アイスクリームと人類学者

 

 中二の夏、母方の叔父が私を引き取って、世話してくれた一時期がある。私は母親の再婚相手から虐待を受けていて、耐えていたが、強姦一歩手前のところで、児童相談所に繋がり、京都から横浜まで逃避したのだった。叔父は、私の母親とは準一卵性双生児で、要は非常に珍しい、男女ないまぜの一卵性双生児で、容姿が同じだった。新幹線の中で、久々にメッセージをやり取りした。
「正月、来ないから、心配してたら、娘はお父さんと留守番してるって芧(みくり、母親の名前)が来て言うから、随分仲良いんやって思ってたけど、蓋を開けたらそんなんなってたんか、辛かったな、もう心配せんでいいから」スマホを握りしめて、座席で、音を立てぬよう泣いた。これは、癖になっていた。はらはら泣いた。そうしているうちに、新横浜へ着いた。人が多くてよくわからない。叔父は改札の向こうで、カーキのバケットハットにウォッシュのかかったデニムに白いTシャツ姿で待っていた。母親と同じ顔だから、目立った。私は改札を通って、一直線に彼の元へ行った。
「よう、いろいろご苦労。こっちにいる期間は未定になってるから、服足りんやろ、買いにいこか、あ、その前に腹減ってないか、なんか食うか」
「お腹は平気。京都でお弁当買うて、新幹線で食べた。あの、指定席の券、ありがとう、夏休みシーズンやのに、取ってくれて。大変やったやろ」
「あ、子供が席のことなんか気にしなくてよろしいから。腹いっぱいならよかった。一時転校の手続きとか、やっといたから、九月から横浜の中学に通うんやで。制服とジャージの採寸に出なあかん。当面の私服はGUでいいか」
「服まで買うてくれるん?悪ない?」
「悪ないよ、俺は瑠璃ちゃんの、裁判所が認めた保護監督者や、服、沢山買うてやるから、好きなん選び」
駅ビルのGUで、寝間着を二つと、ワンピース三着と、下着の類を五セットと、デニム二本と、Tシャツ二枚、靴下三足組を五セット、スニーカーを二足、肩掛けバッグを一つ、一つずつ試着してサイズを決め、買ってもらった。
「まあ、一旦服はこれで足りるな。あとは金渡すから、足りんものは自分で買うて。女の子はいろいろいるやろ、あとでドラッグストアに寄るから」
叔父が心配しているのは、生理のことらしかった。駅ビルの駐車場に、車が停めてあるという。黒いジープだった。
 助手席に座った。叔父はリュック(赤いOUTDOORだった)から、黒いiPhone14を出し、「音楽つける?」と言った。「サブスクやから、なんでもあるで。今の中学生って何聴くん」
「はぁ、あんまりその、……実は、学校ちゃんと行ってないねん、私疎いから、なんでもええよ」
 叔父は、Billie Eilishをかけた。「bad guy」だった。
「どっかで聞いたことはあると思う」
「うん、ある。棗さんお洒落や。さては関東に染まったな」
「二十年くらい横浜におるからな。マンションの一階にドラッグストアとセブイレがあるから、あとの買い物はそこでええか。……学校行かんと何しよるん?」
「……家事かな」
「あ、忙しいん?」
「母、働いとるし、父、ワガママやし。私、家政婦くらい働いとるよ」
「えらいこっちゃ。中学生の仕事は勉強やって。遅れてないか、あとで少し見たるわ、九月になってさっぱりわからんと困るやろ」
「ありがとう」
「手、荒れよんな。クリーム貸したるわ」
 叔父がハンドクリームを差し出した。アルファベット表記で、ブランド名がわからないが、高そうだった。まだ新しい。手の甲に出すと、ラベンダーが香った。
 「bad guy」をリピートで聴きながら、横浜暮らしはどうか聞いた。県立の精神科病院で勤務医をやっていて、それは基本的にシフト制で、ときどき当直という泊まり込みの仕事があり、自由な時間は週に二回、もう二十年近く、総合格闘技のジムに通っているといわれた。垢抜けよるな、と思った。
 着いた叔父の家はいわゆるタワーマンションだった。彼の言った通り、一階にセブンイレブンとマツモトキヨシと小さいスーパーマーケットが入っている。地下の駐車場にジープを置き、エレベーターで彼の城まで上がった。二十一階のボタンを押される。エレベーターを降りると、左右の突き当たりにドアがあった。
「この階って、二部屋しかないん」
「うん」
「一部屋にいくつあんの」
「ま、見てからのお楽しみ」
叔父がカードキーをタッチすると、鍵の開く音がした。「ええよ」叔父がドアを開けて押さえていてくれる。古いお年玉をはたいて買った新品のスニーカーと靴下で来てよかったと思った。フローリング張りの床には垢ひとつない。
「お邪魔します……」
「はい、今度からは『ただいま』な」
「うん」
 ダイニングから、ひょこっと女性が出てきた。
「あら、あなたが瑠璃ちゃん?」ほんのりと甘い煙草の香りがする。
「中二って聞いたけど、身長いくつ?」
「ひゃ、百四十ちょうどです」
「あらそう。棗ちゃんはでかいのに、遺伝しなかったんだ」
「光理、先に名乗れや、怖いやろ」叔父がいさめる。この人は光理さんというのか。叔母がいる、と児童相談所の人から聞いていたがこの人だ。
「ああそうか。私、県立横浜医科大学で非常勤講師をしてます、棗ちゃんの別居妻の若島光理です、内科専門医です」
「別居……妻?」
「籍入れただけ。光理はここの十八階に住んでる。仲が悪くて別居してるんじゃなくて、お互い自分の名義でここに家持ってから付き合っただけ」叔父が補足した。
「会って五秒でごめんね、触診するから、洗面室で服脱いで」
「あ、はい」
私たちは洗面室に入った。広い洗面台がある。ハンドクリームと同じブランドのボディローションや、非接触型のハンドソープや、「イハダ」のスキンケア用品や「アスリズム」の日焼け止め(これはなんとミストタイプとクリームの二種類)が置いてあった。タオル類が綺麗にたたまれて、洗濯機の上のラックに入っている。洗濯洗剤は太い円柱のボトルだ。洗濯機は最新型のドラム式。瀟洒で生活感がなかった。
「下着はとらなくていいからね」光理さんが言う。私は服を脱いで、光理さんにされるがまま触診を受けた。
「体重計乗って」
これも、タニタ製の新型だ。
三十四キロ、と表示される。
「えーっと、生理はきてる?」
「不順ですが、一応」
「どのくらい不順?」
「二ヶ月に一回きたら安定してる方かなって感じで、大体二日か三日で終わります」
「ちゃんと体重増やして、それから婦人科に行って」
「えっ、はい、病気ですか、私」
「なりかけてます。中学生のうちからこんなだと、大人になってからが大変だよ。お肉とお魚と緑黄色野菜をたくさん食べてください」
「分かりました」
「服着ていいよ。棗ちゃん、夕飯、焼肉食べ放題ね、デザート付きコース。私も行く」光理さんがリビングに叫ぶ。「焼肉、いえーい、って、ちゃうか」と叔父。
リビングに入ると、ダイニングテーブルの上で何やら大きな機械が延長コードに繋がれていた。
「あ、棗ちゃんナイス」
「そ。暑いからバニラアイス攪拌してん。北海道に婿に行った後輩から牛乳と卵もろたので」
「ハーゲンダッツ並に濃いよ、瑠璃ちゃん、たくさん食べな」
「は、はい、うん」
 母親が再婚したのは私が十二歳になった年の夏だった。血の繋がった父親は、私が生まれたときにはいなかった。母親は、曰く、「お風呂屋さん」で働いていた。生理の日だけ休みだった。彼女が毎晩遅く、クタクタになって帰ってくるので、炊事や掃除、洗濯は私の仕事になった。彼女がそのうち、ある、自称大工の「お風呂屋さんのお客さん」を家に泊めるようになった。大工さんの荷物はだんだんアパートに増えていって、やがてお父さんと呼ばねばならぬようになった。多くの場合、大工さんは雨だと仕事が休みだというが、彼の場合は晴れでも休みだった。酒を飲んで出かけ、イライラして帰ってきては私を暴行した。寒い中締め出されたり、暑い日にベランダの物置に閉じ込められたりした。ある時は定規で殴られ、カッターで切りつけられた。また、夜な夜な布団に入ってきて、アソコに指や鉛筆をいれたりした。この春の途中、ついに「本物」が入りそうになった。大工さんが犯罪者になって、相思相愛の母親と暮らせなくなると大変なことだ、と思って抵抗し、詫びて噛みつき、相手がひるんでいるうちに裸足で逃げた。寝間着のまま近くのコンビニに入ったら、レジに立っていた夜勤の紳士がビックリして警察を呼んだ。近くの交番からお巡りさんが来て、私は連れていかれた。それからは大人が入れ代わり立ち代わりやってきて、色々聞いた上で、一晩入院して、児童相談所に送られた。そこでは数週間寝泊まりして、昼間は読書や簡単な勉強や、また、聞き取りだとか、カウンセリングだとか、知能検査だとかをやった。知能検査では、
「傘、という言葉は何を指しますか?」
「移動式の屋根です」
みたいな問答が百回くらい続いた。
 アイスクリームを食べたのは久しぶりだった。愚かにも問わず語りに経歴をぶちまけると、二人は唖然とした。
「あいつ、何をやっとんじゃ」叔父がかすれた声でいう。
光理さんが問うた。「いまの話、もし知らない大人にかこまれても、ゆっくりでも、できるね?」
「はい」
「よし」
 アイスクリームを食べ終わると、今度は叔父がひょいと立って、リビングダイニングのわきの部屋の、扉の前で手招きをした。
「瑠璃ちゃんに部屋を用意してん。気にいるかな、気にいらんかったら、あとでちょこちょこええようにして」
五畳ほどの洋室だった。木製の低めなロフトベッドがあり、下に突っ張り棒が通っていて服掛けになっている。入口のそばにクロゼットがついていた。それから机、と、近くにゴミ箱二つ、可燃用とプラスチック用といわれた。机の横にある本棚は私の背丈程でまだ空っぽだ。ベッドカバーとラグとカーテンがブラウンで統一されている。天井の隅にエアコンまで取り付けられていた。服掛けの奥に、タイヤ付きの、直方体の箱を見つけた。開けると蓋の内側が鏡になっていて中に仕切りがたくさん付いている。空だった。
「あ、それ、移動式ドレッサーね、光理が、絶対あった方がええ、っていうから用意してん。どう、気にいった?……掃除とかは、任す。この部屋はほんま、好きに使こてくれたらいいから」
私は、いたく感動していた。声が出ない。震える。
「あ……りがとう……」絞り出した。住んでいたアパートは、一部屋と、リビングダイニングキッチン、という具合だったので、いま、十四年の人生ではじめて自分の部屋を持った。
「あ、そや、金渡さな。ほなこれで身の回りの消耗品買うてきて。光理!一緒に下のマツキヨ行ってもろてええ?」
叔父が財布を出し、一万円を差し出す。
「はいよ、一階ね」光理さんが、それまで下ろしていた髪をバナナクリップで留めながら現れた。
私は震える手でお札を受け取り、礼を言って、オリンピアで買った斜めがけのバッグからビニル製の財布を出し、しまった。こんな大金を持つのは久々だ。古いお年玉だって、かき集めて五千円がやっとだった。
 光理さんに案内され、一階のマツモトキヨシに行った。「シャンプーとか、ヘアオイルとか洗顔とかスキンケアは流石にあそこんちにもあるけど、気に入ってる銘柄があるなら買っといで。あとナプキンと、ヘアゴムとか、サニタリーショーツとか、黒い小さいポリ袋とか、カミソリとか。瑠璃ちゃん、一万円だよ、なかなか自由に買い物できるよ、良かったねえ」
「じ、自由すぎて、何を買えばいいか、かえってわからへんようになりました。えっと、まずは歯ブラシと歯磨き粉と、ナプキンと、ポリ袋、ヘアブラシ二本、カミソリ、サニタリーショーツ、ヘアゴム、……あ、このシュシュ可愛いな、買っても許されますか」
「いいんじゃない、シュシュくらい。っと、あとは隣のまいばすけっとで最低限の学用品か」
品物を会計し、贅沢にも大きなレジ袋を買った。「まいばすけっと」へ向かう。シャープペン五本組と替芯(〇.五ミリのHB)、三色ボールペン一本と消しゴム三個組とプラスチックの定規と筆箱、ノート五冊パック二つを買った。分度器や色鉛筆なども置いてあったが、こういうものは学校からの指示を待って買おうと思い、いまは保留とした。
「うーん、やっぱりスーパーのだと地味だね」
「いえ、これで充分すぎるくらいです」
「……ま、転校生が派手でもかえって肩身せまいか。このくらいがちょうどよし、と。あと敬語ナシにしよ、親戚だし」
「あ、はい、……はいじゃないや、うん」
「よっしゃ、余ったお金で棗ちゃんにお礼のお菓子でも買うかい?瑠璃ちゃんならそうでしょ?私なら横領するけど」
まさにお礼の品を買おうと思っていた。光理さん、エスパーか。
「うん、何が好きかな」
「あーそうか、あんまり付き合いなかったんだもんね、えーとね、ポテトチップスのちょっといいやつが好き。厚切りなんとかとか、プライドなんとかとか」
「じゃあ、それを買う」
「お菓子こっちだ、色々あるね」
文房具と厚切りポテトチップスをレジに通し、マツモトキヨシの袋にまとめた。
それから、光理さんに車を出してもらい、近くのショッピングモールの下着ショップに行った。胸を計測してもらったら、Fカップ、アンダー七十五、だった。ワイヤー入りの、「本物」の、大人が使うブラジャーを二枚と同じ柄のショーツを、これは彼女に「これからよろしくのプレゼント」と買ってもらった。恐縮。
マンションに帰り、エントランスに入る。二十一階に戻って光理さんが鍵を開けた。
「ただいまー」
「た、ただいま……」
「おう、お帰り」
玄関を入ってすぐにまっすぐ廊下が伸びておりリビングが見える。途中の、「私の部屋」を背にして、その突き当たりの部屋から叔父は出てきた。そこが書斎、というか、仕事関係の部屋らしかった。黒縁メガネを掛けている。「いまちょっと資料まとめてて、一区切りついたとこ。麦茶でも飲むか。女性二人やから、元町くらいまで行ったか思うた。早かったな」
「一階と、近所の下着屋さんしか行ってないもんね、あと、瑠璃ちゃんから棗ちゃんにお土産」
「何?」
「……これ、ポテトチップス、好きって聞いたから」
おずおず差し出すと、叔父は顔をほころばせた。
「わぁ、ありがとう。大事に食うわ、しまっとこ」楽しげに受け取って、IHクッキングヒーターの下の物入れにしまいこむ。ちらと覗いたが、ココア味やバニラ味やベリー味の、プロテインの大袋が見えた。
それにしても、大工さんと反応が違いすぎて、私は勝手ながら驚いた。大工さんの場合は私にうすしお味を買いに出よと命じて、コンビニまで走らせている間に、気が変わってのりしお味が食べたくなったら、連絡もなしに、息を切らせて帰ってきた私を「のりしお味って言っただろ、お使いもできないのか。犬か。お前の頭はどうなってんだ」と叩く、というのが半ば決まりだった。だから、ある日の夕方、私はコンビニから「何味がいいですか」と電話をかけることにした。無視された。そして、「何回も電話鳴らしやがって、ボケ老人か、よし、オムツ履け」と、やはりタコ殴りにされて、口の中がザクッといったので吐いたら血と一緒に歯の欠片が出てきた。それから母親が仕事に出たあと、大工さんは本当にドラッグストアに行って、LLサイズの大人用紙オムツを買ってきた。「お前は尻と胸だけはでかいからな」私を脱がせ、オムツ一枚にしてベランダに出した。氷点下を下回る日だった。ウエストがブカブカで、立つと落ちて臀部が外から丸見えになるから、冷たいコンクリートのベランダに、大工さんの気持ちが収まるまで座っていた。やがて真夜中になり、雪が降って、フケみたいに頭に積もった。身体が一回感覚をなくし、次には熱いみたいにヒリヒリした。母親が帰ってきた鍵の音が聞こえると、ベランダの戸も開いた。
 思い出すと、つつー、と静かに涙が頬を流れる。
「あ、なんでもない、……ごめん、涙腺がっ、変っ、やのっ、……」
言えば言うほど涙が溢れ、そして嗚咽が始まった。止めたくとも、止まらない。やがて、私はついに力が抜けて、キッチンにへたりこんだ。光理さんがやわらかい、温かい手で背中をさすってくれる。叔父は壁にもたれて、私と、かがんだ光理さんを見ていた。その表情からは何も読めない。麦茶のコップを片手に持ったまま、私の収まるのを待っていた。
 私は、少し落ち着いてから、ダイニングチェアに座り、先ほど脳裏に浮かんだ全てを二人に話した。二人とも、口を挟まず頷きながら聞いてくれた。話していると、また涙が出て、何回か中断した。大人二人を振り回して悲劇のヒロインになっている自分が恥ずかしく、悔しかった。死にたかった。
話し終えて、それでも泣く私に叔父は、「大変やったね、屈辱でもあった。よく耐えた。もう耐えんでいい、また泣きたくなったら泣いて、何回でも聞くから」と、優しいバリトンの声で言った。
「今の、録音したから、裁判したら圧勝だよ、焼肉は今夜じゃなくて、賠償金をザクザクもらってからにしましょうか」と、光理さんが微笑んだ。彼女のスマホの「ボイスレコーダー」がONになっていた。
 その日は光理さんお手製の煮込みハンバーグとマカロニサラダが夕餉となった。「トマトとホワイトソースとデミグラスなら、どれがいい?ああ、和風でもいいよ。手間はどれも同じくらいだから、好きなの選んで」
「……じゃあ、トマトがいい」
「わかった」トマトのホール缶を開け、軽く焼いた牛ひき肉の塊を大鍋で煮る。
「おっ、トマト味。気ぃ合うね」叔父がいった。きっと何味を選んでもいっただろう。
「棗ちゃん、いま、あなたのPCに私のスマホ繋いで、録音のバックアップ取ってるから、PCにコーヒーとかこぼさないでね」
「おっ、おう」
「資料、全部あなたのPCで作って、私の高校の同期に渡すわ、弁護士してるの。家庭問題とか児童養護に強い女性」
光理さんは、本気らしい。私は聞いた。
「弁護士さん、うれしいけど、お金が……」
「大丈夫よ、大工さんが負けて全額払うから。請求書と慰謝料のケタ、一つ増やすように頼んどく」
「光理姐さん、頼もしい」叔父がくるりと舞う。
「棗ちゃんも、お姉さんの心理検査の手配、抜かりなきようにね」
「もちろんさ」
「あの、……」私はかねてから気になっていることを聞いた。胸がドキドキする。「私、どないなんの」
「お母さんが大工さんとさよならして、お風呂屋さん辞めて、お昼の仕事に就いて、瑠璃ちゃんを成人まで責任もって保護できる、と判断された場合は、帰りたければ帰って、親子仲良くやっていく、というのもいいし、もうお母さんのお世話は重いな、離れた方が仲良くできそうかな、と思えばここにいていいし、そもそもお母さんが実は病気や障害をもっていて、瑠璃ちゃんの安全安心が保証できないってことになったら、問答無用でここにいる」光理さんがサラリと答えた。「私、不妊だし、でも娘ってけっこう頼りになるからいてくれたらな、なーんて思ったり、思ったり」
「俺もまあ、父親向きの性格やないかもしれんけど、ほどよく親愛の情を持って接する機能はついとる」
「なに堅苦しい言い回ししてんの、瑠璃ちゃんが来るのが決まって眠れなくて寝ずに仕事して外来終了直後に失神したポンコツスーパーカーは誰さ」
「あっ、俺です」
「自覚があって素晴らしいわ。明日も明後日も有給取ったんでしょ、三年溜めてた休みを使い切る勢いだった。慌てて止めたんだから。今年で権利がなくなる分までにしときなって」
「昼間にひとりやったら寂しいやろ」
「中学生なんて考えごとや勉強で忙しいんだから、声がかかるまでそっとしておくくらいでいいわよね、瑠璃ちゃん。ひとりで横浜の街を探検するのもいいし、ちょっと足を伸ばして東京の空気を吸ってもいいし。……瑠璃ちゃん、冷たいルイボスティー飲める?それからアレ、冷蔵庫の赤肉メロンもデザートに切っちゃいましょ」
 ハンバーグが煮えるまで、私たちはルイボスティーを楽しんだ。はじめて飲んだ。保健室の味、だと思ったが、だからといって飲めないわけではなかった。
「俺ん家の冷蔵庫をハーブティー置き場にすんのやめや、ルイボスティーだ、ローズヒップだ、カモミールだ、桃フレーバーの紅茶だ、白茶だ、って山ほどある。麦茶と水出しコーヒーで間に合ってんねん」
「あら、冷蔵庫がでっかくて場所、余ってるし、放っておくとすぐ一階のセブンイレブンで割高なジュースやコーヒー買ってくるでしょ、端数が勿体ないわよ」
「そんなもんかね」
「そんなもんよ、生活ですからね。できるだけ豊かに節約しましょ」
「……だそうです、瑠璃ちゃん、よろしく」
「よろしく。節約なら私、慣れてるよ」
「あら頼もしい。大根の葉っぱのふりかけとか食べれる?」
「小学校のとき、給食で出た。しらすとごま油で炒めたやつ」
「……ふだん、お家では何食べてたの?」
「母も大工さんも料理しないから、そのときスーパーで一番安いもん。プライベートブランドのカップ麺とか、もやし買うて炒めたりとか、豆苗育ててマヨネーズ入れてサラダにしたりとか、八百屋さんに行ってキャベツの外側の硬いとこもろたりとか、あれってタダでバケツいっぱいくれんねんで。大工さんがくる前は、お金持ってっちゃう人がおらんかったから、お給料日に割引のお肉買うて、お醤油とお砂糖とおろしニンニクでステーキ焼いたりしたこともあるよ。私、焼きそばも作れるし、サンドイッチも作れる」
「たくましいな」
「瑠璃ちゃん、ハンバーグ煮えたから、そろそろ盛り付けるね、ご飯よそってくれる?」
「うん!」
光理さんが鍋蓋をとって、IHクッキングヒーターをOFFにする。湯気がたつ。赤茶に煮えたハンバーグが、五つ、ぎゅうぎゅうに並んでいた。
「二つは二人の明日のお昼ね」
「かたじけない」叔父が言う。
「ありがとう」私も続いた。
 この二人は、なぜ、急に泣いて思い出話をはじめるような情緒不安定な私に対して、親切で親密なのだろう。親戚だから、そして医師だから、といっても、もっと腫れ物扱いしても不思議はない。光理さんは生来の性格としても、叔父など、あの私がくずおれた瞬間の目の光のなさと硬直ぶりを見るに、対人戦の能力なぞたいしてなさそうなのに、なぜあたたかいのだろう。「そういう医師」なのだろうか。「そういう治療」または、「そういう人」なのだろうか。母と双子ということだが、まるで違う。母は叔父のように冷静でもなければあたたかくもないし、甘やかしてはくるがそれは躾を放棄しているだけであって、なんでも自分のその一瞬次第である。「お腹減ってないか」等と気を配ることはない。私の月経の心配はしたことがない。小学生のある日、ショーツに血がついて、とっさに母のナプキンを、保健体育の授業で習った通りに使い、しかし包み紙の処分を忘れてばれ、「ナプキンドロボー、出ていけ」と髪をつかんでなじられた。大工さんからも「アソコなんか、空いた酒瓶の口でも入れておけ、ドロボーするんじゃねえ」とフローリングワイパーの持ち手で腫れるほど尻と顔をぶたれたのだった。キッチンの窓から隣の部屋に住む生活保護受給世帯の奥様がそれを見ていたのを、いやに鮮明に、映画のカットのように、なぜか第三者目線で、宙に浮いて覚えている。これは思い出しても、涙が出なかった。そのことに安堵する。
「洗い物少ないほうがいいから、瑠璃ちゃん、後ろの棚からカレー皿を三つお願い。ロコモコっぽくしよう」
「えっと、ロコモコって、何?」
「ハワイのハンバーグ丼。本式ならフライドポテトとかアボカドとかも一緒にのせるけど、いまはないから彩りはマカロニサラダで」
「へえ、ハワイ、行ったことある?」
「大学生のときにお金貯めて英語勉強して、友達と行ったよ。五泊くらいしたかな、海と空、綺麗だった」
「ふうん、楽しそう」

