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田沼意次 -大政治家か賄賂の問屋か-



【序文】

大河ドラマ「べらぼう」に登場する田沼意次
今回は田沼意次の真実の姿を取り上げたいと思います。
田沼意次というと、今まで賄賂政治家と悪し様に言われ続けた人でした。
しかし、最近ではその評価が見直され、開明的な政治家と言われるようになってきたのです。

そして、田沼意次は私が大学時代にその政策を学んだ人物でもあります。
当時の教授は田沼意次が賄賂の問屋ではないと擁護する人でしたね。

 では、意次の主な政策を見ていきたいと思います。


【重農主義から重商主義に転換】

まず、意次は税金をお金で取ることを思いついた人でした。
今でこそ税金をお金で取ることは当たり前ですが、当時は米中心の経済という社会です。
税金は年貢米で取るというのが当たり前の時代でした。

しかし、意次は米中心の経済はもう限界だと考えていました。
意次の前に徳川吉宗が享保の改革を行って、年貢米の増加に努めました。
ですが、増税によって百姓一揆の多発や、新田開発の限界に見舞われていました。
これ以上、農民から年貢米を搾り取るのは無理と意次は判断したのです。

そこで、商人からお金で税金を払われせることにしたのです。
農民がダメなら金のある商人から取ればいいじゃないか、というわけですね。
株仲間という同業者同士の集まりを積極的に推し進め、営業税として運上・冥加という税金をいただくことにしたのです。

意次は重農主義から重商主義へと転換しました。商業重視の政策を採ったのですね。
目のつけどころが違いますね、常識にとらわれない発想ってやつですかね。
意次さんすごい!


【金貨と銀貨の統一を目論む】

さらに、意次は金貨と銀貨を統一しようとしました。
当時は三貨制度といって金・銀・銭の貨幣が使われており、西の銀遣い・東の金遣いと西と東で別々の貨幣を使っていました。
銀貨と金貨をいちいち両替する必要があり、経済発展の阻害になっていました。

そこで、意次は南鐐二朱銀という貨幣を発行して銀貨・金貨の統一を図りました。
それまでは銀貨の価値は重さで決まる秤量(しょうりょう)貨幣だったのが、貨幣単位で価値が決まる計数(けいすう)貨幣へと移行します。
こうして西と東の経済圏が統一し始め、経済発展に繋がりました。

しかし、両替で利益を得ていた両替商の反発などによって完全な銀・金の統一は図られることはありませんでした。
結局、東西の貨幣が完全に統一されるのは明治時代を待たなければなりませんでした。


【ロシアと交易しようとした】

また、意次はロシアと交易しようと考えていました。
いわゆる鎖国政策まっただ中のあの時代に、です。

意次は、工藤平助という人が書いた「赤蝦夷風説考」という本に目を通すことになりました。
この本はロシアの危機に警鐘を鳴らした本でした。
この本を読んで意次は感化され、ただちに部下に蝦夷地の調査を命じます。
蝦夷地を開発して鉱山開発を進め、そこで算出される金・銀・銅を元手にロシアと交易しようと考えていたのです。

 結局、意次の失脚に伴って蝦夷地開発は現実に移されることはありませんでした。あちゃ~。
蝦夷地開発は現実的な政策ではなかったようです。
しかし、ロシアと交易しようと意次が考えていた、ということはグローバルな視野を持つ先見性のある人だった、と思います。


もしも商業重視や対外開放政策が続いていたなら、日本は欧米列強と時を同じくして産業革命を達成し、100年以上早く資本主義国になっていた可能性もあるのだ

日本史は逆から学べ 江戸・戦国編  河合敦:著


と、河合さんはこのように言っていますね。
すんなり開国→産業革命達成の流れになったかはわかりませんが、
田沼政治がもっと長いこと続いていたら、その後の歴史は大きく変わったことでしょう。
ただ、この段階で開国でも、それはそれで新たな火種も起こると思います。


【賄賂の問屋ではない?】

賄賂政治で賄賂の問屋とまで言われた田沼意次。
たしかに意次は賄賂をもらっていました。
しかし、意次を擁護するなら、当時賄賂をもらっていたのは意次だけではありませんでした。

賄賂は当時、当たり前のこととして認められていました。
これは、私が大学時代の教授も言っていましたが。
だから、意次だけを殊更攻めるのは酷というものでしょう。

そして、意次が受け取った賄賂は部下に食事をごちそうするために使っていたという話です。

意次は自分のためではなく、国益のために政治を行っていた、ということでしょう。
「べらぼう」の作中でも意次は「国益」という言葉を使っていますね。

最近まで悪く言われ続けたのはなぜなんだろう・・・?
松平定信がウソの悪評を広めたことが原因かな。


【田沼意次の子孫は現在いるのか】

最後に、田沼意次の子孫を調査してみました。
結論から言って意次の子孫は現在にいます。

田沼家13代当主の田沼道雄さんという人が意次の子孫です。
道雄さんは悪の権化扱いされていた意次の子孫ということで、苦しい思いをして育ったようです。

しかし、最近では意次の評価も見直されてきたため、道雄さんも先祖の名誉回復に向けた活動に関わっているようです。
道雄さんにはご子息が2人いるそうで、意次の血脈は現在まで受け継がれています。


【終文】

田沼意次が賄賂の問屋ではなく、開明的な政治家でした。
商業重視、金・銀貨幣の統一・ロシアとの交易など様々な革新的な政策を打ち出しました。

特にあの時代、ロシアと交易しようと考えていたとはすごいと思います。
田沼時代が長く続いてロシアと交易して仲良くなっている歴史も面白いですね。
そうすれば、日露戦争も避けられた、かな?

意次の文化政策で文化発展に繋がりました。
蔦重がいろいろな人をプロデュースしたのもこの時代ですね。

昔は松平定信が好きだったのですが、今は田沼意次のほうが好きになりました。
定信は文化弾圧をやりすぎだよ・・・。

功罪あったけど、田沼時代がもっと長く続いてくれたらなあ、と思ってしまいます。


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諸葛鳳雛@真・歴史探偵
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