嵯峨野の月#98 わかれ途
秘密15
わかれ途
もう、潮時なのかもしれない。
と真名井が思ったのは朝、化粧をするために鏡に向かい自分の前髪の生え際に二、三本の白いものを見つけた時。
無理もない、今度の正月で私はもう三十一なのだ。
ひと月前の中納言さまの別荘での宴に招ばれて楽を披露した時つくづく思った。
たとえ教養至らず舞楽が未熟でも、殿方というのは若い娘を求める生き物。
結局、男が女に求めるものは気の利いた会話よりも工夫を凝らした芸よりも、吸い付くような瑞瑞しい肌なのだ。と。
毛抜きで引き抜いた白髪の根元を見つめ真名井はふっ…と自虐的な笑みを浮かべる。
わたしもこれからどんどん容色衰え、どの貴人からも求められなくなるだろう。
そう、この方も。
と化粧を済ませ衣服を整えた真名井はまだ眠っている最愛の人、良岑安世の頬にそっと手を触れ、親指で眉間から鼻筋、唇から顎までなぞってみる。筋の通った眉目に引き締まったお肌。無理もない、この御方は私より四つも年下なのだ。
思えば十二年前、出世払いでいいから相手をしてくれないか?と私をお求めになられた時の真摯な目。
お金や食糧と引き換えに私を求めて来る殿方がとうに失ってしまった純粋さがその目に宿っていらっしゃったので私はそれに惹かれ…あなたに女体というものを教えて差し上げました。
「いかがでしたか…?」私のからだの上で汗ばむあなたはほう…と夢見るように息をつき、
「羽化登仙とはこのような心地だったか」
と言って乳房の間に顔を埋めて眠ってしまったあなたはまだ十四で私は十八。明り取りの窓から陽が照り付ける夏のことでした。
真名井の指の感触に安世はむむ、と唸りながらも二時前までの情事の余韻に浸っているのか笑みを浮かべたまま起きようとしない。
出会った頃は身分の低い母から生まれた皇子で宮中で粗略に扱われていたあなたが今や今上帝の最側近。…いつまでもこのような関係を続けてはいけない。
本当に兄さまの言う通りだ。
あれは二十年前で都が長岡京だった頃、和多利は一度だけ伝説の色子(男娼)、比羅夫とすれ違った事がある。
年の頃十五、六だというのに豊かな髪を腰まで届くみづらに結い、化粧を施した桃色の直衣姿。
侠客の番人に左右を守られて日が暮れたばかりの都の通りを堂々とを闊歩していた。
どこかの貴人の男が別荘で宴を開くと家に残った妻たちは決まって比羅夫を呼び出して束の間の享楽を得る。
彼の練絹のような肌身に包まれ琴を弾くよりも繊細な指の動きで貴婦人たちは夫との閨事でも味わえない天にも昇る心地になるそうな…
男でも女でも坊主でも相手は拒まないってさ。一度は味わってみたいもんだねえ。
と比羅夫の姿に見惚れ囁き合っている群衆の中に割り込んで前列で見ていた和多利と今宵も五月蠅い物見の衆だなあ。と呆れて見ていた比羅夫の視線が一瞬だけ交差したことがある。
忘れやしねえ、薄く白粉をはたいて唇に紅まで差した比羅夫さまの笑顔は…
成程、これなら坊主でもふるいつきたくなるだろうよ。と思ったくらい美しかったが同時に、こいつはいつか大それたことをしでかす。と思う程の危うさを感じた。
真名井が結び文を受け取って十五日後の夕方、本当に僧侶は九条のこの家にやって来た。
「久しぶりだね恭仁子」
と僧侶は老女潮目しか知らぬ本名で自分を呼んだので真名井は一瞬怯んだがそれでも和多利を間に置いて、
「本当にあなたが比羅夫兄さまなら、そうと解る証拠をお見せになって」
とつとめて硬い声で言った。
僧侶は迷わず自分の僧衣の懐から布包みを取り出し和多利に押しつける。包みを開くと椎の実やらむかごやら木の実がぎっしり詰まっている。
和多利から受け取った包みを両手に乗せた真名井は茶褐色の実を凝視する…
「皮を剥くとそのまま粥に入れて食べられるんだよ」
と僧侶が言った直後、真名井は彼に抱きついて
「兄さまだ…兄さまだ。本当に兄さまだあ!」
と僧衣の胸に頬を押し付けて今までの労苦を吐き出すように嗚咽し、僧侶はそんな妹を優しく抱き留めた。