 ロコモコ丼は美味だった。恐らく、いままでの人生で食べたものの中でいちばんだろう。私は「保健室の味」のアイスルイボスティーをおかわりし、食事を楽しんだ。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ」光理さんが私を見つめながらいった。
「うん、でも美味しくて」
「ありがとう」
「若者がたくさん食べる姿はええねえ」叔父がのんびりという。彼は食べるのが早く、既に器は空だった。
 デザートに、六等分になった赤肉メロンが出た。私は歓声を上げた。明日死ぬかもしれないけどいいや、と思った。
ふっ、と開けた眼前がアパートの天井になっている気がして、何度か強く瞬きをした。その度に、六等分のメロンが現実として鎮座していた。
「スプーンいる?直でええ?」叔父がロコモコ丼の皿を洗いながらいった。
「こういうのは直がおいしいよ」と光理さんが笑う。可愛らしいと思った。
 かぷ、とかじりついた。果肉を引きちぎると、じゅわあと汁が口いっぱいに広がる。細かいタネは飲んだ。叔父は「ウリ類がどうも、舌と相性がよくなくて」とメロンを遠ざけた。冷蔵庫から浄水ポットを出し、リビングの隣の和室から持ってきた数種類の薬を一気に嚥下した。
「……瑠璃ちゃん、そんなに気まずそうな顔で見んといて、頭痛外来と美容医療の薬やから、なんも深刻な病気やないよ。頭痛持ちやねん、時々カロナールっていうでっかい錠剤か、アセトアミノフェンっていう小粒の薬飲むけど、あー頭痛いんや、くらいに軽く思ってください、心配いらんよ」苦笑いする。
「まだ頭痛外来、通ってんだ」光理さんが、メロンにしゃぶりつきながらいう。「あのね瑠璃ちゃん、この人、天気悪いと寝込んだりするけど、ほんとにただただ、頭の調子が狂ってるだけだから」
「語弊がすごいな」
「生理痛みたいなもんで、体質やし、病院にもかかってるから心配はなんもいらない。寝てたら、頑張れーって心の中で応援しておいたらいい、ね!」
「うん、応援よろしく」
「わかった」
「メロン食ったら治るかもよ、ひと口どう」
「あ、遠慮しときます、風呂沸かしに行こっと」
ケタケタと笑いながら戯れる二人を見て、母と大工さんにはこういう場面はなかったなと思い返した。まず、二人そろって機嫌がいいというのがありえない。どちらかは暑いとか寒いとかお金がないとか煙草がないとかでイライラしていて、私が通りかかると喚いて当たり散らす。殴るし蹴るし、裸にもする。外に締め出したり、棒で叩いたりもする。理由は、「自分が不機嫌で、娘が気に入らないから」だけだ。いま頃、サンドバッグがいなくなってどうしているだろう。叔父が浴室を洗う音が聞こえた。

 いちばん風呂を勧められて、お言葉に甘えることにした。巨大なGUの紙袋から下着と寝間着をワンセット出し、タグを切る。小脇に抱えて洗面室に入ると、浴室の、二つ折りの扉が開いていた。鏡に映しながら服を脱ぐ。胸こそ大きいが、その下にあばらが浮き出ている。バランスの悪い、グロテスクな身体だ。アソコがあって、裂け目を隠すように毛が生えている。尻周りはボリュームがあるが、腿は細くてきしみそうだ。膝も、皿が浮き出ている。まるで唐傘お化けの足のようだ。昼間、触診をされていたときには緊張で忘れていたが、四肢にも胴体にも傷跡が多い。根性焼きだったり、カッターやナイフで切られたあとだったり、熱湯をかけられた痕跡だったり。つまらないバラエティーに富んでいた。着ていた服を洗濯機に入れ、新しいものはバスマットのそばにおき、綺麗な浴室にそっと入り戸を閉める。シャワーを出し、適温に加減して頭から湯をかぶった。叔父に傷跡を知られたくないな、と思った。それに、光理さんが自分の部屋に帰ってしまった後、叔父と二人きりになるのが、あんなに良くしてもらっておきながら失礼極まりないが、少しだけ怖かった。なにせ、母と双子なのだ。昼間の恩を使って、なにか仕掛けてくるのではないかという疑念が晴れなかった。ジープで轢かれるかもしれないと思ったりもした。身体と頭をよく洗ってシャワーで流し、浴槽には入らないで上がった。シャンプーは甘い紅茶の香りがした。洗濯機の上のラックに手を伸ばし、つま先で立って、どうにかバスタオルを取った。叔父は背が高いから、生活の動線も高い。身体と頭を拭き、サテンのつるつるした紺、の寝間着を身につけてドライヤーをかけた。入浴前は傷んでギシギシで油っぽかった髪がさらさらの手触りに変わる。歯も磨いた。トントン、と、洗面室のドアを誰かがノックした。

ついに人が変わった叔父が来た、と思った。

「……は、はい」
「光理でーす、棚の位置、ちょっと下げに来た。瑠璃ちゃんの背だと使いづらいでしょ。棗ちゃんの了解とってあるよ」片手にドライバーを持っている。安堵した。
「わざわざ、ありがとう」
「いえいえ、前からこの棚、ちょっと高いなって思ってたの。私、百五十五センチだから。よいしょ、よいしょ、……できたっと。さて、お風呂空いたんじゃ借りようかな、きょうは泊まろっと」
また一つ安堵した。成人女性の裸を見るのは悪いから、サッとリビングに戻る。
そこには間接照明だけが灯っていて、昼間と違って和室の扉がぴったり閉じていた。叔父はその寝室で過ごしているらしかった。お風呂はいいのだろうか。もう眠ったのか。扉が閉じているだけに尋ねにくい。
 やがて光理さんが戻ってきた。寝間着はどこに置いてあったのか、薄ピンクのボタンシャツとハーフパンツだ。
 「あ、棗ちゃんなら寝てる。リビングで寝落ちしそうなのをほとんど引きずって布団に入れた。お風呂はどうせ朝シャワー浴びるからいいのよ。私はリビングで寝ようかな、そこのソファ、伸ばすとマットレスになるの」言いながらリビング入口の物入れを開け、タオルケットを二枚出してくる。
「はいよ、一枚使いな」
「ありがとう」
「いえいえ、おやすみ」
私はGUとマツモトキヨシの大袋を抱え、ハサミを借りて「自室」に入り、戸を静かに閉めた。明かりをつけて、買ってもらった品々のタグを切る。スカートもTシャツも靴もデニムも下着も靴下もパジャマも、全部自分で選び、叔父にお金を出してもらった。マツモトキヨシではヘアゴムの他にシュシュまで購入した。こんなわがまま放題を受け入れてもらって、本当にいいのだろうか。明日、横浜の学校の制服を採寸に行くと言っていた。またお金を使わせてしまう。服を、ベッド下にかける。ベッド下の壁際、つまり頭がくる位置の下に三段くらいの、プラスチックのボックスがあった。下着と靴下を二段にわけてそこにしまう。一番下にはナプキンを収納した。シュシュとヘアゴムは腕にはめる。ベッドに入り、ブラウンの薄掛け布団を畳んでタオルケットをかける。蛍光灯はリモコンで消すようになっていた。タオルケットから、洗濯の匂いがする。清潔だ。母と暮らしたアパートと違い、生乾きではない。繊細な香りがする。この家に漂う匂いだ。深呼吸をすると涙が出る。私は電灯をつけ、ノートの五冊パックを開けた。一つ抜き取り、三色ボールペンを開封する。日記をつけようと思った。新品の机に向かう。机の横に少し背の高い四段の正方形の棚が、本棚とはまた別にあった。きっと、ここに趣味の品や教科書、通学バッグなどを置くのだ。文章を書き進めていく。京都駅で買ったお弁当の味や新横浜駅の混雑や、GUで好きな服を買ってもらったことや、ジープの中でBillie Eilishを聴いたこと。光理さんとの出会いや、優しい触診や、泣きながらの思い出話を二人が聞いてくれたこと。順を追って、きょう覚えていることすべてを書いたら五ページも使った。手が疲れた。再びベッドに入り、今度こそ寝ると決めて電灯を消した。
 目が覚めたとき、部屋はカーテンの隙間から漏れる薄紫で海になっていた。綺麗だった。スマホのロックを解除すると、四時半を少し過ぎたところだと表示された。あと二時間くらい部屋にいよう。淡いまどろみが尾をひいていた。何の夢も見なかった。ただ、部屋は叔父の家の五畳であって、京都のアパートではなかった。私は、かねてから窮屈な日々を投稿していたXアカウントにログインした。
「新幹線に乗って叔父の家に来た」シュシュの写真を撮ってポストした。
 六時になる少し前に、部屋を出た。光理さんが起きて、マットレスを畳み、髪をバナナクリップで留めてミラーを見ながらダイニングで口紅を引いていた。色味はオレンジ寄りのベージュだ。
「あ、おはよう、早いね」
「おはよう、光理さんも早いね」
光理さんは、今度はブラウンのアイシャドウをチップにとって瞼にポンポンと移しながら、「主婦業があるからね」と言った。「いやん、メイク中見られちゃった。まあ昨日スッピンさらしてるし、関係ないか」
顔になにやらミストを吹き、完成のようだった。メイク道具をポーチにしまい、ポーチをリュックに入れる。どっちも無印良品っぽい、ベーシックなデザインだ。光理さんは、白いTシャツに黒いフレアスカートを履いている。そこから伸びる脚が、健康的に引き締まって細い。鍛えているのかもしれない。「ご飯、あと五分で炊ける。おかず、だし巻き玉子とお漬物でいい?……あ、棗ちゃんおはよう」
叔父が和室からヌっと出てきた。
「……おはよう」
声が枯れて低い。
「ちょっと、寝起きから無駄な迫力いらんから。早くシャワー浴びて浮世に戻ってきな、ミスター低血圧。よく起きれた!それだけは偉い!頭痛くない?吐き気は?よし、ないね!ご飯と着替え用意してあげるから、モタモタしない!」
「……うっす、あ、瑠璃ちゃんも早いなあ。おはよう……、瑠璃ちゃんいる、こっち現実?」
「……おはよう、現実だよ、多分」
「……あ、よかったよかった、瑠璃ちゃん無事やった」
「もう、ポヤポヤせんと、はい、支度、頑張ろ!」
光理さんはまるで中学生男子を励ます母親のごときテンションで、叔父を浴室へ送って和室のタンスから下着とデニムとポロシャツを出し、洗面室に置いて出てきた。やがてシャワーの水音に、髪や身体を洗う音が混じる。
「……やれやれ。『叔父としてかっこよう早起きして、日経電子版でも読む』なーんて言ってたくせに。いつもと同じでした、はい。ちゃんちゃん」苦笑いする。「日経電子版はスマホに入れてるから、そのうち読むと思うけど。ビックリしたでしょ、あのガラガラ声に寝惚けぶり」
「いやいや、全然。朝の六時台に起きてエライなって思うよ。大工さんも母も、昼頃まで寝てるから」
「……ああ、そうか」言いながらキッチンで卵を溶きはじめる。白出汁と塩と砂糖をほんの少し混ぜ込み、長四角のフライパンに卵液を流す。「瑠璃ちゃん、学校のことだけど、制服の採寸には私と二人で行こうね。それから、『このあたりだと浅海(せんかい)中学ですか』って、仕立て屋さんの奥さんに聞かれると思うけど、浅海中学はでっかくて、おまけに先生たちが忙しそうだったから、ちょっと遠いけど小さくて大人の目も行き届いてる南村(みなみむら)中学に決めちゃった。二校とも二人で児童相談所の人と一緒に、平日、見学に行ったの。瑠璃ちゃん、この時間に起きられるなら遅刻の心配もなさそうだし、大丈夫ね。通学用自転車も一応買うから」
 また、気を遣われてしまった。しかし、先生の指導がきちんとしている学校をわざわざ見て選んでくれたのはありがたい。その上、自転車まで買ってくれるという。光理さんは卵焼きを切って盛りぬか漬けをタッパーから出して味噌を洗い落としながら、
「浅海中学は、このあたりの箱入り娘、息子さんが多いの。丁寧に育てられて本当にお上品な子と、甘やかされてちょっと、……ヤンチャしちゃう感じの子に二分されてた。南村中学は比べると牧歌的で、みんなで畑の掃除したりしてた。のんびりしてる方がいいねってことになってね、そっちにしちゃった」
「ありがとう。……二人とも忙しいのに、時間作って学校見てくれて」
「だって、近い将来このうちに連れてくるお友達がお嬢様でもヤンチャな子でも、もてなし方、わからないし。それならのんびりした学校で真面目に勉強してる子の方がいいよ」真顔で言うので、思わず、くす、と笑ってしまう。
そのとき、洗面室から、「ぬぼーっとした大男」が、叔父になって戻ってきた。
「……先ほどは恥ずかしいところを」赤くなるので、
「大丈夫、有給休暇の日に、六時に起きただけでかなりかっこいいから、……いまね、光理さんから、新しい中学の話を聞いてたん。なんや、すごくいいところを選んでくれたみたいで、嬉しい」
「……ああ、中学ね、『自主性に任せた自由な校風』がウリのところと、『教養、知性、丈夫な体を育てる』がウリのところとあったんよなぁ、中学生に自由や自主性はちょっと難しいやろ、って、規模の小さい方にしたな。そっちは特別支援学級がついてたから、色んなタイプの友達ができる思うで」
「そう。あと、校内がバリアフリーで綺麗だったわね」
「わ、モチベーションが上がる」
「俺らが行った時は車椅子乗った子がバドミントン打っとった」
「そうだった。義足のチアガールもいた」
「へぇ、私の、京都の中学校にも特別支援学級あったけど、そんな目立つ活躍の子はおらへんかった。私が知らんだけかな」
「運動部は監督責任持たれんとか、そんな都合もあるやろな」言いながら、叔父が和室から漢方などの薬を持ってくる。光理さんがコップに水を注いだ。叔父はざらざらと漢方の玉を飲む。
光理さんはあっという間に朝食をテーブルに並べた。三人揃って、「いただきます」をする。
「九月からこれが日常になるんやな」叔父がニンジンのぬか漬けを噛みながら白米を頬張る。
「日常って、別居婚なんだから棗ちゃんが朝ごはんの支度するんだよ」
「私、鮭の切り身焼いたりはできるよ」
「頼もしいな、楽しみや」
 
