ヴィークの門を叩いたが、作曲に関しては独学に負うところが大きかったと思われる。
しかも、大学まで法律家になるための勉強を続けており、親を説得して音楽で身を立てる決意をしたのは20歳になってからだった。
遅咲きゆえの焦りもあったのだろうか。シューマンは後れを取り戻すべく、指の動きを強化する装置を独自に考案し、それを使ってピアノ演奏の特訓をはじめた。
まるで、大リーグボール養成ギブスで鍛えた「巨人の星」とか、腕や脚にパワーリストやパワーアンクルを装着して強化をはかった「リングにかけろ」といった昭和のスポーツ漫画のような発想と展開である。
しかし、不幸なことに(いや……むしろ当然というべきか)、無謀な特訓を繰り返したおかげで、シューマンは指を痛めてしまい、ピアニストになる道を断念せざるを得なくなった。
そしてピアニストがダメならば、ということで一層熱を入れて取り組みはじめたのが作曲家としての活動だった。

シューマンの生涯で必ず語らなければならないのはクララの存在である。
クララは、ピアノの師であるフリードリヒ・ヴィークの娘で、天才的なピアノ演奏能力の持ち主だった。
その才能は幼いころからヨーロッパ中の注目を集め、ヴィーク先生にとっては大切な宝物のような娘だった。
ところがである。そんな大事な愛娘が、こともあろうにアホな装置で指を痛めた残念な弟子シューマンと恋仲になってしまったのだ。
カンカンになったヴィーク先生は、数年間に渡ってありとあらゆる妨害工作や嫌がらせを企てて、娘と弟子の恋路を邪魔しようとしたが、シューマンとクララは決してあきらめることなく、お互いへの想いをつないだ。そして最後は、師匠相手に(クララにとっては実の父親相手に)訴訟を起こし、法的に結婚をする権利を勝ち取った(後年、ヴィーク先生はオラトリオ「楽園とペリ」の上演に接して感銘を受け、シューマンと和解している)。
この燃え上がるような恋愛の経験が、シューマンのあらゆる作品のなかに燃える命のように宿っている。
私が、シューマンの沼にはまるきっかけとなったピアノ協奏曲も、クララへの想いがこもった熱い音楽だったのだ。

クララとの結婚生活も順調で、8人の子供に恵まれた。
クララは母親になったあとも才色兼備のピアニストとして絶大な人気を誇った。ヨーロッパ各地への演奏旅行にはシューマンも同行することが多かった。
ところが、どこに行っても「クララ様についてきた冴えない旦那」みたいな添え物的扱いを受けた。
また、ライプチヒのシューマンの家には、たびたびリストやショパンが訪ねてきた。しかし、シューマンに会うというよりクララに会えるのを楽しみにやって来たというのが実情だったのかもしれない。
こういった状況は繊細なシューマンを悩ませた。音楽家としての自尊心が大きく傷つけられた。
しかし、そんなシューマンの作曲家としての能力を評価し、オーケストラ作品の初演にも助力してくれた人々もいた。ライプチヒ・ゲヴァントハウスの指揮者をしていたメンデルスゾーンやデンマーク出身の音楽家ゲーゼたちだ。
メンデルスゾーンとは終生尊敬し合っていたし、彼がライプチヒに音楽院を創設したときもシューマンを作曲とピアノの教授として招いてくれた。
ただし、メンデルスゾーンがゲヴァントハウスの指揮者を辞したとき、後任に選ばれたのはゲーゼだったことで、シューマンはひどく落胆した。

シューマンは、自らの活躍の場を求めて、ライプチヒからドレスデン、そしてライン川沿いの都市デュッセルドルフへと活動の拠点を移した。
ドレスデンでは、シュターツカペレの指揮者をしていたワーグナーとしばしば待ち合わせをして、一緒に散歩などをしたようだ。
ワーグナーは、ライプチヒ大学に在学していた頃、ヴィーク家にも出入りをしており、その頃からシューマンとも面識があったと思われる。
ただ、ワーグナーはとても品行方正と言えるような若者ではなかったらしい。ヴィーク家にあった譜面を借り出したまま返さないことも、ちょこちょこあったらしく、クララはそんなワーグナーを毛嫌いしていた。彼女はワーグナーが交響曲を作曲したという噂を聞くと、シューマンに、あなたも負けないような交響曲を書いて、とけしかけたらしい。
ただシューマン自身はワーグナーのことをどう思っていたのか。ワーグナーもシューマンをどう見ていたのか。
性格も、音楽性も、あまりにも異なった2人が一緒に散歩したとき、いったいどんな会話をしていたのか興味があるところだ。
資料などには、2人は冷え切った関係だったと書かれていることが多いが、私は意外にもシューマンとワーグナーはお互いに刺激を感じあう関係だったのではないかと思っている。