比羅夫と恭仁子。
今は最澄の弟子泰範と都随一の遊女真名井となって二十五年ぶりに再会した兄妹は天武帝直系の賜姓皇族、氷上家の生まれである。
が、祖父塩焼が藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとして殺害され、
塩焼の妻で祖母の不破内親王も称徳天皇を呪詛したとして皇親の身分を奪われており祖父母の代で既に落ちぶれていた。
兄妹の父である氷上川継は恭仁子が生まれてすぐに謀反を企んだ罪で伊豆国に流されていたので側女の子である二人は近江にある母の実家に氏素性を隠して身を寄せていた。
暮らしは貧しかったが近江は湖の方に行けば魚が採れるし山の方に行けば木の実が採れる自然豊かなところだ。
幼い比羅夫は母と妹を食べさせるために毎日籠を背負って食べられる山草や木の実や茸を取り、乳母の潮目に渡して朝晩の粥に入れてもらって腹を満たしていた。
二月に一度は父の従者だった男が衣類や炭などの物資を届けてくれた。
「苦しいでしょうけれどお父上が帰るまでの我慢ですよ」
と励ましてくれたその男が…比羅夫が十歳の時、突然押入って目の前で母を刺し殺して兄妹二人を拐って人買いに売ったのだ。
兄さま、兄さまあ!と潮目と共に人買いに連れ去られていく妹の叫び声が今でも耳から離れない。
都の唐人に売られた比羅夫は顔立ちが美しいからと貴婦人相手の色子にさせられた。女色を禁じられている僧侶も彼の上客だった。
客を飽きさせぬ程の学や伎芸を身に付けさせられ、他の色子よりいい暮らしをさせてもらえても所詮、自分は売り物。
昼は妓楼に閉じ込められ、夜は高貴な者たちの欲の捌け口となって暮らしていくのか…と虚しい心で生きていた十八の時、転機が来た。
和気広世という貴族が楼主に大金を払って比羅夫を請け出し、「人生をやり直せ」と奈良の元興寺に入れてくれたのだ。
師匠から泰範、と名を貰った比羅夫は仏道修行に打ち込み過去の事に一切口をつぐんだ。
「色を売ってきた屈辱を忘れて僧として生きるつもりだったがある夜、広世さまから『比叡山寺の最澄和尚の処へ行け』と言われてな…広世さまには恩があるので比叡山に行った。そして最澄さまの動向を逐一広世さまに報告してたさ」
と氷上比羅夫こと泰範は…もう十年近く妹に仕えてくれた老人、和多利だけに己が素性と過去を語った。
「驚きましたぜ…比羅夫さまが天台宗最澄和尚の愛弟子になっておられるとは」
はん!と泰範は
「とどのつまり私は偽坊主の密偵さ。今となっては主の広世さまに死なれてもうどう生きたらいいかも解らない」
と己を嘲笑った。天井を向く泰範とは正反対にうつ向いてふっふっふ…と笑う老人に、
「何がおかしい?」と問うと、
「いやね、今起こっている偶然が面白くてね…
まさか比羅夫さまも俺と同じく広世さまに飼われていた身だったとは」
と顔を上げた和多利の目は灯火に照らされて何か企んでいる輝きに満ちていた。
「何だって!?」
「俺は長岡京で木工の仕事をする筈だったが相次ぐ水害で食いつめた上に病になり、慈悲小屋で広世さまに命を救われた。
そこで広世さまに俺に貧窮に喘ぐ女。つまり遊女の世話をする役目を与えて下さった、という訳さ。
神仏を信じねえ俺だが広世さまの御霊《みたま》が俺たちに『人生をやり直せ』と仰っているに違いない。
…今しがたお二人の事情を聞いてこの和多利、姫様を今の暮らしから必ず抜けさせなくては、と決意致しましたぞ」
妹をここから救いだしたい。
だから泰範は幼い恭仁子が弾いていた琴の琴を弾く遊女の噂を頼りに七条から九条まで探してここまで来て、やっと恭仁子に会えたのだ。
九条の路地の家で老人と僧侶は無言でうなずき合った。
そこから二人は急に声をひそめて長いこと話し合い、夜明け近くになり師が心配するから、と泰範は投宿する寺に帰って行った。
翌朝、泣いたまま眠ってしまった真名井は起きても体調がすぐれず兄と再会して気が昂っているのか朝餉の粥を口に含んで吐き戻してしまう。
まさか…!