朝食を終えると、洗い物は食後の服薬を済ませた叔父が買って出た。私たちは出かける支度だ。
 脱ぐことを考え、ブラジャーの上からカップのないキャミソールを着る。ショーツの上にガードルを履く。黒地に小花の散りばめられた膝より少し下の丈のワンピースを着て、黒い無地の靴下を履いた。寝間着を洗濯機に入れて、洗面室で歯を磨く。光理さんが洗濯機を回しにきた。
「これ、洗剤に柔軟剤の成分が入ってるの、リンスインシャンプーみたいなもん。便利よね」ひとりごちるみたいにいった。キャップで計量した液体を洗剤投入口に入れてスイッチを操作すると、本体のドラムが回り出した。「乾燥までやっちゃうから、きょうは干さなくてよし、……あ、瑠璃ちゃん。ジャージのゼッケンに付ける名前どっちにする。本名の西方か、棗ちゃんと住んでるから彼の苗字の若島か。若島は通称になるけど、転校生だから誰も深掘りしないよ」
「若島がいい」
「うん、ありがとう」

 光理さんのスペーシアに乗って、制服屋さんに行った。店の奥様らしい人がやはり、「あら、浅海ですか?」といった。
「あ、南村……でお願いします。若島瑠璃といいます」私は緊張して、戸籍とは違うものの、確かな「本名」を名乗ってしまった。恥ずかしい。
後ろから光理さんが、「夏服と冬服とジャージと体育館履きと上履き、それから体操着、これは洗い替えもいるので二着ください。あと、指定の靴下と水着と水泳帽とゼッケンも」
「はい、体育館履きと上履きは学年によって色が違うの。今年は一年生が赤で、二年生は青、瑠璃さんどっち?」
「じ、じゃ、青、お願いします」
奥様は意外そうな顔をした。私が小柄だからだろう。
「はい、青ね。ちょっと在庫見てくるわ。瑠璃さん、足のサイズいくつ」
「二十三センチです」
「はい、ちょっと待っててね。南村の制服、そこのベストとブレザーだから試着したりしてて。水着はこっちね」
「はい」
 光理さんが私を連れて試着コーナーへ入り、奥様に指定された制服を当ててくれる。「これ、五号なんだけど胸とヒップがきついかな、ワンサイズ上のも借りてくるから着て待ってて」
「ありがとう」
試着してみる。全身鏡の前でくるりと一回転すると、自分でいうのもなんだがスカートの後ろの生地が足りず、大工さんの読みかけて投げてあった青年漫画雑誌のセクシーカットのようになっていた。胸周りもきつい。
「光理さん、ちょっときついかな、五号」
あれこれ試した結果、胸と尻には十一号サイズがちょうどよいと判明した。しかし、ウエストが緩いし、全体的に丈が長い。履物の在庫を出してくれた店の奥様に見せると、
「全体的に、ちょっとゆとりあるくらいの自然な感じに仕立て直しましょうか。いま二年生だから、あと一年着るからね。そうすると、うん、二週間でできます。新学期にはギリギリ間に合うね」
「ありがとうございます」
お直し代がかかってしまうのが心苦しい。いくらだろう。
「うちの娘も南村っ子なのよ。親近感でサービスしたくなっちゃう。他校だとフルのお直しは八千円からなんだけど、今回は内緒で五千円にしとく。これ着て勉強頑張ってね」
「あ、ありがとうございます、頑張ります」私と一緒に光理さんがお辞儀をする。
「そう、その意気よ」
水着は直せないし、身体にフィットしたのでそのまま十一号サイズを選んだ。傷跡が新しい仲間たちにバレるのを考えると水泳の授業は見学で通したかったが、どうせその場合も半袖短パンの体操着には着替えるのだし、ふだんの体育までずっと見学専門というわけにはいかないし、なにか事情があるのか、はたまたズル休みかと訝しまれる方が嫌といえば嫌だった。

帰りのスペーシアで、光理さんは上機嫌だった。
「三千円の差って、結構でかいよ、あのマダム気前がいいね。瑠璃ちゃんが美人だからかな」
「いやいや、私、美人とちゃうよ」
「美人よ。私が惚れた棗ちゃんにそっくり。私、審美眼には自信あるから」
こういうところを見ると、やはり本物の大人だ、すごい、と思う。誰のことも下げることなく、スマートに、ユーモラスに、説得力たっぷりに褒める。母親や、大工さんならこうはいかない。まず、人を褒めているのを聞いたことがない。いつも、誰彼構わず貶める。母親は叔父が嫌いだった。「勉強が大事で大事でしょうがない。話が通じない社会不適合者。宝物の学力頼みに試験受けて、たまたま受かって、お情けで仕方ないから病院に採用されただけの障害者。銭の亡者」とよく言っていた。「キチガイ診てるんだもん、そんなこと頭パッパラパーなやつにしかできない」とも。
「……あんな、光理さん」
「なあに?」
「うちの母、どう思う?今年のお正月に京都のばあばの家で会ったんやろ?」
「……うーん、会ったわねぇ、そうだなぁ……華やかな格好が好きで、お酒に強くて、豪快な人、って感じかなぁ」
「変やなかった?」
「まぁ、学校にいたら目立つかな」
「絡み酒したり、ばあばからお金むしったりしたんとちゃう?」
「ああ、お金は少しもらってた。芧は不安定なお仕事しているから特別にお年玉ね、って。……絡み酒、というか、呑むと楽しくなってテンションが上がるタイプなんだな、って思ったな」
「……迷惑、かけたやろな、ごめん」
「いやいや、私な、あ、これは棗ちゃんも知ってるから別にいいんだけど、大学生のとき、お小遣いがほしくてスナックで働いてたのよ。……もっとすごいお客さん百人いたから大丈夫。芧さんなんて可愛いもんだよ。……美人さんで明るい感じだから、男の人と関わるお仕事はイヤじゃなさそうだな、と思った」
胸が、一拍、銅鑼を打った。
「……ああ、やっぱりそうなんや、母のいうお風呂屋さんって、映画に出てくる、男の人の身体洗ってあげるとこなんや。うちな、母が『お風呂屋さん』としか言わんから、万に一つ、スーパー銭湯でパートしてればええなって、思うてたんよ。でも、生理の時だけ休みとか、遅刻したら罰金とか、『指名』がどうとか、なんか辻褄が合わんなあって、これは、あの、映画の方やなって、……」
 顔の皮膚の内側に、熱い海を感じた。しかし、涙は出なかった。
 「ああ、そっか、そっか……」
光理さんも私も、黙っていた。

 悲痛な、最愛の人のお通夜のような雰囲気で帰宅したので、ダイニングで読書をしていた叔父が驚いた。
「どしたん、ぼられたんか」
「制服代は、サービスしてもろたよ。あんな、私、母の職業を、ちょっと怪しいな、思うててん。予感が当たった。いや、もう十中八九わかってたけど、あらためてはっきりしたら、ちょっと辛い」
二人がかりで経緯を説明した。光理さんは、ごめんといった。何も悪くないのに、謝らせてしまった。私から涙は出なかった。
「……子供にごまかさんと正直に言ってあっけらかんとしとくか、隠し通すかの二択なのを、中途半端なことした芧が問題やな、あーもうあいつはぁ」
叔父が頭を掻きむしった。「家やったらどうせ、酒なんか飲んだら、例の大工と組んで、瑠璃ちゃんに襲いかかってくんねやろ?……あーもう、あかんあかん。瑠璃ちゃんはニコニコして俺んとこ来たけど、出発前、大工と芧と二人がかりで、相当俺の噂話してたんとちゃう?」
「……しとった。ちょっと言われんようなことたくさん言われて、ろくな目に合わんから考え直して家に居れ、って児童相談所の最後の面会でも言われた」
「……よう揺らがんかって、ここまで来た。申し訳ない」
「いや、母も、大工さん、も、私が辛いことしかせんし、昔優しかった、……棗さんが、もし母のいうように意地悪になってても、母と大工さんのダブルパンチよりええやろな、と思った。定職についてるから、もし殴る人でも昼間はおらんし、児童相談所のお姉さんから、お仕事は県立病院のすごいお医者さんだよって言われとったし、ああいう人はウソついてもしゃあないから、お医者さんはほんまってことやし、多少厳しかったりしても、神奈川の、しかも横浜みたいな人のぎょうさんおる場所で、派手にいじめたりはせんやろと思うて。ごめん、上手い感じにいえん。いいたいニュアンスとちょっとちゃう。ただ、児童相談所の人から、夫婦でそれぞれ家持ってるから、で、奥さんもお医者さんやから、万が一ちょっと厳しすぎたらそこ行ってね、と言われたりはした」
「……うん、わかった、伝わった。まー、茶でも飲むか。光理、光理が小さなること一個もないで。使い走りでごめんけど、なんか茶、見立てて」
「わかった」目が少し赤かった。冷蔵庫を開け、薄黄色のお茶が入ったポットを出し、コップ三つに均等に注いで、それぞれの前に並べた。
「…………瑠璃ちゃん、いま、心配とか困りごと、あればいうて」叔父が優しいバリトンでいう。
「……ないよ。最初の最初は、児童相談所から様子の聞き取りされる期間だけ優しいんかな、と思たけど、いまは思うてへん。朝、ヨレヨレのところとか、頭痛持ちで薬いっぱい飲んでるとことか、見せてくれたし」
「そうか、あとあれか、怖いとすれば酔っ払ったところか。……芧と双子やし」
「この人、頭痛に悪いからって、アルコールはサントリーの『ほろよい』すら飲まない。それどころか甘酒だって飲まない」と光理さんがお茶をすする。カモミールのいい香りがした。
「甘酒は、味がちょっと」
「な、苦手」
「パチンコは店がうるそうて耳やられるし、やり方さえわからん。競馬もちょっと渋すぎてちゃう感じがする、けど、酒は光理がいない隙に下のセブイレで買ってこれるし、パチ屋は横浜駅前にあるし、……悪魔の証明やな」
「いまは信じてるから、大丈夫」
「ありがとう」
「私、ちょっとメール見に一旦帰る。昼ご飯も食べてくるから、二人は昨日のハンバーグの続き食べて。お米は朝のがまだ残ってるから」
といって、光理さんは自分のコップを片付け、玄関を出ていった。
 部屋の中が静まり返る。ダイニングに残された私たちは顔を見合わせた。
 「あんな、瑠璃ちゃん」叔父が切り出す。「俺、自分で言うのもアレやけど、結構器用やねんで。三歳から十八歳まで、ピアノやっとった。芧は楽譜が読めんいうて、四歳になる前に辞めてんけど。キーボード出したるわ」お茶をテーブルの中央によせた。
 ひょいと入った和室から、電子キーボードをかついで出てきた。ダイニングに置く。電源をONにし、音量を調整して、
「……さて、なにやろうかな。『bad guy』とかいけるかな、……」
 まるで鍵盤を、がっしりしているが綺麗な手が、くすぐっているように見えた。Billie Eilishの『bad guy』が、ピアノの旋律で再現される。不思議と、すこし悲しい曲に聴こえた。
 演奏が終わる。「どう」叔父は聞いた。
「…………すごい、上手い」私は拍手する。心から感動していた。叔父はキーボードを和室にしまい込むと扉を閉じ「ピアノ結構好きなんよ」といった。「わかる?」
「うん、こんなに上手なんやもん、好きだからできるし、できるから好き、やんな?」
「それもあるけど。……ピアノ好きは手を痛めることはしない、……足もせやで。ばんとしたやつのペダル踏めなくなるからな。俺の場合は手話もやるし。だからなんか殴ったり蹴ったりしない、……ということ。俺、病棟や外来で暴れて力技に出る患者押さえてる時、己の手の心配しかせんで。ナースの子に、『先生、何で患者さん押さえてる時、潰れた毛虫見るみたいな表情してるんですか』言われたわ。そもそも暴力には嫌悪感しかないな、患者であれ何であれ」
「……本当に、母と双子なん?」
母親なら暴力をカッコイイといって持て囃す。私を叩く大工さんを「がんばれ、がんばれ」と猫なで声で応援していたこともあるほどだ。一通り終わったら、クタクタの私が転がっているのをわざと踏みつけ、上からよだれの塊が落ちてくるほどの熱いキスを交わしていた。
「双子らしいな、とりあえず」
「母のこと、軽蔑しとん?」
「個人的には、あまり好きではないな、ウリと甘酒と変わらんくて、あんま合わん。それ以上は何も言えん。飯食おか」
 なるほど。確かにこの人ならば、ウリ、や、甘酒、の入ったフォルダに、西方芧、を分類していてもおかしくなかった。直感的に納得した。なんというか、一種ミステリアスな、(ヒト型の)「突然変異の人類学者」らしさ、みたいなものがあるのだ。ヒトの振る舞い全てを学習によって後天的に獲得したかのような。もちろん、秘密だが。
 しかし、それが仮に本当ならば、母の残虐性に合点がいく。母はその準一卵性双生児の弟と違い、ヒト社会にいながらヒトに擬態しない個体なのだ。そうすると私はどうなる?……ここからは哲学であると同時に、サイエンス・フィクションの世界だ。
 叔父が「保温」の炊飯器を開け、茶碗によそった白米を私の前に置く。食器棚から箸を出す。ハンバーグは鍋ごと冷蔵庫に入っていたので、そのままIHクッキングヒーターにかける。二個だからすぐ煮えた。別個の皿に盛り、叔父も白米と箸を用意し、淡々と食した。
「…………外来やってるときは、当然テレビとか見られへんのやけど」肉を噛みながらゆっくりと話す。「妄想が主症状の患者がな、『先生、政治家の誰彼が狙撃されました』って息を切らして診察室に入ってきてな。まあ最近寒暖差もあるし、気圧もあれやし具合も悪なるか、って、強めの薬出して帰らして、自分が家帰ってテレビつけたら、その政治家が撃たれて死んだ話でどこの局もいっぱいやねん、テレ東まで。あれは、しくじったな、ほんまごめん思うた。………それだけ。ご馳走様」
 彼はそんな奇妙な話をしながらも昼食の肉塊を完食していた。精神科医とは患者の一形態、とは誰が言ったか思い出せないが、彼もまた常識人と一種の脳病人の両刀使いだと思った。そして、それは完全に成立しうるのだと説得された気分だった。心が春のように軽くなった。叔父と二人でいるのは、案外、心地がよいのだった。叔父はまたなにか薬を含んで、冷蔵庫にあるポットの浄水で胃に流し込んだ。
 「さあて」叔父が言う。「勉強やな、数学のドリルかなんか買いに出よか」

