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推しのラジオから学んだ人間関係における2つのコツ

とある芸能人を、ずっと推している。
1つのコンテンツに対して、2ヶ月持ったら良い方の飽き性な私が、もう5年以上も。
昔は芸能界になんて1ミリも興味がなかったから、自分でもその熱量に驚いている。

影響されたものとして紹介されていた漫画や雑誌は手に取るし、使っている香水や作中に使われた衣装、アクセサリーまでチェックする。好きな曲は、もちろん私のプレイリストに。
その芸能人に関する番組はほとんど観るし、芋づる式で交友関係や同じ作品に出ている人たちも好きになっていった。
今はあまりしていないが、全盛期の時はこれらのことを毎週本気でやっていた。

今日はそんな推し同士が奇跡的にラジオをした時の話と、その会話から学んだことを書いてみたい。

と、その前に。

まず、前提条件として「推し」は芸能人である。
そして、私よりもずっとずっと、長い年月を生きている。
だから私がどう頑張ったって理解できない部分や、共感できない部分がある。

既に推しは、彼氏とか彼女とか、同僚の愚痴とか合コンとかそういう甘酸っぱい青春(?)のフェーズをゆうに超えて、人生を悟り始めている。
そんな推しに私が必死に食らいついても、「人生甘ちゃんが何か言ってるよ」と言われてしまえばそれで終わり。

以降、私は長文を語っているが、ペラい感想になったとしても、そっとしておいてほしい。
悲しいけれど、避けては通れない道なのだ。


関係を妥協する

2人が話し始めるとすぐに会話の中で、「20年来の友達」というワードが出てきた。
口にする機会がない言葉すぎて、何回か木霊した後、しばらく頭から離れなかった。
さらっと言ってるけど、物凄いことなんじゃないかと思った。それってつまり、1人が成人するまでの間、ずっと友達でいるってこと。

私の年齢から考えたら、幼馴染でもないと叶わない夢ではあるが、歳を取ると自然とそうなるのだろうか。
でも自分の親を見ていても、そんな長い付き合いの友達はいない。気に入らなければブチ切るし、環境が変われば疎遠になる。
大人になれば、同じ環境で生きていくこともほとんど無くなるはずなのに、それでも関係を続けられるのは、本当に気が合う人でなければできないことだ。

私は友達を作るのは、上手い方だと思う。
転校生と仲良くなるのは抜群に上手かったし、今まで友達になった数は転校生だけで7人いる。
ただ、問題はここからで。
話しかけて友達になるのはいいものの、とにかく続かなかった。今挙げた7人も今は誰1人繋がっていない。

今思えば、ASDの特性もあったのかもしれない。
でも私が友達関係を続けることができなかった一番の理由は「減点方式」だったからだと確信している。

今までの友人関係を振り返ると、私はとにかく減点方式での友達ばかり作っていたと思う。
何か嫌なことをされれば、点数を引き、堪忍袋の緒が切れた時に思いっきり心を閉ざす。INFJで言うドアスラム。
そんなことをするものだから、相手はもちろん、急に嫌われたと思ってこちらに近寄っては来なくなる。そのやり方でしか私は友達を作ることができなかった。

だから、推しの2人は少なからず関係の妥協をしているのかもしれないと思った。
妥協と言うと聞こえは悪いが、いわゆる「しゃーなし関係続けたるわ」みたいなものではなく、多少の悪いところを見つけても目を瞑るという意味の妥協。

20代も半ばに差し掛かりそうな今、新しい友達と出会う機会はかなり減ってしまったけれど、今もし新しい友達と出会うならば関係の妥協が必要なのではないかと思う。
それが一つ目の学び。

二つ目に行く前に、私の残念な特性の話を。
今回聴いているラジオは約1時間だった。大体のラジオがこれぐらいか、それ以上の時間になることが多いと思う。
飽き性かつ視覚優位(聴覚が人よりも…)な私は、いくら推しが話してようが、途中で集中力を切らしてしまうことがかなりある。
変な考え事をしてしまったり、やらなければいけないことを思い出したり。良くあるのが、会話の内容や話し方から派生して、自分の過去の出来事を引き出しまくってしまうこと。
そんなわけで、推しの会話が下手くそだった場合、全く関係のない私が自己嫌悪に陥るというパターンがある。