「三日後にはまた会いに来る、と比羅夫さま仰ってましたよ」
眠い目をこすって和多利が報告に行くと我が主が床に吐かれた粥と主の泣き腫らした顔。
それだけで老人は全てを悟った。
「どうしよう和多利さん…」
「薬師に診てもらいましょう、全てはそれからです」
すぐに和多利は真名井の一番の上客であり宴があればいつも呼び出してくれる支援者で中納言の藤原葛野麻呂の邸に向かい、家司の多治比志摩麻呂に真名井からの結び文を渡した。
お昼過ぎには中納言が寄越した薬師が九条の家に往診に来てくれて真名井に見立てを告げると…
「そうなのですね」
と真っ直ぐな目で薬師を見て何かを決意した真名井の化粧っ気のない横顔は、和多利が見てきた中で一番美しいものだった。
薬師が帰ると老女潮目と和多利は「すぐに手筈を整えましょう」と主に進言した。
真名井はゆっくり首を振り、
「でもあさってにあの御方が泊まりにいらっしゃるの」と言うではないか。
「私の一生のお願いを聞いて!」と床に手をついて泣く主に哀願されては老人二人も聞き入れるしかなかった。
そして三日後の朝、粥の匂いで安世は目を覚ましてふああ…と欠伸をしながら上半身裸で起き上がった。
「そのままではお寒うございますよ」
背後から真名井が重ねた単衣をかけてくれ、火鉢の中の炭は真っ赤に燃えて我が身を温めてくれる。
潮目が持ってきた角盥の水で洗顔と含嗽を済ませ、真名井に髪を結い直して貰ってから朝餉を食べると、下級役人に変装したなりで世は真名井に向かって、
「では行ってくる」といつものように笑いかけた。
「それでは行ってらっしゃいませ」
真名井もどこの家の妻もしている挨拶で安世を送り出した。
最初の会瀬から十二年間続けてきた二人の、いつもの朝。いつもの挨拶。
それが最後の朝だった。
年末の宮中行事が落ち着いた頃に安世が武官に変装して九条の家を訪れた時、そこは無人になっていた。
「そこのお若いの」
呆然とする安世に声を掛けたのは気心の知れた侠客の頭だった。
「もうその家に誰が住んでいたか、何処に行ったかなんて俺たちは知らねえ」
頭はわざと安世を突き放した口調でそう言った。
「なあお若いの。最初会った時のあんたは、はぐれた子犬みたいに寂しそうだったんで俺達九条の住人が相手してやったが…今はもう貴人の中の貴人だ。二度と九条に来ちゃなんねえ。分かるな?」
太刀にすがり付いて地に両膝を付き、すでに子供のように泣きじゃくっている安世の肩をぽん、と叩いて頭はその場を後にした。
真名井。真名井。
お前ははぐれ者の皇子だった俺を初めて慈しんでくれた、まさに菩薩だった。
自ら姿を消したのは、菩薩の役目を終えたからなのか?
九条の住人たちがじろじろ見ながら通り過ぎるのも構わずに安世は気の済むまで泣き続けた。
愛しい安世さま。
思えば私はこの世の美しく豪奢な所も目を背けたくなる泥濘も見てきて、
人とは現世の有り様を見るためだけに生まれてくるものなのかもしれない。
と思うようになってきました。
真名井は元の恭仁子に戻ってあなたがくれた真に愛し愛された思い出と、
あなたがくれたこの上ない宝物。
お腹の赤さまと共に市井で生きて行きます。
この世に生きる甲斐の無い身の上である私を好いて下さって本当にありがとう。
そして生きている間も死してからも後の世がどう移り変わろうと、
あなたを愛していますよ。
翌年の弘仁三年(812年)、良岑安世は蔵人頭を経て正五位下に叙爵した。
はぐれ者の皇子だった彼がやっと貴人として光輝く途を歩き出したのだ。
そして羅城門の東にある真新しい家でとある僧の妹だと云う女人が元気な男の赤子を生んだ。
「今まで貴族の男たちに夢を見させてくれた礼だ」
と葛野麻呂が与えてくれた家に移り住んだ真名井は本名の恭仁子に戻り老人と老女だけを使用人に付けて子を育てながら穏やかに暮らし、息子はよく勉学して都の役人になった。
その家の近くには教王護国寺と言う平安京鎮護のための立派な寺があり、後に嵯峨帝により空海に下賜されたその寺はいつしか皆から、
東寺。
と呼ばれるようになった。
弘仁四年に空海の弟子になった泰範が東寺の定額僧になったのはいつの頃からかはっきり解らない。
が、彼と家族の事情を全て知った上での空海のはからいなのかもしれない。
後記
泰範の正体とある男女の別れ。