 二人で、「ブルーライン」という地下鉄を使って、横浜に出た。電車賃は、おごってもらった。それどころか、
「Suicaにこのくらい入れとき」と二千円、(ほとんど強引に)もらい受けてチャージ、ということになってしまったのだった。
 駅ビルの書店に入る。見たことない広さだった。
「えっと、どのくらいで引っかかっとるなとか、感触ある?」
「小五くらいまでは、休み休みやけど学校行っててん。テスト、満点もらえたりしてた」本当だった。その頃まではギリギリ学校には出席できていて、数少ない服の着回しに悩んだりもした。問題は、大工さんと母親が入籍して少し経った小六の秋頃からだった。恥を忍んで、正直に話すと、
「ほんじゃ、小六のんと中学一、二年のドリルか。買うたるから分かりやすい参考書と一緒に探しといで」
「なんでも買うてもろて悪いなぁ」
ぽつり、本音がこぼれる。
「わがままで欲しがってるのとちゃうねんから、細かいこと悩むのよしなさい、さ、探す探す」
「……高校の学費は、ああ、そのときまで家に置いてもらえたらやけど、自分でアルバイトして払うから」
「高校から苦学生みたいなことせんでよろし。学生のうちは、バイトで社会勉強したらそのお金は遊びに使い。でもそうか、中二か、進路問題が本格化するな、あとで少し、一緒に調べるか」
将来のことまで、いっしょに悩んでくれるという。身も心も完全に、「保護者」に委ねる調子でもたれかかってよい、ということだろうか。
ドリルと参考書を集めたら、すごい重さになった。カゴを持つ手がぷるぷるする。カバンの中で、スマホが振動した。一旦カゴを置いて、スマホをとる。着信だった。「母」と表示されていた。
「………棗さん、どうしよ、母から電話きた」
「切っとけ切っとけ。児相から酸っぱく『連絡禁止』言われといて、わからんのか、あいつは。…………瑠璃ちゃん、スマホ、年季入っとんな、iPhoneいくつ?」
「10かな、小学校のとき、母がお風呂屋さんに勤める前、お酒屋さんのボーナスで買ったんよ。……でもそこも、街にあるような酒屋さんとちゃうよね、きっと」
「ほう、携帯変えよか、芧にも番号秘密にして。新しい番号は俺と光理と児相の担当さんと、京都の仲良い友達にだけ教えて、10は京都の思い出として保存しとく」
「ええのん、高いやろ」驚いた。
「いうて、そのうち寿命やで、それ。どのみち買い替えになるんやし、今なら十五番目が出たばっかで、一個前のモデルが若干リーズナブルになっとるから、ええよ」
「ホンマにええの、ありがとう」
ドリルと参考書をレジに通し、叔父はカードで払った。合計で、一万円をギリギリ超えないくらいだった。
 高いな、やっぱりスマホはこのままでええかな、と思ったとき、品物をすっかり折りたたみエコバッグに入れて、背中のOUTDOORにしまった叔父が、
「あ、いま、遠慮しよかな思たな。でもな、ここ、書店と電器店がお隣さんやねん、出直すより安い。ペットボトルの茶やジュースも売ってる。話、長なるから、一回それ買って休もか」
 烏龍茶のボトルを二つ買い、やっぱりおごられて、階段を上がってむんとする地上に出、ベンチに座った。お茶を並んで飲む。ああ、と息が漏れる。
「お疲れさん」
「……そういえば、棗さんちって、禁止事項とかないん」
「中学生の子がいたことないからな。……ああ、自傷行為含む暴力禁止、議論はいいけど口論禁止、くらいか」
「じしょーこーい、ってなに?」
「自分で自分の頭はたいたりとか、カミソリやナイフで手足切ったりとか」
「ひぇー、痛いやん。小学校のとき、クラスにやってる子おったけど、私はやらんわ。若いセクシーな体に傷が増える」
「せやせや、あと、飯のボイコットと、むちゃ食い禁止かな、どっちも身体に悪いから」
「ふうん、なんか、身体を守るためのルールやな。ゲーム禁止とか、甘いお菓子禁止とか、クラスにおったよ」
「ああ、ゲームはアルバイトしてから好きなん買うて、一日二時間くらいならOKにするか」
「優しいなあ、私ゲーム機持ったことないで」
「あんまりルールを厳しくすると、学校行ったときに友達と話が合わんやろ、ひょっとして、最近の家にしたら厳しいかも知れんで。まあこういうことは、都度都度相談しようや」
「わかった」
「ほんなら、携帯、買いに行こ」
「うん」
 iPhone14の赤色を買ってもらうことになった。叔父はこれの黒を持っている。お揃いが嬉しかった。店員さんはしきりに新型のiPhone15や、その系列のProやProMAXを推し、旧モデルとの違いや利便性を説いたが、私たちは二人がかりで「iPhone14、お願いします」と粘った。番号を変える手続きをするついでに、同一住所なら家族割が適用されると聞いたので、叔父と同じ格安回線にした。カバーは赤が映えるように、シリコン製の透明のを選んだ。ガラスの液晶保護フィルムを買い、店員さん(フィルム貼りに自信あり)に装着を手伝ってもらった。
 店を出るころにはすっかり夕方になっていた。サラリーマンだらけで、駅の通路が膨張して破裂しそうだ。
「混んでるな、手繋いでええ?私ちびやから押し流されそう」
「ええよ、おいで」
 叔父と手をつないだ。三歳の冬、横浜赤レンガのクリスマスマーケットに行って、それ以来だった。自分の腕の産毛が気になった。ぎゅうぎゅう詰めで四角に成形されそうな「ブルーライン」に乗った。汗臭い車内で、私を守るように立つ叔父のシャツに顔をうずめた。やはり清潔な、タオルケットと同じ洗濯の匂いがした。左手で手すりを掴み、右手にリュックを下げている。「桜木町」で、命からがら降りた。マンションの二十一階に帰る。玄関の前に大きなアマゾンの段ボールがあった。
「あ、来た来た」叔父はリュックを背負い、段ボールを抱えたまま鍵を開けドアを押さえていてくれる。
「……ただいまー」
「はい、ただいま」
ダイニングから光理さんが顔を覗かせた。
「あら二人とも、どこ行っちゃったのかしらって心配してたんだから。お夕飯出来てるよ、鯖の味噌煮と五穀米と、わかめのお味噌汁、……あ、アマゾン来たんだ。じゃあ開封式か」
「うす、ちょっと勉強用品の買い出しと、携帯の機種変に。瑠璃ちゃん、テレビの裏にWiFiあるから、繋いで」
「……やり方、わかれへん」
「お家、WiFiなかったの?私が繋いであげるから見てて。……あ、iPhone14だ。かっこいい。まずここを押して、ルーターのパスワードを……っと、テレビの裏の機械に書いてあるの」
WiFiを繋いでもらい、二人と番号を交換しあった。LINEは、紐づいたGmailアドレスがあったから、もうあらためて連絡するような友人はいないが、丸ごと引き継ぎができた。
 続いて、段ボールを開封する運びとなった。
「安かったから、とりあえずしばらくこれで」叔父は中から、赤っぽい生成風ピンクのanelloのリュックを出した。それから、CASIOのbaby-G。こちらは紺色に、液晶の周りだけピンクの縁取りがしてあるものだった。電波式のデジタル時計だ。それから、ピンクの水玉模様の蓋がついた二段のお弁当箱と、同じ色合いの五百ミリのTHERMOSの水筒とプラスチックの箸。「学校に持ってくカバンと時計と弁当箱と水筒でした、っと。あと、こっからは光理さん、頼みます」
「はーい」
光理さんがアマゾンの箱を畳んで、ダイニングチェアに座っていた大きなカバンを持ち上げる。中から、散髪バサミ数本(それぞれ形が違った)とナイロン製の傘みたいな大きさのエプロン、昨日の新聞、などが出てきた。
「……瑠璃ちゃん、悪いけどボサボサといえばボサボサだから、軽く切ります。長さ揃えて、不便がないくらいに。大丈夫よ、私、棗ちゃんの髪もいつもやってる」
「お世話になっとります」
「人に頭触られるの嫌いだもんね」
「うん、なんか、ひい、ってパニクってしまう」
「そうなんや」意外で驚く。
「アマプラをテレビに接続して映画見ててもらって、集中してる間にさっさと切る」
「お手数お掛けしてます」
「集中しているときは顔に出るからタイミングがすぐわかる」
「そうなん?」
「うん、何か、恍惚というか、生まれたての妖精みたいなポワンとした感じ」
「恥ずかし。でも確かに局所麻酔みたいな感じで、切られてるのはわかるけど、ひい、とはならない」
「手間のかかる大人だね、棗ちゃん」
「すんません」
「……母も、腰くらいまであるロングヘアで、三つ編みの練習させて、いうたら絶対嫌やってはたかれた。頭触られんの苦手やった可能性あるな」
「……あるな、てか、芧のやつ、ことあるごとに手ぇ出すねんな。猿か?」
あまりにあっけらかんというので、おかしくて笑った。
光理さんは、「散髪は明日にして、いまはお夕飯にしようか、冷めちゃう」といって道具を片付け、夕餉を並べた。叔父が漢方を水で飲み、三人で食卓を囲む。
「棗ちゃん、お昼食べたあと、洗うまでがセットだよ、中断してあったけど」ドキ、とした。たしかにそうだ。鍋や用事の済んだ食器を洗わずに外出した。
「あ、何も考えんかった、申し訳ない」
「わ、私もなにも気づかんで、すみません、夕飯の片付けやります、ごめん……ね」小さくなる。首筋が冷えて、心臓が早鐘を打つ。
「ああ、責めてないよ、ちょっと注意しただけ。しかも瑠璃ちゃんじゃなくて棗ちゃんのうっかりを」
「そ、きょうの昼の責任者は俺。ちょっとしくじった。この家は、しくじったら『ごめん』、フォローしてもらったら、『ありがとう』ってことになってる」
「そうそう。なるだけ早く慣れて。責任者役もそのうちやってもらうから。もちろん、少しずつ、やれることから」
「……うん、わかった」ホッとした。この家に暴力はないとわかっているが、体が勝手に身構えてしまう。どうしたものか。
 晩の片付けは、光理さんと私の二人でやった。叔父はまたザラザラと服薬していまは入浴中。
「瑠璃ちゃん、手際いいね。レストランかどっかでこっそりアルバイトしてたんじゃないの」
「いやいや、……京都のお家、洗い物溜めて溜めて、綺麗な器がなくなったら百円ショップで紙皿買うてきて、それもカビが生えるまで使う、って感じやったから、自分のだけこっそりお皿とかコップ洗ろててん。バレたら『水もったいない、水道代出せ』って電気止まった暑い家ではたかれるから、自然とさっさとできるようになった」
「あれまあ…………そうなの、百円ショップで紙皿買うより先に電気代、なんとかならなかったの」
「大工さんが、母の稼いだお金全部いっぺんに使っちゃうから」
「ギャンブル?」
「……それも多分ある。あと、お酒も。お金があるときは外で飲むけど、母が生理だったりして貧乏に拍車がかかると、近くの酒屋さんやコンビニでパクリよるねん。大工さんは自分が世界一大事で、次が母。母のことも殴るけど、私のときよりは優しくやる」
「…………あのさ、近々、っていうか、来週、また聞き取り、児童相談所のときよりちょっとお堅いのがあるんだけど。京都での普段の暮らし、ぜーんぶ言わないといけないの。言える?」
「言う。母は大工さんから助かるべきやし、大工さんは罰金百万円や」
「よし、瑠璃ちゃん、強くあれ。……他にエピソードがあれば話して」光理さんは手を拭いて、エプロンのポケットに入っていたスマホのレコーダーをONにした。
「あ、じゃあ、えっと、……大工さんの話になんねんけど、『お前の学校に、知恵遅れのクラスがあるやろ。何でお前は入らへんねや。……そこのだれでも構わんから脅して、カネ回収しろ、どうせ障害児なんて年金もろてカネ持ちやねんから。それどころか、カネのために芝居打っとる役者がゴロゴロおんで。できひんようなら、お前を市役所に連れてって、ローター入れてみんなの前であうあうばぶばぶいわせて、うんこさすからな』といわれて、困って、恐喝なんかできんし市役所で漏らすのも嫌で、でも大人にいうたら恐喝未遂で私が捕まるやろと思うて、『あー、特別支援クラス、学級閉鎖やった』いうて一週間くらいごまかして、母にお給料が入るの待っとった」
「……そうか、よく頑張ったね」
光理さんはレコーダーをOFFにした。
洗面室からドライヤーの音がして、やがて止む。歯磨きとうがい。そして叔父がリビングに戻ってきた。灰色のTシャツに紺のハーフパンツ姿だ。
「……へい、お湯、空いたで、あーだる、テレビつけて」なんだか、軽く酔ったかのようにぐにゃぐにゃしている。
「は、はいっ、はい」私はテレビのリモコンを操作する。気象予報士が日本地図を指して、いろいろと説明していた。
「明日、曇りでしょう、……か。俺、雨わかんねん。台風も。晴れは知らんけど。だるー、髄液が痛い」
「とんぷく飲んで寝な、はい、お水。吐き気はある?」
光理さんがすかさず差し出す。
「ありがとう、吐き気はせんけど…………俺、明日使いもんにならん気がする。すまんな、おやすみ」
「うん、おやすみ」
二人でハモった。
 叔父は和室の戸をぴったり閉めた。

 光理さんは叔父を案じてきょうまでは泊まると言った。わたしもその方がいいと思った。頷いて湯を借り、全身洗って流し、浴槽に入った。ひょっとして、叔父はハナから具合が悪くて、無理をさせてしまったか…………?電車の混雑や、重たいドリルや、携帯ショップでの長くて複雑な店員さんの説明を思い出す。叔父は普段一人暮らしなのに、昼の後片付けを忘れていた。あの段階で多少、調子が悪かったのではないか。なにか配慮ができたはずだ、それなのに、私は疎い。もしもただの頭痛じゃなかったら?脳がやられて、健常者として機能しきれなくなったり、そうまでいかなくとも性格が変わったら?…………真夜中に不意に呼吸が止まったら? 私は連れ戻され、しかも「叔父」には二度と会えない。
 はらはら泣いた。何度も湯で顔を洗い、浴室を出て、昨日の調整のおかげでやや使いやすくなったラックからバスタオルと、用意していた下着と寝間着をとる。体を拭きあげて身につけ、ドライヤーをし、ヘアブラシで髪をとかした。気を抜くと涙が出そうで、神経にウムと力を入れた。
 リビングに戻る。光理さんがメロンを切っていた。昨日の続きだ。
「瑠璃ちゃん、これ早く食べなきゃ。……どしたのそんな怖い表情して」
私は浴槽の中で考えたことを、自分の疎さまで話した。
「あらぁ、そんなに気を遣わなくてもいいさ。棗ちゃんも幸せね、ただの頭痛でたったひとりの姪っ子に、こんなに案じてもらえて。……あの人も一応医学部出てるんだし、明らかにおかしな痛みだったら病院に行くさ。いつも通りだから寝たんだよ、ほら、メロン食べな。食べたら歯磨いて寝ちゃえ」
「……うん」
「あの人もちょーっと大袈裟よね。瑠璃ちゃんがいま、そういうこといちばん気にするし過敏なのわかってるはずなのに、デリカシーがない」
「……いやいや」
「あんなに大人がだるいだるい騒いだら不安にもなるわよね、しっかりしてもらわんと。メロン、あと一切れずつあるから、明日の朝ごはん、ゼリーでも一緒につくろうか。カットパイン缶を買ってきたから、あやつにはそれで作ってやりましょう。私たち、優しいわね、のほほ」
「……ええ、ほんまに」
「いやん、ナチュラル京言葉。可愛らしい。舞妓さん、って感じ」
「……生まれも育ちも、下京の女ですえ、……京都市内でも、治安の悪うとこで恥ずかし」
「あのエリアは繁華街が近いからね、修学旅行で行ったよ、東本願寺とか。夜や住宅街はわかんないけど、明るいときに遊べば楽しいね、この辺と一緒」

 歯磨きをして寝室に入る。昨日のように日記を書いた。ドリルや参考書は叔父がリュックの中に持っているので、勉強は明日からとする。まだ馴染みのないiPhone14の、ツヤツヤの赤に見とれる。Xのアカウントにログインし、電話番号変更設定をする。そして、タイムライン画面を覗く。通知マークに青丸がついている。タップすると、
「ずっと心配してたよ!平穏な暮らしを祈ります」
「脱出おめでとう!きょうは神輿だ!」
「ネタじゃなくガチロリ案件?とりまおめでとう!」
等、昨日のポストに私の逃避を祝うコメントが五十件くらいついていた。有り得ないとは思うがあまり目立って現実の知人や母親や大工さんに知られるとまずいので、「鍵」を設定した。

翌日は、五時半に起きた。夜のうちに雲が発達し雨が降り出した、その音で目が覚めたのだった。叔父の頭痛天気予報の方が、テレビより正確だったことになる。私はiPhoneに「中二 勉強」と打ち込んで、おおよその「習得できていれば新学期、恥をかかずに済むライン」を五教科分探った。そして、「お金をかけず高校を出る方法」も。それをやっているとあっという間に一時間経った。慌てて髪を梳かし(ヘアブラシの一本は部屋用にした)、リビングに出る。光理さんが着替えと薄化粧を済ませ、キッチンに立っていた。急いで歯を磨き顔と手を洗う。
「……おはよう、おまたせ、ちょっとのんびりしてた」
「うん、大丈夫よ、ゼリーたくさんできるから、朝はそれだけでいいやって、今ゼラチン探してたの。あった。足りそうだよ、さ、一緒にやろ」
 水に粉ゼラチンを溶き混ぜると、独特な香りがする。「ちょっと果汁を少なくすると上手く固まるよ」とアドバイスを受けつつ、果肉とゼラチン入りの水を混ぜ合わせる。透明のボウルに入れて冷蔵庫で冷やす。続いてパイン、これは彼女のサポートなしにひとりでやってみた。
「ちょっと出来上がりまでに時間がいるから、昨日買ったドリルやってみたら」
「あ、ドリルと参考書、重たいからって棗さんが自分のリュックに入れてくれてん。いま多分和室」
「あら、じゃ、取ってくる」
光理さんがなんのためらいもなく引き戸を開けた。キッチンからちょっとつま先立ちになると、叔父の寝姿が見える。布団がはだけていた。脚が長く、尻周りの肉感はややがっしりしていた。眠りは深い。規則的に細い鼾が聞こえる。光理さんがOUTDOORを引きずってきた。「これ?」
「そう」
彼女が引き戸を閉める。
「可愛い可愛い姪っ子が蒼白になるほど心配しとるっちゅー中で、幸せそうに眠ってるわ、まったく」リュックを開ける。飲みかけの烏龍茶と、重いエコバッグが出てきた。
「これ?……小六、中一はおさらいか。って、全教科、三年分やるの!?あと三週間もしないで九月よ?あいつめ、自分が解くわけじゃないのに、自分のペースで買ったな。想像力の欠如。メタ認知の抜け落ち。プレッシャーじゃないの」
「私が、新しい学校で肩身せまくないように、自分で選んだの。解けるから大丈夫」
「……おっ、頼もしい。どれからやる?」
「国語。小六やったら、途中まではなんとか通ってたし、解き終わりにゼリーができあがるんちゃうかなって思う。中一から学校あんまり行けてないけど、勉強が嫌いなわけやないし、こっそり図書館行って本読めてた時期もあったし、児相に泊まってるとき、『アルジャーノンに花束を』と、『蟹工船』と、『ノルウェイの森』は辞書引きながら全部読んだ」
「わ、またハイレベルなセレクトね、棗ちゃんと血が繋がるとこうなるのか、じゃ、小六の国語なんて頭のストレッチだね」
 私は光理さんと差し向かいに座り、ダイニングのペン立てからシャープペンを借り、黙々と問題を解いた。途中、雨の音に風の吹くのが加わったな、と思った。
「………終わった。次が中二のんよね?」
「……瑠璃ちゃん、いいえ。すごいお知らせです。あなた黙々と、真剣な眼差しで中二までの国語、全部解きました。チラッと採点したけど、模範解答を盗み見てんじゃないかしらってくらい、よくできてる。次は算数と数学。頑張れる?」
「……うん、やってみる」
小六の算数と、中学の数学に取り掛かった。雨足が激しくなったな、と思った。
途中でシャープペンの芯が切れたので、先日買った中から持ってきて詰め替えた。ついでに寝間着を洗濯機に入れ、Tシャツとデニムに着替え、また問題を解く。
「…………とりあえず中二までまるっと書けた、どないかな」
「……アメイジング。瑠璃ちゃん、東大目指してるとか、知り合いに京大生のお兄さんお姉さんがいるとか、ない?」
「……ないよ、答え合ってる?」
「ええ、全部。……どうやって解いてる?」
「参考書に解き方が書いてあるから、真似するだけ」
「わーぉ、天才の答え。まだゼリー固まらないよ、まだいける?」
「うん」
続いて、社会、理科を三年分、英語を二年分、解いて解いて解きまくった。シャープペンの芯を二回詰め替えた。
「……ふぅ、ちょっと疲れた。……合ってますか、光理先生」
「……復習どころか、先取りも完璧。秋の模擬試験でも受けてみる?オンラインで申し込んで、実際に土日に空いてる学校で受けるやつ。もちろん中二の範囲で、自分の偏差値知りたくない?どの辺の高校なら学力が合ってるかとか」
「……ちょっと知りたい、やりたい」
光理さんがスマホで調べる。
「あ、八月三十一日、土曜日に枠があるわ。これ申し込もうか」
「うん」
 それから、固まったメロンゼリーを二人で食べた。果汁のぷるぷるする中に、細かく切った実がとじこめられている。夢みたいだ、と思った。鮮やかな季節の味に平穏で満ち足りた食卓。いつかの空想の中で遊んだ家庭に近かった。