デュッセルドルフには、同地のオーケストラと合唱団の指揮者に就任するために移り住むことになった。メンデルスゾーンの友人であった作曲家ヒラーが自分の後任として推薦してくれたのだ。
シューマンが念願としていた楽壇での大きなポストへの就任がいよいよ実現したわけだ。夫が社会的に評価される立場になることを望んでいたクララも大賛成だった。
デュッセルドルフ市もシューマン一家を熱烈に歓迎したようだ。彼もそれを意気に感じ、オーケストラのために協奏曲と大交響曲を相次いで作曲した。それが、チェロ協奏曲と交響曲第3番「ライン」だ。

デュッセルドルフにあったシューマンの家を訪れたことがある。市場が立つマルクトプラッツ(中央広場)からもほど近い場所にその家はあった。
ここでクララや子どもたちと人生でもっとも幸せで輝いた一時を過ごしたのだろう。若きブラームスが訪ねて来て、シューマンに才能を見出されたのもこの頃のことだ。
しかし、シューマンの人生は突然暗転する。寒い謝肉祭の夜に、彼は冷え切ったライン川に身を投げたのだ。
もともとシューマンには精神的に不安定なところがあったが、そこに多忙な指揮者の仕事が重圧としてのしかかってきたのだろうとされている。また、クララとブラームスの親密さを疑って理性と感情のバランスを崩したのでは、と推測する人たちもいる(真相はわからない。ただし、クララがその後も夫の曲を愛奏し、その普及に努力し続けたことや、ブラームスが終生シューマンをリスペクトしていたことは事実である)。
近くで漁師が目撃していたおかげで、すぐに救助され、一命をとりとめたシューマンだったが、そのままボンの郊外エンデニヒの療養所に収容され、2年後そこで亡くなった。
現在ではエンデニヒの療養所跡がシューマンの記念館になっているので訪問したが、住宅街のはずれの寂しい場所だった。現代でも寂しいのだから、当時はもっと寂しいところだっただろう。


シューマンは、現代においても不思議な立ち位置にいる作曲家である。
アカデミックな教育を受けなかったことで、シューマンの作品には独特な素人臭さ、アマチュアっぽさが感じられるところがある。
そのせいで、他の作曲家より軽んじる人々もいる。
しかし、そんなシューマンにことさら共感し、愛奏する演奏家たちが多いことも事実である。指揮者ではバーンスタインやサヴァリッシュ、エッシェンバッハ、シノーポリなどにその傾向が強いし、ハイティンクやレヴァイン、クーベリック、スウィトナー、ムーティ、メータ、ガーディナー、バレンボイム、ノリントンなども名演を残している。
ピアニストではアルゲリッチやブレンデル、ピリス、日本人では伊藤恵が共感力が強いし、古くはコルトやホロヴィッツ、リヒテル、近年ではポリーニやルプー、ル・サージュ、シフ、オピッツ、デムスなどに名演が多いように思う。
クラウディオ・アバドは、いよいよシューマンの交響曲全集に取り掛かろうというときに亡くなったらしい(第1弾の交響曲第2番だけが残っている)が、それまでも、ベルリン・フィルと「ファウストの情景」を録音し、作品の再評価につながった。ピアノ協奏曲に至っては、ポリーニやブレンデル、ペライア、ピリスなど様々な名ピアニストと少なくとも4回以上録音を残している。

また、私がシューマンの音楽に感じる「まるで他人が書いた作品とは思えない」という不思議な感覚は、どうやら私だけのものではなくて、多くの人が同様の思いに駆られているらしい。
シューマンの音楽を一度愛し始めた人は、度を超えてとことん愛してしまう傾向が強いようだ。
そして、シューマンの沼にズブズブとハマり、その情熱と幻想の虜となる人々はシューマニアーナと呼ばれ、世界中に存在する。
方向性はまるで違うけれど、ドハマリしてしまうところが少しワグネリアンに似ているのかな(ワグネリアンは、ワーグナーこそ最高の音楽家であると信じて疑わない傾向が強いのが、違う点ではあるけれど)。

今回は思わずとても長い本文を書いてしまったが、これも「シューマン推し」であるがゆえの、情熱エネルギーがなせる技なのである。

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