
鱗形屋孫兵衛 -蔦重の師でありライバルだった男-
【序文】
大河ドラマ「べらぼう」に登場する鱗形屋孫兵衛。
ドラマでは、蔦重をいいように利用して、ついには偽版事件でお縄になってしまいました。
その鱗形屋孫兵衛はどのような人物だったのでしょうか。
【江戸の出版権を独占】
鱗形屋孫兵衛は17世紀の半ばごろからの江戸の老舗の地元問屋「鱗形屋」の主人です。
初代は加兵衛、二代目は三左衛門、三代目が孫兵衛になります。
やり手だったのか、鱗形屋孫兵衛は、京都の出版人・八文字屋自笑の「浮世草子」の、江戸における出版権を独占することに成功しました。
【浮世草子】
江戸時代の小説の一種。天和2年(1682)刊の井原西鶴の「好色一代男」以後、元禄期を最盛期として約80年間、上方かみがたを中心に行われた小説の一種。仮名草子と一線を画した写実的な描写が特色で、現世的・享楽的な内容。好色物・町人物・武家物・気質物かたぎものなどに分けられ、西鶴以後は八文字屋本が中心。浮世本。
また、元日に宝船の版画を販売しました。
「この宝船の版画を元日の夜に枕の下に入れて寝ると縁起のいい夢がみられる」と触れこんで、売り出しました。
それが功を奏し、元日の夜が近付くと、宝船図を買う客が鱗形屋に殺到しました。
【蔦重、鱗形屋の元で働く】
その頃、我らが蔦重は本の貸出し、販売を行っていました。
ある時、鱗形屋の出版していた「吉原細見」の編集をやらせてほしいと頼みこみます。
吉原細見とは吉原の遊女や店を紹介する冊子です。
吉原生まれで茶屋の仕事もしていた蔦中にはうってうけの仕事だったのでしょう。
無事、鱗形屋から吉原細見の編集を任せられるようになります。
そして、編集者として大活躍したのでした。
【初の黄表紙文学を刊行する】
やがて鱗形屋は、安永四年(1775年)に恋川春町の「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」を刊行します。
この作品は、子供向けの「赤本」やその大人向けの「青本」にも属さず、初の「黄表紙文学」と言われます。
この金々先生栄花夢は大ヒット作となったのでした。
【江戸出版界から消えた鱗形屋】
しかし、宝船や金々先生栄花夢の大ヒットの後・・・調子に乗ったのか、安永四年(1775年)鱗形屋の手代徳兵衛が上方(大坂)の版元の刊行した実用書「早引節用集」を「新増節用集」に無断で改題。
そのうえ、その新増節用集を勝手に出版してしまいます。
これが大河ドラマでも描かれた鱗形屋の重版(偽版)事件です。
主人の鱗形屋も連帯責任として、処罰を受けます。
・手代徳兵衛は家財没収、江戸から十里四方追放
・鱗形屋孫兵衛は監督責任を問われて、二十貫文の罰金
を言い渡されました。あちゃ~。
鱗形屋はその年の吉原細見を発行できなくなってしまいました。
その間隙を突いてでてきたのが我らが蔦重。
新しい吉原細見「籬の花」を発行し大好評を得ます。
後に、鱗形屋は安永5年(1776年)に再び吉原細見を発行したものの、市場はすでに蔦重の独占状態で太刀打ちできず・・・。
鱗形屋孫兵衛はかつての輝きを取り戻すことができず、急速に衰退していきました。
やがて、鱗形屋は江戸の出版業から消えていったのでした・・・。
そして、鱗形屋の作家だった恋川春町や朋誠堂喜三二は、蔦重に引き抜かれて専属の黄表紙作家となるのでした。
ちなみに、鱗形屋孫兵衛の次男は、西村屋与八(にしむらやよはち)の養子に入り、二代目西村屋与八となったとされます。
なので、鱗形屋さんの坊ちゃんは二代目西村屋与八になり、蔦重にリベンジしてくる展開になるのかもしれません。
【終文】
鱗形屋孫兵衛は江戸の出版行を牛耳る存在でした。
しかし、手代の重版事件で自滅してしまいます。
代わりに台頭してきたのが蔦重でした。
この鱗形屋の自滅がなければ、蔦重も後世に名を残せなかったかもしれませんね。
蔦重の商売の師でもありライバルでもあった鱗形屋孫兵衛。
蔦重にとって大きな存在だった人でした。
いいなと思ったら応援しよう!