 八時四十分を過ぎて、引き戸が開いた。まだ半分寝ているくらいの叔父が、這ったまま顔を出す。
 「……おはよう。立つと血液が下に下がって余計頭痛いから、ちょっときょうはかたじけない、しばらくこの姿勢で」
「おはよう棗ちゃん、落ち着いたら座って。何か食べてからじゃないとお薬飲めないから。お水いる?吐き気する?脈は?」光理さんが駆け寄る。
「あ、水いる、吐き気はないけど、脈はちょっと……乱れ打ち」
私は背伸びしてコップをつかみ、冷蔵庫の浄水をくんで叔父に寄った。手渡す。
「ありがとう」顔がいつもより青白い。ちょびちょび飲む。
「パイナップルゼリーあんねけど、いける?」
「……ああ、買うてくれたん?……つくった……!?……いります、よいしょ」
叔父がコップを片手に立ち上がった。でかいなあ、と思う。
蒼白の彼がダイニングにつく。
「なんや、二人、朝から勉強か……えっ、うせやん、中二のドリルが、終わっとる……って、ゼリーでか!……ああ、缶開けて丸々固めたんか、やることドンキか、あんたら。……両方すげえ、まず、光理先生、どんな教えで終わらしたん、この量」
「教えるもなにも、自分から参考書見てどんどん提出してくる天才生徒でして」
「……え……!?」叔父と目が合う。微笑んでみせる。「……やばない?」彼は枯れた声を一層低めて囁いた。
「私、学校の勉強、苦やないねん」
「そういう話……?えらいこっちゃ、ドリル、楽しかった?」
「余計なこと悩まんと目の前のことすればいい、痛くない、というんで、都合ようて、あまり楽しいとか辛いとかは思わんと、気づいたら終わり、みたいな」
「ほえー…………、すごいな瑠璃ちゃん」
「参考書に解き方載ってるから、真似するだけ、だっけ?」
「うん、それでいけた。棗さんのええ頭、遺伝で頂戴しましてん。義務教育中は苦労せんと済みそうです」
「へぇ、……あんまり遅れよったら家庭教師でもつけたろか思うて、調べてたけど、……いらんな、どうみても」
「あ、中学卒業したらつけてください。私ちょっとiPhoneで調べてん。中学出たら高卒認定いうのを取って、家庭教師さんについてもろてようさん勉強して、医科大学……棗さんと同じところ受けようかと」
「えっ」ボウルからスプーンでひとすくいしたゼリーが落ちかける。
「あ、やっぱり難しいかな、県立で経済的やと思ったけど、医学部は厳しい?」
「……いや、高校行かん気なん」
「はぁ、十六かそこらの年頃て、悩ましいやろ、自分の人生で忙しくて、頭痛の専門医なるという目標があるのに、人の足踏んだ踏まないでワアワアしてられへんもん」
「は、はぁ、なるほど」
「コミュニケーションは、あらためて大学で学びますわ。小学校から高校までの教室で要るコミュニケーション能力と、医師のそれとは違いますやろ。せやったら大学でよーく勉強したほうがええ。そもそもコミュニケーション能力ってボヤーとしててなんの力が分かれへん。傾聴力?」
「……ほほう、まっ、頭痛が去ってから続きを話してくれ」
「ああ、ごめんね」
叔父がゼリーを一口含む。
「お味はどない?」
「衝撃でようわかれへん」
「じゃ、美味しいか不味いか」
「……美味しい」
叔父は「ドンキ風」ゼリーを半分ほど食べ、服薬して、さらにとんぷく薬の「カロナール」を飲んだ。食前の漢方は和室で、水もなく雑に服用したらしい。
「棗ちゃん、洗濯乾燥やったら頭に響く?」
「……多分平気」
「じゃあ洗濯機回してくるね」
「ありがとう、よろしく頼む。えと、瑠璃ちゃんは、きょうは光理先生と一緒に、自転車買いに行って、帰りに歯医者さんへ寄ってレントゲン撮ってもろて、大工さんにブッ飛ばされて欠けた歯ァ治してきて。ほな、メンタル的にもキてるから僕はひとりになります、じゃな」
そうして和室の引き戸をぴったり閉めた。悪天候は精神にも不調をきたすんやな、というか、それを自己申告できるほどに冷静なのは何故、それだけ「病み慣れている」ということだろうか、はたまた職業病の一種か、等、思った。
 光理さんが洗濯機のスイッチを入れて戻ってきた。「あれ、棗ちゃんは」
「具合悪いから、ひとりで休んどくといって和室に。きょう自転車屋さんと歯医者さんに行ってっていってた」
「ああそうか、じゃ、まず散髪としましょ」
光理さんは、私の髪を色んな角度から、スマホで撮影した。
「シュシュ使えるように、長さ揃えるくらいにしとくわね」
「ありがとう、でも、私の髪、量多いし、膝まであるやろ。暑いから胸くらいの長さでお願いしたいな」
「……おっす、わかった。ヘアドネーションに使えそうね、髪の寄付。やる?」
「やる」
「もし思ったより短くなったら、シュシュは伸びるまで腕飾りだけどいい?」
「ヘアドネーションって、人の役に立つやろ、ええよ」
「私の知ってる美容室、きょう空いてるかしら。バッサリやるならプロの人がした方がいいわよね、ちょっと予約できるか聞いてみるわ」
 光理さんは廊下に出て、スマホで電話をかけた。うん、はい、はい、という相槌が聞こえる。やがてリビングに戻ってきた。「十時半からひと枠空いてるって。急ぎましょ」
 スペーシアの助手席に乗せてもらい、美容室に向かった。私のヘアカットは母親がちょいちょいと前髪を気分のままに切るくらいで、あるとき大工さんがイタズラで、抵抗する気も、もうない私にたちバサミを差し込んだことがあるが、珍しく母親が怒って、「この子の髪いじったら、あんたの耳切り落とす」と鬼のような剣幕でいうため、二人で真っ青になった。大工さんはコメツキバッタのようにペコペコし、近くのコンビニで、母親の好物を片っ端からパクってきた(なぜレジを通していないのがわかるかというと、母親が生理中で『お風呂屋さん』を休み、家に一文もなかった割に、大きなバッグを持って出て、そこにいっぱい、お菓子やお酒を詰めてきたからである。大工さんは、ギャンブルで勝ったお金は全額自分のにして、最愛の母親宛てにさえ、一ミリも使わない)。なんとはなしに光理さんにそれを言う。彼女は、笑いよるんか困りよるんか微妙な表情をした。
 長いこと助手席にいた。天下の「ヨコハマ」にあるんや、と思うような、やや田舎っぽい道を抜けて、美容室の駐車場にスペーシアが入る。コンビニを一軒、居抜きで作ったような建物だった。
扉は自動で開いた。
 「光理ぃ、久しぶり。彼氏さんとはどう、あ、今はご主人か。年賀状に書いてあったね」店の奥様らしき人が、光理さんの手をとる。「なんだかんだで会うの、サクラの結婚式以来じゃない」
サクラというのが、苗字か下の名前かわからなかったが、二人は仲良しらしい。
「ええほんと、久しぶりだねぇ、ユカ、元気そうでよかったよ、 タイガくん元気?部活、頑張ってる?」
「ええもう、元気を通り越して、ゴムボールみたいに跳ね回ってるわよ。きょうも友達と外国の映画見に行くって、横浜駅に行っちゃった。ああ、お嬢さん、ヘアドネーションね、お名前は」
いきなり自分に焦点が移動してやや驚く。
「若島瑠璃です」少なくとも光理さんの前では、「若島」を名乗った方がいい気がしていた。
「姪っ子さんなのよね、瑠璃さん。よく伸ばしたねぇ、この髪。量も多いし、暑かったでしょ。さ、座って。私はね、光理さんの中学の同級生の北平由佳(きただいらゆか)です」
勧められるがまま、回転式の椅子に腰かける。光理さんは待ち合いソファに座った。
「えーと、ヘアドネーション、一般的には三十一センチからなのね」由佳さんが竹の定規を出す。「最低でもこのくらい切ります、鎖骨の下くらいの長さになるけどいいかしら」
「はい、夏なんで涼しく、清潔感ある感じにお願いします」タオルを首に巻かれ、エプロンを掛けられる。
「うん、ショートのヘアカタログ見る?」
「あ、はい」
厚めの雑誌を渡される。腕を出して受け取り、パラパラとめくる。
「このボブカット、大丈夫そうですか」
「おお、いけるいける。じゃあまず三十一センチ、切りますね」私の髪を、軽く後ろに流してゴ厶で結い、ザクリ、と切り離した。京都の重みが、丸ごと落ちた気がした。
「おおー」由佳さんが切った髪を移動式の台に乗せながら感嘆の声を上げる。「光理、見て、立派立派」
「あら、本当。改めて見るとすごい」
既に背中や首が涼しい。由佳さんが霧吹きで、シュッシュと私の頭を濡らす。
「前髪はどんな長さにします?」
「ああ、ふつう、中学生ってどのくらいですか」
「学校で決まりがなければ、眉下一センチか二センチくらいを頼む子が多いかも。うちの子は男子で野球部だから丸坊主」
「眉下一センチでお願いします、お子さん、中学生ですか」
「そう、二年生。瑠璃さんは?」
「二年生です」
「あら、じゃあ高校入試の内申点がつくようになるのか。大変ね。部活は?」
「入ったこと、ないです」
「あらあ、じゃあ勉強一本の秀才か。光理のご主人と血が繋がってるから、なんの不安もないわね」
「いやいや、一応、きょう勉強してから来とるんですけど、中二の範囲は終わりました」自慢、というものを体験してみたかった。
「あら、すごい!……本なんかも、難しいの読むの」
「『アルジャーノンに花束を』とか」
「あらあらあら、さすが!私、あれ読んだの専門学校入ってからよ。中二で読んでるか、息子に聞かせたいわ。勉強、苦じゃないのね。じゃあ高校は牧嵐かしら」
「はあ。それが、実現するかわからないですが、医学部志望なので、高卒認定をとって、あとは家庭教師さんを呼んで、自分のペースで勉強しようかと。あの、ほんとにただのぼやっとした人生設計で恥ずかしいんですけど」
「中二で具体的に夢への道筋が説明できるのがすごいわよ、なんで医学部目指すの、叔父さんへの憧れ?」
「いや、憧れ……というとそうか。叔父が頭痛持ちなんで、頭痛の専門医になりたくて」
「あら、孝行だこと、ねえ光理、聞いた、今の」
「うん、今朝ちょっとその話、した」
何を言ってもすごいすごいと褒められるそのついで、くらいの感じできれいなボブにしてもらい、お代は光理さんに支払ってもらった。二人にお礼を言って、息子さんによろしくお伝えください、と締めて、由佳さんの美容室をあとにした。
「……医者になりたいこと、外でいうたら恥ずかしいかな、叶わんかもしれんし、いわゆるビッグマウスかな」
「中二だもの。身内に二人も医師がいたら憧れますわよ、大人はわかってるし、瑠璃ちゃんなら医学部突破できるって、私も思ってる」車の外に打つ雨が、少し弱まってきた。風は止んでいた。
 そのまま県道を進み、小さいホームセンターに行って自転車を選んだ。私の背に合うのは、ほとんど小学生向きのポップなデザインの品だった。
「一つだけ、ご希望に沿う感じの物がありました」店員さんが在庫をかき分けて、奥から出してきてくれた。無地のボディは、つや消しの銀の塗装がしてある。「特別な機能はついてないんですが、頑丈ですよ。ちょっと乗ってみます?」
屋外の自転車売り場の軒下に沿って、ゆっくり漕いだ。自転車の練習をした小さな一日に、叔父がいたのを思い出す。
戻りは押して歩いてみた。店員さんと光理さんが、小さい電卓を見ながら話し合っている。
「ああ、瑠璃ちゃん、おかえり。どう、乗り心地」
「悪いとこなんもない」
「じゃあ、これでいい?配送料足して、ヘルメットつけて、この値段で売ってくれるって」
彼女は店員さんから電卓を受け取り、私に見せた。大人用自転車の相場や底値は分からないが、周りの値札と比べ、ヘルメットと配送料を足して考えたら随分安い。
「そうする」私は頷いた。デザインなどシンプルなほうが私は好きだし、そもそも体に合ったものを用意してもらえる、というのが有難いのだ。
 配送の手続きをして、やはり代金を払ってもらい、ホームセンターを出る。雨は止んでいた。曇りの銀色が目に痛い。
来た道を戻る。「歯科は家の近く。今回だけじゃなくて、検診とかあるから」
「ありがとう、色々気を使こてくれて」
「病院関連は棗ちゃんが予約とかしてるから、まあ、若島家を代表して私がお言葉頂戴しますけど。瑠璃ちゃん、自動相談所の人に渡された身分証、いまあるね?」
「うん、マイナンバー、あ、これは西方でええんか、まだ戸籍とかいじってないし、これは通称というわけにいかんからな」財布から写真付きのカードを出して眺める。古いスピード写真機で撮ったから、鏡で見るより人相が悪い。いや、こっちが本物の私で、鏡は幻覚かもしれなかった。
「そうそう、話早い。歯医者さん、痛いことはないと思うけど時間かかるかもよ、それだけごめんな」
「ええよ、治してもらうんやし、お金も棗さんと光理さんが出してくれんねんもん、ごめんなんてことあれへん」
 歯科はマンションのそばだった。審美歯科、小児歯科、一般歯科、と看板が出ている。受付で「戸籍上の本名」を名乗ってマイナンバーカードを出し、まず診察室に通される。ティースプーンくらいの鏡で口の中を調べられ、「レントゲン行きましょうね」と歯科助手のお姉さんに促される。特大機械の前の椅子に腰掛け、綿の塊を前歯で噛んでいるよう指示されて、目を瞑っていれば、レントゲンはおしまい。綿を外して、ゴム手袋をしたお姉さんにあずけ、診察台に座る。レントゲンが目の前のモニターに映し出された。「ここが欠けてる、で、こっちが二本虫歯。結構大変だから、神経から取って銀歯入れますか、付き添いのお姉さんに話してくるね」歯科医師は叔父くらいの年頃と思われる女性だった。
私はされるがまま、治療を受けた。麻酔があったから、痛くなかった。帰りに光理さんがレントゲンのデータを受け取って支払いをし、次は九月の第一土曜にしましょう、と言われ、人生初の「仮歯」というのを口の中に三つ入れて、マンションに帰った。
 「おう、おかえり」叔父がダイニングでゼリーの続きを食べていた。「おお、髪、イケてるやん、素晴らしい」まだあまり生気がない。「ダメージを受けています」と顔に書いてある、といっても過言ではない。
「具合、どう?少しようなった?」
「……かなり治った。んで、瑠璃ちゃんが朝いっとったことを反芻して、あらためてビビっとる」
「はあ、やっぱり常識外れかな」
初対面の由佳さんにまでいってしまったことを悔やむ。
「いや、常識外れではないよ、あと、全然ちゃう話をはじめます。京都の児童相談所におったとき、何回か職員さんに連れられて、俺みたいな男前の医者のとこ行って、京都のお家でどんな風に過ごしてて何があって何をされてどう感じて、どんな時に涙が出るとか、色々しゃべって、しばらく児童相談所で薬飲んだよな、俺みたいに、飯食う前に漢方。粉か錠剤かわからんけど」
「うん」
「効いた?」
「たぶん」
「OK。診断書が届いたんで、弁護士さんに出しますね。光理先生、これ封筒」白地に病院の名前が入った三つ折り封筒が、光理さんに手渡される。
「待って、私、精神病なん?」
「それもどうかなあって調べて作ったのが診断書。裁判で使います」
「不利になるん?」
「なれへんと思うよ」
「やって、虚言症とか疑われて、そう書いてたらどないしよ」
「それはそれで治療がいるから、京都に戻されたりはせんよ。あの男前な、俺の高校の同期やねん。いま頃、芧を診察してる。そっちも診断書ができる。でもなんて書いてても、大丈夫。そっちは大工さんとさよならするための手続きやから。あと、瑠璃ちゃんはトラウマ治療のために、しばらく近くのメンタルクリニックに通う」
「はぁ、つまり、私の虐待に関係する裁判と、大工さんと母の、二人の離婚の支度とがあんねやな、で、私は要治療と」
「はい、そうです、さすが、利口やな」
「棗ちゃん、顔色だいぶよくなった。吐き気とかは?明日から大丈夫そう?」光理さんが尋ねる。
そうだ、叔父の有給はきょうまでだ。明日から、私はひとりでここで過ごす。
「……うん、具合悪なったら半休で帰ってくる。大学始まるまで瑠璃ちゃんと光理先生は仲良しこよしやろ。ええなあ」
すると、私は、ひとりじゃない、ということか。少し驚く。
「うん、大学に相談して、会議とか資料作りとか、全部テレワークにしてもらった。瑠璃ちゃん、明日から昼間は、十八階の私ん家に来て。大人の目、邪魔くさいかもしれないけど、九月の二十三日までは、私の都合がついたから。九月の、今年は二日からか、放課後、十八階に来て、お夕飯まで食べて、ここにはお風呂と睡眠と朝の身支度に帰ってくる」
「……二重生活や」叔父が言う。「まあ要は、朝、俺起こして、一緒に飯食って、次会うのは寝る前か」
「棗ちゃんは自力で起きなさい、立場が逆でしょ」
「……はい」
「わかったらゼリー食べ終わったお皿片して、薬飲んでじっとしとく!」
「うっす、ご馳走様です」
「瑠璃ちゃんの番号変わったこと、児童相談所に言った?」
「あ、忘れた。後で連絡しとく」
「いましないと忘れるにベット」
「押忍」
叔父は器をシンクに出してザラザラと服薬し、アイスルイボスティーを片手に仕事部屋へ入った。私はシンクで手を洗い、ついでにゼリーの器を洗剤で洗って自分の部屋に入った。しばらくしてiPhone14が鳴る。
『西方瑠璃さんの番号でよろしいですか?私、児童相談所の花京院ですが』
「ああ、そうです。花京院さん、お久しぶり」
花京院さんというのは、京都の児童相談所でお世話になった職員だ。若くて、今どき、な感じの、可愛らしい女性。叔父の職業を(知ってはいたけどあらためて)教えてくれたのも彼女だ。
『どう、調子は』
「すっごい恵まれてる。ほんとに、空想みたいって思う」
『よかった。病院の診断書も、そっち行ったって、棗さんからいまほど聞いた』
「あのう、それで、叔母にあたる人が、大工さんからの虐待のことで裁判するっていってるんですが、話、本当ですか?詳しいこと、知ってますか」
『ああ、ほんまよ。関東弁が馴染んできたね、ええことや。弁護士さんの聞き取りは来週か、正直に、誰にも遠慮せんと、ほんまのことしゃべりや』
「はい」
『ほな、裁判は時間かかるかもやけど、京都のほうでも全力で協力するからね、頑張って』

翌週、光理さんに連れられて弁護士事務所へ行った。ついたてに事務机と観葉植物のある、テレビCMで見た個別指導塾の一室みたいなところで、光理さんとは別々にされて、二時間くらい、ヒアリングを受けた。ドラマでしか見たことのない、「弁護士バッジ」の本物をつけたパンツスーツの女性が聞き手だった。
「被告人、訴えられる方、を大工さん、この書面に書いてある氏名で間違いないね。原告、訴える方、として、あなた、意志が固まればここに署名して」
長い長いワープロ打ちの文書だった。大工さんに悪いな、と、一瞬よぎった。でも、署名さえすれば否応なしにコトが出発する。私はボールペンを借り、今まで書いたことないような大きい、濃い字で、「原告」の欄に、「西方瑠璃」としたためた。
 その足で家庭裁判所に向かい、「養子縁組」の申し立てをした。また、長い長い文書に署名をした。どさくさに紛れて誰かの借金の保証人になってないか心配なほど、そこでは、色々な紙に名前を記すことになった。
 また、その翌日は、やはり光理さんに連れられて、メンタルクリニックへ行った。受付でマイナンバーと、京都から届いた、紹介状らしい文書を出した。カウンセリングと診察を受け、処方箋をもらった。私にはジェイゾロフト二十五ミリグラムと、抑肝散加陳皮半夏という漢方薬(朝と夕方の食前、一日に二回飲む)と、「辛いときのとんぷく」としてリスペリドン一ミリグラムが投与されることになった。次は二週間後、土曜日の十時、と予約を入れてその日は帰った。