バトンを渡す

でも、推しは話が抜群に上手かった。
話の内容が腹抱えて笑えるレベル!というのではなく、回し方や距離を詰めるのが天才的に上手かったのだ。

例えば、必ず自分が話す番を終えた時に「〜〜だったんだけど、あなたはどう?」と相手にバトンを渡す。
当たり前かもしれないけれど、これがあるとないとでは話の盛り上がり方が段違いに変わる。
その場でブチ切られて終わるのではなく、相手にも問いかけることで話が続く。それを続けることで、あの気まずい沈黙が起こらない。
これが二つ目の学び。

私はこのやり方を見て(聞いて?)、純粋になんて凄いスキルなんだ!と感動した。自然とやっているのかもしれないし、策士家なのかもしれない。どっちにせよ、これが〈できる人〉なんだろうと思った。そしてもっと好きになった。

実は、私はこのやり方を実践している側の人間でもある。ただそれは策士とかではなく、単純に私にも聞いて欲しいからという傲慢な理由だけれど。
だから、そのバトンが渡されると信じて「あなたはどう?」とつい癖で聞いてしまう。
(でも悲しいかな、聞き返されることはない。)

話を戻して、素晴らしいのがもう一つ。
これはトークスキルではないのかもしれないけれど、会話のノリとテンポがとにかく良い。
推しは私よりも親の方が断然年齢が近いのだが、会話のやり取りがびっくりするほど、私と友人がする会話に似ていた。

A「△△ってさ、〜じゃない?」
B「そうかも」
A「え、⚪︎⚪︎(相手の名前)は?」
B「そうかも」
A,B「(爆笑)」

といったような形で。
聞いていて楽しそうなので、こっちも楽しい。例えるなら、隣の女子会トークを盗み聞きしているような気持ち。
多分これは誰でもできることではなくて、ノリがかなり似ている友人でなければ実現は難しいのかもしれないけれど、聞いていると一種のコントを見ているような感覚になる。

話すだけで自然と笑みがこぼれるようなそういう女子会みたいな話し方って、そう簡単なものじゃない。なんだか気持ち悪い言い方になってしまうのだが、物凄く尊いものを見せられている気持ちになった。そして、少し羨ましくも。

私は20代になって、身体だけ大人になって、中身が全く成長していないことに恐怖を覚えるようになった。
仕事も家庭も、上手くできそうな見た目になっていくのに、いざやらせたら年下の人間よりも出来が悪い。〈要領が悪い人間〉そう思われるのが怖くて、あれほど大人に憧れていたのに、今は歳を取ることが怖くなってしまった。

ずっとそんなことに不安を覚えていたのだが、偶然、ラジオの中でも同じような話をしていた。
もちろん推しは〈できる人〉だし、社会的な地位もある。
けれど、推しも今の私と同じような悩みを持っていて、その悩みは親に近い年齢になっても纏わり続ける。それを聞いて、なんだか私は一種の諦めがついたと共に、少しだけ安心した。

推しの話を聞いていると、良い意味で若いなぁと思う。
若い頃に出会った友人と話すと、その当時に自然と戻っている、そんな空気感を音を通して感じさせてくれた。
年齢は本当にただの数字なんだなと思うし、当時の幼さを出せる関係って素敵だと感じた。

人としての成長は必要だけれど、それと同じくらい、子供心を忘れないでいるのって大切なのかもしれない。そして、それを引き出してくれる存在がいることも。

推しというだけで、聴いたラジオで何か色々と沢山の物を持ち帰ってきてしまった。
その色々を一つずつ分解して、自分と重ね合わせて、自分が成長できる何かにしたい。
「推しと同じ」が何よりも大好きな私なら、きっとその工程も楽しめる気がする。

人として応援したい「推し」でありながら、人間性を尊敬したい「人」でもある。これ以上の推し活ってないんじゃないかと思う。
近くにいるわけじゃないし、恋愛感情を抱いてるわけでもない。
けれど、それが私の「好きな人」。


かぜの帽子さんの企画に参加させていただきました!テーマは「私の好きな人」。
推しのことをなかなか言えない私にとって、めちゃくちゃハードルの高いテーマでしたが、なんとか名前を出さずにここまで書き終えました。

長すぎた。
推しへの愛が伝わっていたら嬉しい。

#言葉の庭

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栖山 依夜
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