新しい制服が出来上がり、やがて学校がはじまり、転校生として持て囃されきらぬうちに、大工さんを被告人、私を原告とした裁判がスタートした。証拠の品々として、「男前」精神科医の診断書や、光理さんのスマホの「ボイスレコーダー」の記録や、歯科医院で撮ったレントゲンが提示された。裁判は、法廷に呼ばれるのではなく、オンライン会議に使う(らしい)「zoom」で、私は自室、証人の叔父は書斎、やっぱり証人の光理さんは大学の空き教室、花京院さんは児童相談所の会議室から「出廷」した。裁判は即日結審となり、大工さんが負けた。私には二千万円の慰謝料が支払われることとなった。
そして、日をあらためて、家庭裁判所に呼ばれ、正式に叔父から「叔」の字が取れる、つまり私が戸籍上「若島瑠璃」になる、という裁判をやった。これは児童相談所の協力もあったらしく、三時間くらいで終わった。
さらに日をあらため、「元」母親と大工さんの裁判がはじまった。やはり「男前」精神科医の作った診断書が肝要な品となった。曰く、彼女の知能指数を鑑みて、通常の「大人」としての判断力はなく、担当弁護士が他の弁護士を紹介しそちらが成年後見人となり、話をすすめてゆく、という、やや込み入った展開になった。私は、彼女からも踏まれたりぶたれたり蹴られたりしていたが、それは責任能力の面でややこしく、やれ賠償だ犯罪だと争えなくなり、ただ大工さんが彼女に暴力をふるっていたことを証明する人間として「出廷」した。(そちらは、ざっくり表現すると、まず彼女に責任能力はありませんから後見人をたてますという裁判と、離婚の裁判とにわかれ、その後の彼女は、精神保健福祉手帳を取得しグループホームに住み、福祉作業所に通いながらメンタルクリニックでの通院加療をすすめていくことになった)。
 あとから聞いた話だが、光理さんは、一連の裁判の前に自分の住所をマンションの十八階から二十一階に移していたらしい。そして裁判が済むと、十八階の城を売った。最低限の仕事用品と私物と使いかけの消耗品を持って、「部屋、余ってるでしょ、片付けるから妻の部屋にして」と、「親子三人一つ屋根の下」で暮らすことになった。「お父さん」、「お母さん」とは、無理して呼ばなくていい、気が向いたらでいい、と言われ、こちらとしても照れくさいため、いままで通り「棗さん」、「光理さん」となっている。
 あのとき担当してくれた、光理さんのお友達の弁護士さん曰く、「刑事告訴すれば、もっとお金が取れた」らしいが、私はお金より安心と幸せな暮らしが欲しかったので、そちらに地団駄を踏む感じでもなかった。それを、かかってきた電話で伝えると、「さすが、金持ち喧嘩せず、ってちょっと違うか。まあ、これからはママの友達というわけで、気楽に付き合ってね、よろしく」と言われた。そして、花京院さんは、『抜き打ちで連絡したるからな、おめでとう』と電話口で笑っていた。いまのところ、それが最後だ。棗さんの頭痛持ちと、それに伴う薬ザラザラ飲みは相変わらずだが、雨でも頑張って仕事に行っている。「なんや、裁判終わって娘ができたら、だいぶよくなった、瑠璃ちゃん、福の神や、ありがたや」という。悪天候が、学校が休みになるとか、そんなレベルであまりに酷いときには、午後半休を取ってカロナールにしがみついて和室の戸を閉めてしまうが、私も家にいるので適宜看病ができる。また、苗字と住所が変更になったので、「署名用電子証明書」の関係で、マイナンバーカードが作り直しになった。今度は、桜木町の街の中にある新しい証明写真機で補正サービスをかけて撮影した。顔色がよく写ったし、アホ毛も出ていない。その機械から電子申請し、iPhoneにアプリを入れ、郵送されてくるのを待った。横浜の中学の白シャツを着て撮ったから、レフ板みたいになって、実際より色白に見えた。さて勉強のほうは、転校後初の中間試験でいきなり学年トップの成績をとってしまい、どうしたわけかそれが学年じゅうにばれ、男の子二人から愛の告白を頂いた。どちらのこともよく知らないし、私は恋愛にそもそも疎いので、「一旦、お友達ということで」と、連絡先だけ交換した。勉強ができる、とわかると、クラスの、真面目で優しい子たちがグループに誘ってくれた。お弁当の時間も放課後も寂しくない。その中の、堀越悠那(ほりこしゆうな)ちゃん、という子に誘われて手芸部に入った。いまは秋に向けてスカジャンを縫い、刺繍をしている。神奈川に来たな、と思う。悠那ちゃんの紹介で、同じ手芸部の、特別支援学級に在籍する神崎瑠衣子(かみさきるいこ)ちゃんと知り合い、ある日曜日に三人で映画を観に行った。電動車椅子ユーザーのお連れ様、となると、自然に観やすい席のチケットが買えるとわかった。彼女は冗談好きで社交的で、付き合っていて楽しい。ちなみに、八月三十一日に受けた模試は、「総合偏差値:七十五」と書かれた紙が返ってきた。このままいけば、神奈川県の公立高校なら、どこでも入れる成績らしかった。それを受けて、ある土曜日に、「模試のご褒美」という名目で、かねてから憧れていた横浜中華街で、タピオカミルクティーを買ってもらった。甘くて大変美味しかったが、お腹に溜まって膨れてしまった。お昼に定食を出すお店に入り、そこの名物だというレバニラ炒めを、中国訛りの店の奥様に勧められるがまま頼んだのだが、案外に大盛りなのもあって、ほとんど、棗さんと光理さんに分けながら食べた。二人は怒らず「中学生らしくてよろしい、ご愛嬌だ」と笑っていた。
 普段、光理さんの手作りの、栄養たっぷりの食事を摂っていたら、体重が五キロ増え、やがて毎月、月が巡ってくるようになった。光理さんがお手製のサニタリー用巾着をくれた。さらに、ハンカチが実はポーチになっている、という仕掛けの品を三枚買ってくれた。お腹も人並みに(個人差があるから人並み、というのが微妙な表現だが、私の場合はギリギリ痛み止めのいるかいらないかくらいに)痛むようになった。一度寝間着とシーツを汚したが、光理さんは、「健康な証拠。気をつけてねっていっても、寝てる間は仕方ないから」と、やっぱり叱らずにウタマロ石けんを買って、手洗い洗濯の仕方を教えてくれた。婦人科に行って、子宮と卵巣を調べてもらい異常なしとなり、「もし痛かったら飲んでね」と、「カロナール」の軽いのをもらった。夏が徐々に終わり、秋冬物の服を買いにまた、前回とは違う店舗だがGUに行った。人生ではじめて、ダウンジャケットを手にした。
 「お手伝い賃」という名目で、毎月五千円、恐縮しながらお小遣いを受け取っている。それは被服費や消耗品費や交通費や、iPhoneの通信料とは別で、好きな本やCDを買ったりだとか、友達との交際費だとかに使っていいと言われた。
 それから、すっかり落ち着いた「元」母親と、LINEのメッセージだけはやりとりしてよい、しかし、神奈川に呼んだり京都に会いに行くのはダメ、というふうになり、「最近どう?」と、社交辞令くらいの気持ちで送ってみたら、「周りの人、みんな親切で楽しい」と返信が来た。彼氏はいないが、福祉作業所に気になる人がいるという。「俳優の細田佳央太に似ている」らしいので、そのままiPhoneで調べてみると、大工さんとは全く違う、繊細そうな男前の写真が出てきた。「ずいぶん若いんじゃない」と返信したら、「やっぱりそうやんね、作業所は連絡先教えあっちゃあかんから、せめてと思って、一緒にお昼食べてる」と来た。相手も知能指数が「元」母親と同じくらいで、別のグループホームに住んでいて、「元」母親の世間話をうんうんと頷いて優しく聞いてくれるという。「若いお友達、でいいやないの、恋愛に発展せんでも」と送ったら、親指を立てたスタンプが来た。大工さんは、駅で通りすがりの女の人をロックオンし、ストーカーし、ある夜に乱暴して警察に捕まった。テレビのニュースで知った。上着を被って、車でどこかに運ばれていく映像に、大工さんの本名と、容疑者、という肩書きがついていた。がっしりした体躯と、ちらと見えた身体の刺青から、同姓同名の他人でないことは明白だった。私が関係者よぱわりされて警察に話を聞かれる、ということもなかったし、苗字が違うので、学校で誰か目ざとい人が勘づく、ということもなかった。
棗さんはニュースを見て、「録画するか、これ」と苦笑いした。「不謹慎だからよしなさい」と光理さんにすかさずいさめられ、「ごめん」と小さくなっていた。
 二回目からは、メンタルクリニックにひとりで行った。この二週間で身体に都合の悪いことはなかったかと尋ねられ、ないですというと、ジェイゾロフト二十五ミリグラムが、いきなり倍量の五十ミリグラムに変わった。抑肝散加陳皮半夏の一日二回と、とんぷくのリスペリドン一ミリグラム、は同じだった。次は二週間後ではなく四週間後の土曜日の十時、といわれた。
私は焦った。いきなり倍になるなど、重症にちがいない。そして通院間隔が空いた、ということは、来ては迷惑な患者ということだ。
 帰って、棗さんにそのことを説明すると、
「お医者さんからなにも説明されんでそうなったん?……あの、その薬はね、最初はだいたい最低用量の二十五ミリからはじめて、効果がはっきりしてくる二週間、待つねん。そいで徐々に倍とか濃度を上げて、ちょうどええ塩梅を探す、って感じに使うねん。通院間隔が空いたのは、瑠璃ちゃんの生活の都合とか考えたのと、落ち着いて見えるからちょっと長めの期間にして様子みたろ、ってわけやから、いまはなんも心配せんでええねやで。そいで、瑠璃ちゃんの治療は、だいたい四年くらいかかるて思うて。重症というんやなくて、虐待期間がおおよそ二年あって、完全に復活するには倍の時間要るということ。そこらで転んで身体に擦り傷作ったって、それは一瞬でも治るには二日以上要るやろ」
「本当?」
「本当やで。ま、四週間飲んで、次行って増えたらそれだけの量が必要ってことやし、五十ミリで継続やったらそこがちょうどええってこと。重症とか迷惑やったら、もっと静かな立地にある精神科単科病院とか、大学病院にむけて紹介状を作ります」
「わかった」
四週間後、またカウンセリングと診察を受け、ジェイゾロフト五十ミリグラムと一日二回の抑肝散加陳皮半夏、とんぷくとしてリスペリドン一ミリグラムの処方箋をもらった。なお、二学期の期末試験も学年トップが取れた。クリスマスに三人がかりで、鶏もも肉にローズマリーというハーブを挟んでグリルし、苺をのせたケーキを作った。二人から、サプライズプレゼントでノートPCをもらった。「サンタさんの来られん地域に住んどったみたいやから、今年はサンタさんと三人、割り勘して買うた。大切にしてな」と、棗さんはにこやかにいった。「いまの子は早くからパソコンあった方がいいもんね」と、光理さんも頷いた。棗さんの、絶妙なファンタジーに私は笑った。サンタクロースが実在すると思ってもいいし、思わなくてもいいらしかった。
 お正月は、「母方」から「父方」になった祖母に、横浜まで来てもらった。
「瑠璃、会いたかった」祖母は私を、新横浜駅の改札で抱きしめた。「ほんまはずーっとずーっと心配しとってん。近くにおりながら、なにも出来んで悪かった」と涙ぐんだ。「よかった、棗と光理さんがしっかり動いてくれて」
 マンションに招くと、「あら、立派や、ドラマみたい」と唖然としていた。
私がカードキーで玄関を開錠するのをデジタルカメラで撮っていたほどだ。「やめや、警察か」と棗さんにいさめられて、「だってぇ」と笑った。
リビングに上がり、光理さんが人数分のホットローズヒップティーをいれた。
「あらあ、なに、普段からこんな美味しいの飲んどんの。こっちのお皿のクッキーもええお味やわぁ、帰りにデパートへ寄ってトラックいっぱいくらい買おう、っと」
「あ、クッキーね、私が作った。じいじのお仏壇用のお土産あるから、帰るときそれ持ってね」私が名乗り出ると、また「あらあらまあまあ」と、いたく感心した。祖父は私が二歳のときに鬼籍に入ったため、ぼんやりとしか思い出せない。
「芧と棗、甘やかしも厳しゅうもせんと平等に躾けたのに、どうして違うんかな、性差じゃ説明しきれんな、と思っとった。まさか知能指数がねえ。こんなことになるなんて、親としては複雑なもんやで。瑠璃にも悪いことしたな、ほんまに」お茶を飲みながら泣くので、「いまは幸せやから、ばあばは泣かんでええねん。泣くのは私の白無垢かなんか見てからにして。みんな生きて助かってるんやから、なんも、松の内から泣かないで」と励ました。
「ありがとう、気遣いができて利口なあたりは、芧の影響を受けんかったんや。あの子は自分が世界一いう子やから。あの子のもとにおったら、クッキーなんて美味しゅう焼かれんな」
「まあその世界一病も、一種の護身術かしれんで。芧……さん、ばあばに失礼なことたくさんやっとるよね、私は見ていたで」
祖母はやっぱりハンカチを目にあてた。
 彼女はマンションに一泊し、翌日、「光理さん、二人の面倒見てくれてありがとう、特に瑠璃を、しっかり育ててくれてありがとう、三人仲良くな」と、お年玉を一万円ずつ封筒へ入れたのを配り、新横浜から京都に帰っていった。新幹線を見送ったホームで、
「正月から泣く義母。衝撃やったやろ、光理、お疲れ様」棗さんがフォローした。
 また、冬休みの間に、光理さんの実家にも三人で行った。「いとこ」が、たくさんいた。客間はまるで学童保育のような騒ぎだった。はじめて会う、あたらしい「母方の祖父母」は、「瑠璃ちゃん、美人さんだねえ」といい、すぐに私は物珍しさから、いとこ達にもみくちゃにされた。
高校生から、保育園に入りたての子までいた。
「人数が多いから、ひとりあたり少ないけど」と、祖父がお年玉をくれた。中身は千円。それで充分だし、そもそも金額より気持ちの問題なので、有難く頂戴した。高校生の子がしきりに、「棗さんか光理ちゃんか、もし手が空いてたら課題見て」とせがんでいた。棗さんも光理さんも、群がるちびっ子たちにアスレチック扱いされていた。棗さんは背が高く、力もまあまああって、関西弁が話せるので人気だ。日帰りでマンションまで戻る道中、「棗ちゃん、あんなにわあわあされて、頭痛しなかった?ごめんね、子供らうるさくて」光理さんが案じた。
「平気平気、毎年思うけど、子供にモテモテでえらい楽しいな」
「はあ、温厚な人でよかった。あれだけいると、中にはイタズラ者もいるから」
「危ないことやってたら、そら叱りますけど、大人もみんなばんとしとるし、実際問題、いまんとこ平気やろ。お義兄さん二人とも学校の先生で、奥さんは幼稚園の先生と、学童保育の保育士さんやったっけ」
「そう、よく覚えてるね。大人だけでゆっくりする時間もなかったのに」
「結婚の挨拶に行ったときに聞いたから、誰がなんのお仕事してはるかは分かるよ。それよりきょう、俺の顔が俳優の誰ぞに似てる似てないでもめ出した双子の女の子、おもろかったな。二番目のお義兄さんのとこの、サキちゃんとエミちゃんか。ユイコちゃんの勉強見てやる時間なかったな、あと、マサヒロくんまたでかなってたな、カズキくんも大きいなっとった、『鬼滅の刃ごっこしよ』いうから、ねんねんころりこんころり、お眠りぃ、いうて手の甲見せたったら、上手い!って褒めてくれた。横におった、ダイチくんか、『ミツリさんのお婿さんなんだし、そこは蛇の呼吸じゃない?』いうてたな、鬼滅の刃、あんまわからんわ。外来にくる不登校でアスペルガー持ちの子がちょこちょこ教えてくれる」
「よくそんなぽんぽんと正確に名前が出てくる、すごい、私でも間違える。会う度に成長したり誰かしらお化粧はじめたりして、アップデートされていくのに。瑠璃ちゃん、誰が誰ってわかった?」
「女性陣はわかったよ、一番目の伯父さんの奥さんがコトコさんで、二番目の伯父さんの奥さん、赤ちゃん抱っこしよったのがマリエさん。高校生のお姉ちゃんがユイコちゃん、続いてリナコちゃん、マユコちゃん、双子の、髪を後ろでお団子に結んでたのがサキちゃん、二つ結びがエミちゃん、その妹がミサちゃんで、まだ子供用のA型のお箸でお昼ご飯食べはったのがアカネちゃん」
「大正解、すごい!」光理さんが感心する。「ちょっと百人一首やっただけで、もうわかったの」
「まあ、いまは帰り道やから覚えてられるだけや、男性陣は光理さんのお兄さんのカズヒロさんとタケシさんしかわかれへん」
「いっぺんにそれだけわかれば万々歳よ。ねえ夕飯作るの億劫になってきた、この先にあるガストの唐揚げ弁当、お持ち帰りでいい?」
「ええよ、たしかにあれだけ大騒ぎの中におって、俺ももう台所立たれへんし」

 三人でマンションに帰り、唐揚げ弁当を食べた。食後にズンと、満腹感とは違う腹部の重みを感じたのでお手洗いに入り、アソコにペーパーを当てたら血がついてきた。ショーツは汚れなかった。光理さんにこっそり伝えると、「実家や車の中でならなくてよかったね、子宮が待っててくれたんだ。冬休みだから、ゆっくりしてな」と優しい言葉をかけてもらった。その日はシャワー浴として、早めにベッドに入った。光理さんが「湯たんぽいる?」と聞きにきてくれたので、有難く愛情に甘えた。冬布団は羽根が入っているらしく、軽くて柔らかかった。カバーは、自分で気に入って買った白黒のギンガムチェック三点セットだった。このうちでは、冬は二週間に一度、夏は一週間に一度、カバーを洗濯することになっていた。昨日洗ったばかりだった。私は光理さんにことわり、洗面室からバスタオルを一枚借りて、布団の、臀部がくるあたりに敷いた。端はマットレスに巻き込んで固定する。棗さんは私のそんな様子を見て、「調子悪なったか、明日休みでよかったな」といって、服薬して歯を磨き、「よければこれ」と使い捨ての「貼るカイロ」をくれた。「低温やけどだけ気ぃつけ」とやはり優しかった。
湯たんぽができあがり、私は消灯準備となった。両親の愛を両方活用するとあたたかすぎるので、カイロは開けずに、通学バッグにしまった。日記はまだ続けていた。今年の元旦から、大学ノートではなく、一日五行の三年日記にした。なお、まだ四週間に一度、土曜日の十時に、ジェイゾロフト五十ミリグラムと一日二回の抑肝散加陳皮半夏、とんぷくのリスペリドン一ミリグラムをもらいにメンタルクリニックに通っている。薬効なのか、京都の生活から時間がたったからなのか、あのちょっといいポテトチップスを買って渡した日のように不用意に思い出して泣きたくなったり、辛い思い出を話さずにいられなくなったりすることが減った。たまに、ふとしたきっかけで、急に鼻がツンと痛くなって顔の内側に海、という時間があったり、絶対有り得ないと頭では理解していながら、大工さんが「リベンジ」にくる気がして首筋が冷たくなったりと、色々したが、そういうときにとんぷくを使えばいいのだと回数を重ねるごとにわかってきた。とんぷくは猫にあげる液状のおやつみたいな入れ物に入っていて、切って開けたところに口をつけて飲む。液体で、服用に水がいらないので手軽だ。飲むと少し世界の彩度が落ち、頭がボーッとして、軽い眠気が起きるため、登校前などには向かない。学校の先生にはクリニック通いを話しているが、友達には伝えていない。三年生に進級したら修学旅行で二泊三日、京都と奈良に行くが、滞在中の服薬どうこうの前に京都駅で新幹線を降りると考えただけでとんぷくが飲みたくなるので、両親とも相談した結果、このままだったら修学旅行期間中、普通に登校して保健室で数学や国語の問題集などしていていいと、先生からいわれている。それで出席日数をカウントしてくれるらしい。
 ふと気になって、とんぷくの適応をiPhoneで調べたら、「統合失調症、自閉スペクトラム症による易刺激性」と書いてあった。疾患名を順番に検索した。統合失調症は幻覚や幻聴に苦しめられるというから、私には当てはまらない。では自閉スペクトラム症はどうなのか。客観してあきらかに「変」でも、自分では気づきにくいらしかった。棗さんに聞いてみたところ、「その薬は、まあ、いうたら思い出し悲しみに効く。自閉スペクトラム症の人は思い出し悲しみに苦しむケースが多いから、便宜上そういう適応になっていて、この場合、瑠璃ちゃんが自閉持ちかどうかはあんまそんな関係あれへん。気になるならくわしく検査できるタイプの病院に紹介状書いてもらえるよ、どうする」という。
「関係あれへんねやったらええわ、ありがとう」
「おう」
真実だけが、正義ではない。私は、自分がもし自閉スペクトラム症だとなったら、落ち込むし、自分を、「若島瑠璃」でなく、「女子自閉スペクトラム症患者十四歳A子」というひとつのケースとしか見られなくなる気がした。この問題はぼんやりさせておこう、と思った。
 眠る前など、なんとなく心が苦しい、という場合があり、そういうときにも、とんぷくは役立った。スっと手をひくように、眠りに導いてくれる。生理前や一日目の夜などは眠りにくいから、お世話になっていた。今夜も例外ではなかった。大工さんの怒り顔が「フラッシュバック」し振り払ってもついてくるので、一包開封した。中身をちゅうっとすすると、甘苦い、不思議ないつもの味がした。とんぷくの薬袋をナプキンと同じ、三段タンスのいちばん下にしまう。他の薬は光理さんが管理していたが、とんぷくだけは突発的に必要になることもあるので自分で持っていた。担当医師はいつも、十四包、処方してくれた。通院は四週間に一回だから、二日に一度飲んでいいことになる。湯たんぽで温められた布団に入ると、すぐに粘性のある睡魔がきて、私は電気を消し、あっさり落ちた。
 冬休み最終日は、みぞれが降った。布団のはだけた肩が寒くて、それで起きた。iPhoneを見ると、七時四十五分だった。学校のある日なら、自転車が漕げないきょうは、今すぐ出てもギリギリ間に合うかどうかだ。私は布団をかけ直し、「休み」の幸せをゆるゆると味わった。怠惰だと思ったが、生理で体が重たいから許される気がした。八時ちょうどに、光理さんが起こしにきてくれた。「食パン焼いたけど、固くなるよ。動ける?」
「起きろ」ではないところが優しいな、と思った。京都の「元」実家なら蹴られている。
「顔洗って歯磨いて、漢方飲まないとだから頑張りな」言われるがまま従った。水で抑肝散加陳皮半夏を飲み、四枚切りのバタートーストと温かいルイボスティーを出され、ゆっくり食べた。棗さんがスマホで「日経電子版」を読みながら、ちらちら私を見た。
「なあに?」
「ええ?ちょっと体調不良の娘もまたひとつかわゆし、て思た。もちろん元気がいちばんやけどな」
「いたわってもらえて有難いよ、「元」実家やったら、今頃みぞれの掃除や。……きょうは頭痛は平気なん?」
「……過去の家のことは思わんでよろしい。頭、昨日の夜やや痛かったけど、いまカロナール飲んどるから平気」
「平気なんやったらよかった」
食後にジェイゾロフト五十ミリグラムと軽いカロナールを出され、ポットの浄水をついでもらい両方飲んだ。学校の宿題は、お習字も読書感想文も五教科のドリルもプリントも、手芸部の顧問から課されたお手玉作りも終わっていた。皿とティーカップと服薬に使ったコップをシンクに出し、自室に戻って読書をすることにした。スティーブ・ハミルトンの「解錠師」を読みかけのままあたためていた。私は、本は「積読」せずに、一冊ずつ買って、興味が薄れないうちに開く派だった。身長ほどの本棚が、充実してきている。なんの本を買っても、書店のカバーはつけないが、題名を見た両親から注意されたりすることはなかった。江戸川乱歩、芥川龍之介、太宰治、村上春樹、大江健三郎、夏目漱石、内田百閒、田辺聖子、有吉佐和子に関しては、書店や図書館で手にできる分はすべて読んだ。村上春樹と並んで、よく村上龍が批評されるが、そちらはいまの私には作風が合わず、『空港にて』という短編を一冊読むに留めている。今回の読書感想文は山田詠美の「ぼくは勉強ができない」を題材に書いた。提出物の評価は有難いことに、いつもいちばん上のAAか、二番目によいAだった。これも普段通り真面目に書いたからそのあたりの成績をもらえるだろう。通信簿は体育が四で、あとは五だった。五段階評価だ。
 翌日、降り終わったみぞれがぐちゃぐちゃしている中を、ゴム製の短い長靴と首に無印良品で買ったマフラー、制服の上に学校指定の紺色のダッフルコートで歩いて登校した。クラスの二割くらいが、みぞれに負けて転んで、びしょ濡れで遅刻した。暖房の効いた教室で、全校放送による校長先生の話を聞き、宿題を提出し、親の確認印が入った通信簿を返却した。それから長いホームルームと、教室の掃除をして、手芸部にお手玉を出し、昼前に帰った。棗さんは仕事に出ていて、光理さんがお昼ご飯を支度してくれていた。
「鉄分がとれるように、鉄火丼よ。デザートにプルーン。手を洗って着替えてらっしゃいな」
「ありがとう」
私は洗面室でダッフルコートを脱いで手洗いうがいをし、紺色のかたまりとリュックを抱えて自室に入り、制服一式とコートを別々にハンガーにかけて無香料のファブリーズをした。リュックには明日の荷物を詰めて、机のわきのラックに置いた。白い指定シャツの上から白がかったキャメルのカーディガンを羽織り、下はカーキのチノパンツに履き替えた。
ダイニングに鉄火丼がどおんと乗って待っていた。席についてみてみると、中心にワサビがあって花びらのようにマグロの切り身が盛られている。
「二人きりのお昼だし、ひとりは具合が悪い中頑張って学校行ってるし、ちょっと贅沢しちゃおーって、成城石井までスペーシアで行ってきたの。そのワサビ、練りワサビじゃなくて本物をすったのよ。辛いから少しだけね」
「成城石井って、高いんちゃうの、子供に食べさせて平気?」
光理さんは、ワッハッハと男勝りに笑った。「平気よ平気、めったに行かないし。棗ちゃんにはお土産にスコーン買ってある」
「そういえば、ふだんの買い物、あんまりついて行かんからわかれへんねんけど、どこで食料品とか日用品、買っとるの」
「野菜と果物は、知ってる農家さんから規格外品を格安で買う。ほかは、勤めている大学の近くに大きい業務スーパーとカインズホームがあるから、だいたいそこ。……びっくりした?医師免許持ちの夫婦っていうと、かなり生活水準高いのをイメージするでしょ」
「いや、生家が是枝裕和監督もびっくりのど貧乏やったから、誰がどのくらいの水準で暮らしてるとか想像もされへん」
「いやあ、あなたがこっちに来るとき、緊張してたのよ。えらい大金持ちを想像されてたらどうしようって。家ばっかし、瀟洒で今どきな感じだし。立地もまあまあいいし。棗ちゃんも私も中流家庭の出身だから、家だけは反動で見栄張った」
「はあ、こっちもえらい大金持ちやったら振る舞いに困るな思うて、はじめてこのマンション見たとき足ガクガクいっとった。駅近やし、中は広いし、家電は新しいし、なんやそこらじゅうええ匂いするし、アイスクリームメーカーとかあるし。でもなんていうか、生活そのものは忙しいからそこだけ便利に楽しく、って感じで余計なお金を余計なとこに使ってるんとちゃうし、資産はどっちかといえば頭脳と通帳の中……で持つお家なんやな、って段々わかった」
光理さんは、またワッハッハと笑った。
「頭脳?」
「教養ってこと」
「そうか、若島家は賢いお金持ちか」
「そう。それに気がついてから、避妊の失敗で生まれたはずの私が、えらいお嬢様になった、シンデレラや、思うて青なった。あんときモタモタせんと、えいやっと勇気出して見送りの児童相談所の人の手を離して、ひとりでひかり号に乗ってよかったわ」
「そっかそっか、私、煙草吸うし、蓮っ葉なお母さんだと思うけど、悔やんでない?」
「煙草いうても、軽いお上品のん、換気扇の下かベランダで、日に一、二本やろ。そんなん煙草しはるうちに入らんで。生家なんか、前も後ろもわかれへんほどもくもくしとった。ルイボスティーとかローズヒップティーいれてくれはるお母さんが、蓮っ葉って、蓮っ葉が聞いて笑いよんで。昔々はマクドナルドいうたらえらいご馳走やったけど、光理さんの作ったご飯、ひとくち食べたらそんな価値観、足生やしてどっか行った」
「ありがとう。それからうち、マック行かないもんね。私も棗ちゃんも、あの独特のチーズが苦手で。ハンバーガーならモスバーガーが好きかな」
「モスバーガー行ったことあれへん」
「じゃあ、次の土曜日か、はじめてならお持ち帰りがいいかな」
「ええのん?高いんとちがうの」
「まあちょっとリッチだけど、社会勉強として、試しに」
 夜、帰ってきた棗さんに光理さんが昼のやり取りを話した。恥ずかしかったが、光理さんが嬉しそうにするから止めなかった。棗さんも笑って、
「賢い金持ち、名誉やな」といった。
 その週のうちに、採点された冬休みの宿題が次々に返ってきた。どれもAAかAの判が捺してあった。棗さんに習ったお習字だけ、県のコンクールに行くというので一か月くらい返らず、戻ってきたときには銀のリボンがついていた。月初めの学年集会で、学年主任の岩みたいにごつい体育の先生から、みんなの前で賞状をもらった。
 それから、はじめてのモスバーガーは、案外にソースがこぼれやすく、口の周りが汚れたが、美味しかった。「はじめてならお持ち帰りがいい」という光理さんの言葉は、当たっていた。ソースのために、外でかじりつくには難易度が高い。
 そうして、愛情という名の色々なバックアップに寄りかかりながら、四月を迎え、三年に進級した。歯は二年生のうちに仮歯が取れ、三か所、銀歯が入った。どれも奥歯なので、よく見ないとわからない。春休みのうちに、五教科の参考書とドリルを買いにまた横浜に行って、勝手に範囲の全てを予習した。四月三日の、十五歳の誕生日(サプライズで手作りの苺デコレーションホールケーキを見せられるまで忘れていた)には、プレゼントとして図書カード一万円分と、テレワークの大人が使うようなデスクチェアをもらった。十五歳になっても相変わらず、ジェイゾロフト五十ミリグラムと、一日二回の抑肝散加陳皮半夏と、とんぷくのリスペリドンを四週間に一度、土曜日の午前中にもらいに、メンタルクリニックに行っていた。診察で、「月が巡ってくるときに、心が辛いとか頭やお腹が痛いとか、ありませんか」と聞かれた。「心のしんどさにはとんぷく薬を使って、お腹の痛みにはドラッグストアで買った痛み止めを飲んでます、頭は痛くないです」婦人科でもらった軽いカロナールを使い切ってからそうしていた。担当の女性医師(棗さんくらいの歳に見えた)は、頷いて、「ではロキソニンもうちで出しましょうか、きっとドラッグストアで買うより安いし、調剤薬局で受け取ってしまえば手間もない」といって、本当に処方箋に、「ロキソプロフェンナトリウム(アメル)60ミリグラム 五回分」と記載してくれた。調剤薬局で気になって、お会計の際に、「この痛み止め、一錠いくらですか」と聞いてみた。「九円八銭です」とにこやかに返された。確かに、ざっと計算しても、普段使っている薬より安価だった。必要な分だけ処方されることを考えても、割安でお得だ。
 学校でときどき行なわれる三者面談には、光理さんが来たり、棗さんが来たりした。私は毎回、「あまり活発ではないですが、成績もよいし生活態度も真面目だし、よい子です」と先生から言われた。また同じクラスになった悠那ちゃんの推薦で、一学期の学級委員に選ばれた。学級委員の会議に出ると、そこからまた最高責任者にと指名された。アニメやドラマでよく聞く、「学級委員長」になったのだ。学年集会で体育館の狭い舞台に立って、みんなの前で話したりしないといけない仕事なので、それだけは骨が折れた。修学旅行は五月だったが、まだ京都に行く勇気はわかなかった。「ちょっと家の都合で行かれない」と悠那ちゃんや瑠衣子ちゃんに伝えると、「じゃあ手芸部三年生で割り勘して、いいもの買ってくる」と、みんながいってくれた。獅噛文長斑錦(西陣織の模様の一つ)の定期入れだった。唖然とした。一級品だ。
「悪くてもらわれん」というと、
「瑠璃ちゃんにって買ったんだから、悪いと思ったらなお、もらって。ガンガン使って」と異口同音に、三年生十人がいった。「うちの学年の学級委員長にはこの風格がふさわしい」と、瑠衣子ちゃんが自信たっぷりにいった。
「ありがとう」高そうな箱入りのそれを、リュックにしまった。家に帰って、光理さんに見せながら話すと、「あらよかったね、お礼にお菓子でも焼いて、ラッピングして持っていく?こっそりだったら先生にもばれないし」というので、頷いて、日曜日に、チョコレート味とバター味が市松模様になっているクッキーを五十枚焼いて、ひとり分を五枚とし、百円ショップで選んだ可愛いラッピングを掛け、月曜日の放課後に配った。次、水曜日の集まりで、「美味しかったよ」とみんなから嬉しい評価をもらった。瑠璃ちゃん、手芸も上手いしお菓子も得意なの、器用なのね、と、口々にいわれた。
 三年一学期の中間テストは、はじめて、全教科満点の一位だった。二位の人と、二点差だった。
 やがて棗さんの誕生日が来た。サプライズで、紅茶のシフォンケーキを五号サイズで焼き生クリームを塗り苺を飾り、プレゼントはかねてから少しずつ作っていた、手縫いの文庫用ブックカバーとした。光理さんは、「いまの、長いこと使ってるから」と、新型のアップルウォッチを用意していた。仕事から帰ってきた棗さんは、泣きそうな勢いで喜んだ。
「もう漫画みたいや、健康に娘がおって妻がおって、手作りのケーキとあったかいプレゼント」と、しみじみしていた。
その夜、「元」母親に「誕生日おめでとう」とLINEをした。「覚えていてくれはったの、それだけで嬉しい」と、いかにも、お母さん、っぽい属性の返信がきたので苦笑いした。
 五月の末の土曜日、メンタルクリニックから帰る。薬に変更はなかった。そして、棗さんが総合格闘技のジムに行っている間に、光理さんが「知り合いの農家さんから規格外品を安く買った」といって、中型のポリ袋いっぱい青梅を持ってきた。「百円ショップに空き瓶買いに行こう、この季節が今年も来たか」という。スペーシアで大きな百円ショップに行き、帰りに業務スーパーで角砂糖と焼酎のミニボトルを買った。
「うちにお酒やる人、おったん」
「これは瓶の消毒に使うのよ」
帰ってきれいな新聞紙の上に洗って拭いた梅を並べ、二人でポリ手袋をして、竹串で梅のおへそをほじくり、角砂糖と交互になるように、消毒した瓶三本に入れた。
「三ヶ月か、そのあたりでシロップができます。水とか炭酸で割ったら美味しいよ、梅仕事なんていいかたもするね」
「はじめてやった。このうち、お祝いのケーキから、梅ジュースまで、なんでも手作りすんねやな、丁寧な暮らし、いうのんや」
「ありがとう、そういうの付き合ってて苦じゃなければいいけど」
「苦やないよ。楽しい。……味噌もなんや、手作り感ある、使い捨てと違うタッパーに入っとるし」
「ああ、それは十五夜味噌、といってね、大豆と米麹こねて簡単に作れるから今度一緒にやろうか」
「どうしてそう、なんでもできるん?」
「料理やら裁縫はだいたい実家の母に仕込まれた。きょうだいでたったひとりの女だし、色々教えたかったみたい。分からないことがあれば電話してる、それでも足りなかったらグーグルに頼る」
 そのとき、棗さんが帰宅した。
「あらおかえり、どう調子は、身体も、格闘技も、両方」光理さんが手袋を外しながらいう。
「うん、両方絶好調。……なんや、梅の仕込みか、そんな季節が来たか。今年から瑠璃ちゃんおって、百人力」
「いやいや」私は照れる。
「瑠璃ちゃん器用だし、飲み込みいいし、手早いし、夕方までかかるはずがまだお昼すぎだよ。二人ともお腹すいたでしょ、ピザトーストでも焼こうかね。梅と一緒に、早めのピーマン買ったから」
昼食作りを手伝った。焼き上げて食べると、チーズがどこまでも伸びる。
「格闘技の調子はどない?」
「あ、せやったら、食べ終わったら見せるわ、ええ?男の上半身裸、イヤな気せえへん?」
「うん」
というわけで、光理さんが食べ終わった三人分の皿を洗っている間に、洗面室でTシャツと下着を脱いで見せてもらった。肌色こそ白いが、胸筋は厚いし腹筋はいわゆるシックスパックで、腕の筋肉も健康的に盛り上がっていた。背が高いので迫力がある。
「ありがとう、すごいね」私がいうと、棗さんは服を着ながら、「でかい患者が病棟や外来で暴力沙汰起こしたら、だいたい俺にお呼びがかかる。……押さえきれんかったことはまだない、顔にボロボロのスニーカーで蹴り入れられたことは何回かあるけど。医師いうたらえらいホワイトカラーや思うやろ、精神科の男手は肉体労働も兼務しとる。それを計算したらわりと薄給や」
「すごいなあ、自分の身体使って、患者さんの安全を守ってんねや、スーパーマンや」
「照れるな。俺の勤め先は単科病院やから入院施設が広めにとってあって、看護士も、男の子は大学相撲部出身とか、元自衛官とかそんなんようさんおるよ。その人らと一緒になって、でかい患者を危険がないように押さえて、落ち着かせてる」
 服で肉体を覆えば、いまどきの細マッチョで清潔感のあるミドルだ。
「平気やった?二人っきりで、男が裸、怖なかった?」しきりに気にしてくれる。
「うん、私が嫌なのはなあ、身長あってもなくても骨太で、お肉ぷよぷよタイプかな。棗さんみたいな身体は、そういうだらしない体型の人を一撃で吹っ飛ばしてくれはりそうで安心する」
「ああ、そういうわけか。ならトレーニング頑張ろ」
二人で洗面室を出ると、光理さんが、
「どう、棗ちゃんの身体、絞れてたでしょ」と苦笑いして冷えたカモミールティーを三人分、いれてくれた。
「お茶ありがとう、棗さんの身体な、美術室にあるデッサンの石像みたいやった。服着てるとあんまわからんけど、あれなら大工さんなんか、一発パンチで隣の星まで飛ぶ。あるいは、背もうんと高いことやし、見ただけで逃げるかも」
聞いて、二人は笑った。そして、
「せやで、光理先生もこのマンションの二階についとるジムで、勤めが休みの平日、えらい鍛えてんねやで、最強の防護係が二人おるから、大工さんなんてトンカチ持ってても怖ないよ」棗さんが涙を拭きながらいった。
 夜、浴槽を洗い湯を張った。「いちばん風呂、どうぞ」と光理さんがいうので、そうした。身体と頭をよく洗い、流し、湯につかる。京都で刻まれた身体じゅうの傷跡は、消えたり、色褪せて残ったりしていた。ガラッと、二つ折りの扉が開いて、ビックリして見ると、素っ裸の光理さんが立っていた。
「お邪魔します」
「あ、はあ、ええ、どうぞ」
 彼女がシャワーを出し、少し熱めに調整して、クレンジングと洗顔をし、頭を洗って体を洗って、髪をゴムでまとめ、私と同じ湯につかった。
裸体は綺麗だった。
胸は私と同じくらいのボリューム感で、その下の腹筋が棗さんと同じシックスパックだった。腿もふくらはぎも腕も、服を着ても見えるところは、健康、のシンボルみたいに、適度に鍛えられていた。臀部は元々大きいのをやはりトレーニングで削いだらしく、がっしり、しかしヘルシーな仕上がりになっていた。
「高校のときかな、ボディビルやってる女友達ができて、その影響でシェイプアップしはじめたの。大学に入ってから、アマチュアの大会に出たりもしたよ。それから、医師はなんだかんだ体力がいるから、鍛えて損はないかなって思った。どう、気が向けば、こんなバキバキとまで行かなくてもちょっと鍛えてみない。自転車通学で、足まわり、ふくらはぎとか腿なんか、かっこよくなってきたし」
「やる、やりたい。医師になるんに要るんやったらなおやりたい」
 次の日から、光理さんに案内されてマンション二階のスポーツジムへ行った。マンションにジムがあるとはすごい。受付で家のカードキーを見せ、スポーツウェアと専用の靴、タオルを借りる。なんと、二十四時間循環型の室内プールとシャワー室まであるという。
 「棗ちゃんとここで知り合ったのよ、えらい重量のベンチプレス、真っ赤になって挙げてる人がいたから思わず『大丈夫ですか、無理しないでください』って声かけちゃった。したら、『無理かもしれんので、医者呼んどいてください』なんていうわけ。笑っちゃった。その翌週かな、横浜の泉区っていう端っこの、児童養護施設にね、検診係で行ったとき、なんか後ろからずーっと同じジープが来るなあって思ってたの。途中で勤め先に寄って検診道具を持って施設に行ったらまさにそのジープが、駐車場にあるの。『えっ?』てなって、色んな検査室の小窓を通りすがりにちょっと見たら、心理のお部屋だったかな、あの人が座って、子供を診察してるの、優しそうだった。それから、またジムで会って、『この間、児童養護施設の検診でお見かけしました、お医者さんなんですね、私も内科の医師です』なんて話をして、同じトレーニングメニューをこなしながら雑談して、変わった人だな、と思うところもあったけど、それはほっこりするような変わり方で、害はないし、『二十一階にお住まいなんですか、そしたら今度の街の花火大会、ベランダで見せてもらっていいですか』って言って、それが初デート。男女のムードにはならないで、ただ花火見て、お夕飯ごちそうになって、お話しして終わり。それも仕事とか趣味の話。結構好感度高かったな。お酒もなかったし。それから自然に遊びに出る仲になって、頭痛持ちでお酒とエナジードリンクが飲めない、というのを知って。焦ってたわけじゃないけどまわりの友達もどんどん結婚して出産するし、『棗ちゃん、もし、将来の結婚相手が、不妊やったらどうする、結婚やめる?』と聞いたら、『無精子症の僕が色々言えんからな』と言われて、そんなの知らなかったから、早く言ってよ、となりながら、お互い籍入れるに問題はないねって、一昨年の十二月、婚姻届を区役所でもらって、備え付けのボールペンで住所と本籍と氏名を書いて、判捺して、証人欄、うちは実家の母に、棗ちゃんは職場のお友達に書いてもらって、指輪は横浜のヨンドシーで買って、実にあっさり結婚した。あっさりの割に記念日はクリスマスイブです」
光理さんの話を聞きながら、ランニングマシンで小走りしていたら、いつの間にか七キロになっていた。
「結婚記念日、娘になったからにはいちばんに気にするとこやのに、聞かんかってごめん。プレゼントもなんにもしてない、もらうばっかりで」汗だくのまま、小さくなって謝る。まったく、私は、どこまで図々しくて、「主人公」気取りなんだろう。
「三人、力をあわせてご馳走作ったじゃん、そういう思い出がプレゼントよ。昨年はバタバタして、二人の結婚がどうのってお話する時間もなかったから。今年から、そうねえ、手編みの手袋とかお願いしちゃおうかな、可愛いの」からりと呑気にいう。私の得意分野から選んでくれたことが有難い。そのことを告げると、
「あら、だって得意な人に作って頂いたほうが上質なものができるし」と、実にさっぱりしていた。「自分がうれしい、相手もうれしい、人間関係の基本であり理想よ」
十キロ小走りし、二人で並んでシャワーを浴びた。真正面の鏡に裸体を映す。昨年はあばらに沿ってでこぼこしていた身体が、健康的ななめらかさをたたえていた。あとでウエストを測ろう、と思った。
 着替えて二十一階に帰ると、和室の扉が閉じて、張り紙がしてあった。
「一時から寝ています、二時半に声を掛けてください」
時計を見ると二時五十分だ。
「わー大変、棗さん起きて!」扉をどんどんと叩く。
「開けちゃっていいのよ、棗ちゃん、起きて!」光理さんが和室に入り、棗さんの頭をわしわし撫でた。
「……ん、はい、……起きる」
「三時になりますよ!……大丈夫かい、頭痛と吐き気と血圧は?」
「……、大丈夫……いま起きます、よいしょ」
棗さんは三時から、ウェブ会議に出るという。日曜日に会議とは珍しいと思ったが、どうも精神科関連の本を出版するにあたり臨床医(研究者ではなく現場で実際に働く医師)のひとりとして意見を述べるらしい。部屋着の上からGUのカーディガンを羽織ると、アイスカモミールティーを片手に書斎へ入った。
 残された女性陣は、ココア味のプロテインを豆乳で割って飲んだ。こういうお昼もありだ。
「明日だるくて自転車漕がれんかったらどないしよ」なにせ十キロ走ったのだ。
「湿布貼ってガッツでいけ、若いの。痛めてはないよね?」
「うん、それは平気」
「よかった。五キロと十キロ、迷ってね、でも瑠璃ちゃんなら絶対十キロやりたがるなあって、勝手に、操作教えるついでにセットした」
「……厳しい教官ですわ」私は苦笑いした。
「若いうちからバリバリ身体動かすと、得なこと色々あるよ、無理は禁物だけどね」
「はいっ、わかりました教官」
 二時間後、そろそろ夕餉に鮭の西京焼きでもしようか、という段になって、棗さんが書斎から出てきた。
「お疲れ様」
「押忍、お疲れ様」
「なんで大事な会議の日に、私たちがいつ帰ってくるかわかんないのに寝た?調子悪い?」光理さんが尋ねる。
「いや、小雨が降って頭痛して、会議の緊張もあって頭ワーッなって、ロキソニン一錠とレキソタンの、五ミリのほうを二錠飲んでしまって、ぐらっと眠くなってそのまま書き置きだけした」
「ワーッ、ならないでください」
「すんません」
「カロナールやなくてロキソニンなのは何で?熱ある?」
「頭、痛すぎて、ひょっとしたら微熱くらいあるんか思うて。なんや重だるいし」
「測った?」
「書斎で測った。六度一分。いまはだるくないし、なんともない」
 二人のやり取りを聞いていると、頭痛(や生理痛)に効く基本の薬がカロナール、抗炎症作用がある鎮痛剤がロキソニン、レキソタンというのは緊張をほぐしたり不安感を取り除く薬で、飲みすぎると眠くなる、ということか。棗さんに念のため確認する。「中学生の理解としては百点」と拍手が返ってきた。嬉しかったので、ついでに、「ロキソニンは十五歳以上が飲めるんやろ」といってみる。「メンタルクリニックの先生が、私にロキソニンくれるときカルテの生年月日、黙って二回確かめてたから。それ以下の歳の人にはデータがないから処方せんし、従ってお腹に赤ちゃんがおる人にも出されへん」
「正解。名医なりますわ」
「鎮痛剤は、頭痛によう使うからいまからPCやiPhone使こてちょっとだけ勉強してんねん。きょうは二人の話から、レキソタンの勉強もできた。頭痛の専門医になる方法も調べとるし、今年の高卒認定のパンフも、参考に郵便で頼んでん」
「おっ、準備万端やな」

 翌日、予想通り足が筋肉痛で生まれたての小鹿のようにガクガク震えたが、修行の一環であって自分は侍であると文字通り奮い立ち、自転車を漕いでいつもと同じように学校に行った。三年の六月ともなると、春の爽やかな気分は通り過ぎて行き、教室に進路の話が充満する。私の属するグループの子らは、真面目で成績がいいから、公立だと、県内いちばんの偏差値を誇る「横浜牧嵐(よこはまもくらん)高校」か、二番手の「鯨谷(げいや)高校」か、三番目の「百目木(どうめき)高校」を志す子が多かった。私立では、「横浜第一学園大学附属(よこはまだいいちがくえんだいがくふぞく)高校」や「染谷学院(そめやがくいん)高校」等、やはり偏差値六十後半以上が人気だった。
「瑠璃ちゃんは、やっぱり牧嵐でしょ、専願で」ひとりの子がいって、キャアと周囲が色めきたった。
「履歴書に横浜牧嵐って書けたら、めっちゃかっこいいね」
「瑠璃ちゃんなら首席で入れるよね」
「……あんな、みんな、他言無用な。将来の夢があんねん。私は医師になる。中学出たらすぐ高卒認定とって家庭教師さんについてもろて三年勉強して、医学部受けます」
宣言した。これで、引き返せない。
「あら、お揃いで牧嵐の制服着た瑠璃ちゃんと原宿かどこかで遊びたいな、なんて思ってたのに」私が現れるまで学年総合トップだった、中野百合香(なかのゆりか)ちゃんがいった。彼女は私が試験で何点をとっても、一喜一憂を外の世界に表すことなく黙々と努力し、一年のときから生徒会に入り、三年になったら生徒会長になり、とにかく成績のことで私にくらい嫌味のひとつでもいって不思議はないのに親切で朗らかだった。
 七月はじめの三者面談には光理さんが来てくれた。私はあの筋肉痛の日から、運動は全身が使えて負荷も少ない、水泳をメインにやると決めていた。学校の授業で習ったクロール以外はできなかったが、最近、二の腕が引き締まってきたところだった。
「第一志望:高卒認定試験」とだけ書いた私の進路希望調査票を見て、担任は、「本気?親御さんのほうでも、間違いないですか」といった。
「はい、県立横浜医科大学に将来、行きます。そこの附属高校も考えたんですが、いま時点だと偏差値が少し足りないので、三年かけて勉強しようと」
 私はあれからも模試があるたびに申し込んでいた。どんなに気合いを入れても参考書や問題集を変えても、偏差値は七十五から動かなかった。県立横浜医科大学附属高校の偏差値は七十七だった。実は、いまこれ以上やると身体をこわしかねない、というほど勉強した。しかし、たった二の壁が突破できずにいた。
担任は、ふうん、と。「親御さんと話し合って、双方納得しているならいいでしょう」といって、生活態度の話やら家での様子について、に切り替えた。光理さんが話す。「とにかく、家では勉強ばっかりやってますので、お菓子作りや梅仕事や運動に誘って、リフレッシュできるように対応してます」
「そうでしたか。その……心のほう、調子はいかがですか」
 何故か言いにくそうにした。喘息や食物アレルギーや脳性麻痺など、持病がある人全員に、こういう尋ねかたをするのだろうか。
私が答える。「継続して、四週間に一回通院し、カウンセリングを受けて、ジェイゾロフト五十ミリと、抑肝散加陳皮半夏、とんぷくとしてリスペリドン一ミリを処方されています。鎮痛剤としてロキソニンが追加になりましたが、薬の副作用やストレスでどこか痛むわけではなく、ただの月の巡りの痛み止めです」
あまりにはっきりいったので、担任は面食らった様子だった。「えー、今回の学期は、学級委員長もしっかり務めていますし、学業成績は素晴らしいし、一学期の期末試験は全教科満点、部活の仲間ともトラブルはないし、問題ないですね、お母様、ご足労有難うございました」
その日は部活がなかったので、ふたり、自転車を縦列にして走って帰った。二十一階のドアをカードキーで開け、上がって、手を洗った。夏制服のベストとネクタイとスカートを自室で脱いで整え、白い半袖シャツはそのまま着て、八分丈のカーゴパンツに履き替えた。シンクでやはり手洗いをし冷たい白茶と、おやつに桃の剥いて切ったのを出してくれた光理さんが「瑠璃ちゃん、ちょっと前までああいう場で、モジモジした感じだったけど、きょうは立派にしゃべれてたね、すごいじゃん」といった。
「学級委員長として、否が応でもみんなの前でしゃべらなしゃあないから、度胸がついたかな」
「それにしてもかっこよかったわ。先生がびっくりしてたあの顔、見た?それに瑠璃ちゃんくらいの歳頃で、自分の治療がどんなのか、あんなにきちんと言える子って多くないのよ。神奈川弁、っていうのかしら、それも上手になった」
「えー、ほんま?嬉しい」
「そうだ、夏休みに入ったら、引越し一年のパーティしようか」
「わあ、楽しみ」
 七月の半ば、光理さんが誕生日を迎える。私と棗さんはコソコソ相談しあった。まず、ケーキは、クックパッドで調べた簡単ガトーショコラ。そして、問題のプレゼントについては、「光理な、香りものが好きやねん、でも香水は医学部の非常勤講師やと、職業柄つけられん。ええ匂いの石鹸にするか」と棗さんがいい、一割が私、九割が棗さんのお支払いであらかじめ現金を徴収し、(それでも棗さんは『割り勘』と呼んだ)、横浜駅の「CHANEL」にて、かの有名な「N°5」の石鹸と、彼女の顔色がより美しく見える色調の口紅を手にした。
 当日、彼女は夏休み明けに使う講義の資料を探しに、朝の七時から電車に乗って東京は永田町の国立国会図書館に行った。棗さん曰く、「国会図書館は普通の図書館と違うて、資料の持ち出しができひん。閲覧にもIDとパスワードがいる。情報を持ち出したいときは職員さんに頼んでコピーしてもらうほかにない。えらい時間かかるで。きっと疲れて帰ってくる。光理先生の好きなビーフストロガノフとか煮て、用意しとくか」とのこと。
三手先が読める男、若島棗、である。彼が印刷したレシピを見ながらガトーショコラを支度している間に、自分のiPhoneでビーフストロガノフの内容を調べ、代金を預かり、下の「まいばすけっと」まで材料を買いに行った。サワークリーム以外はあった。
帰って、それを伝えると、
「サワークリーム……ってなんやっけ、まあ、正体の知れんものに手を出してワァーとなっても穏やかやないので、それはナシで」
と、あっさり解決した。
「いま、冷蔵庫で手作りジンジャーエール冷やしとる。シャンパンの代わり」
 なんと。ジンジャーエールまで自家製なのか。
 ガトーショコラが丸く、五号サイズで出来上がって冷蔵庫に入り、お米が炊けてビーフストロガノフが煮えて、調理器具を分担して洗ったところでちょうど、本日の主役が帰ってきた。外は暗い。
「ああ、よいしょ、資料重たい、ただいま」
私は玄関に行って、部屋までの資料運びを手伝った。
「お疲れ様、きょうはなんの日でしょう」思わず、フフ、と笑みがこぼれた。「まあまあ、手を洗っておかけください」
光理さんは、言われるがままにした。
棗さんが、ダイニングにケーキとビーフストロガノフご飯、シャンパン代わりのジンジャーエールを並べている。空いた椅子にCHANELの紙袋が座っていた。
光理さんは、それらを見て、スマホを開き日付を確かめキャアと歓声を上げた。
お祝いは、実に円滑にすすんだ。彼女はビーフストロガノフを美味しい美味しいとモリモリ食べ、「実は忙しすぎてお昼抜きだったの」といった。「国会図書館、上にレストランついとるやろ、混んでたん?」棗さんが返すと、「きょうから夏休みでしょ、読書好きの家族連れでいっぱいよ」という。そうか、きょうから夏休みだった。確かに昨日学校で、通信簿をもらった。すべて五と書いてあったから、食後に公開しよう、と思った。
ジンジャーエールを飲み、ビーフストロガノフの空き皿を下げ、ガトーショコラの写真を撮って、果物ナイフで切り分ける。「全部、お手製?」光理さんが聞いたから、我々は頷いた。「ジンジャーエールも、棗さんが仕込んでん」
「あら、スーパーで売ってるのよりシナモンが香って美味しいから、どこの高級店で買ってきたのかと思った」
「俺も光理先生も、酒飲まれへんからちょっと頑張ってみた。いまは検索するとなんでも出んねんな」
 光理さんは、ケーキも元気よく食べた。「濃厚で美味しい、近くのケーキ屋さんで買ったやつよりすごい、身内加算を引いてもプロ並みにいいお味。お台所も片付いてるし、何もかも完璧、百二十点」とやたら褒める。やがて三人とも満腹になり、ケーキの残りは冷蔵庫へ行き、「CHANEL」を開封、という運びになった。まず口紅を開けてもらった。
「光理さん、色んなお化粧しはるけど、その色合い持ってへんやろ。私が選ばせてもらった」
「あら、これね、自分へのご褒美にいつ買おうか、なんて悩んでたやつよ、ありがとう。こっちの包みはいい匂い、石鹸?」
「おう、職業柄香水はあかんし、ヘアミストもどうかないうんで、石鹸にした。気に入ってくれたら嬉しい」
「……ありがとう、棗ちゃんも瑠璃ちゃんも、一年無事に健康に居てくれただけで万々歳なのに、こんなに豊かに祝ってまでくれて」
「私たちも光理さんが、お仕事しながら、家庭の運営までやってくれて、病気もせえへんで、嬉しいよ」
「ありがとうね、本当……」目が潤んでいる。「瑠璃ちゃん、この一年、よそとちがって習い事もさせてあげられなかったし、忙しいからって家族で遊園地や動物園にも行かれなかったけど、でもへそ曲げたりしないで、ちゃんと育ってくれてありがとうね」
「それは俺からもや、瑠璃ちゃんありがとう」
一気に感謝の方向が、こちらを向いて焦る。
「新婚さんで、まだまだ『二人の暮らし』が楽しいであろうときに、わき目もふらず親権とって、普通に、なんやったらやや贅沢に、手と目と時間使こて、育ててくれてほんまに有難いで。せや、通信簿出さな」
私は自室に引っ込んだ。リュックから通信簿を出して確かめる。オール、五。
「じゃーん、どう、見て」
「あら、上から下まで、全部、五」
「ええっ、ついにやったか、おめでとう」
「お……父さんでも、おか、お母さんでも、見たら認印、捺して。お風呂洗ってくる」
はじめて、「お父さん」、「お母さん」と呼んだ。照れくさいやら、これでいいのかやら、浴槽を濡らして洗剤をつけ、こすりながら、顔から火が出そうだった。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集