第19話 抗えぬ血脈
さて、新府城に到着した真田昌幸が、まだ施工途中の本丸御殿に駆け込めば、広間の上段の間に座った武田勝頼は家臣たちと評議の真っ最中。ところが皆、思いもよらない事態に驚いているのか呆れているのか、深刻な表情をしているだけで発言する者もなく、普段は勇ましい者も大人しく、智に優れた者も頭が回らない様子で、勝頼でさえも言葉を失くして一人呆然と佇んでいた。
「一条信龍殿と穴山梅雪殿はどこにおる?」
昌幸は大事な協議の時は必ず在席する二人の姿が見えないのを怪しんで聞くと、譜代家老の小山田信茂が言いにくそうに、
「一条殿はどうも家康と通じておるようじゃ。梅雪も梅雪で敵に寝返ったわぃ。おまけに典厩は出たまま帰って来ん・・・」
「梅雪殿は新府城建設の言い出しっぺではないか!」
昌幸は呆れ返り、小山田信茂は続けて勝頼に言う。
「話していても埒が明きません。今は敵を防ぐ手立てを講じなければ」
とは言え家臣たちは高遠城へ向かってしまい、徳川・北条対策にも駿河方面の丸子城や田中城へ兵を派遣しており、甲府に残る勢力といえば二万程度、とても織田の大軍に対抗できる数でない。それでも勝頼は、
「それだけあれば十分だ。武田の強さを見せつけ、勝負を決しようではないか!」
と勇むが、そこへ水をさすように、
「お待ちください。二万というのは昨日までの話。今は一族、臣下に至るまで俄かに心を変えて逃げてしまい、実質は旗本が三千ばかりかと───誠、是非もない・・・」
と言ったのは長坂長閑である。勝頼は驚いて、
「そのような寡兵で、どうやって敵の大軍を防ごうというのだ・・・。いざという時のためにこの新甲府の城に入って籠城しようと思ったのに、いまだ普請が間に合わぬではここに居るわけにもゆかぬ・・・」
と途方に暮れた。長閑は続けて、
「この上は信州一国を織田へ渡して和睦し、勝頼様はこれより甲州一国を保ってお家の存続を乞うしかありませぬ。そうなされ」
と、まるで他人事のように進言すると、
「お前は織田と和睦が調ったと申したではないか!」
と言ったきり、勝頼はもう言葉を発しなかった。
水を打った静けさとはこの事である。嵐が去った後とでも言おうか、雪が降り積もるのをじっと見つめるように、野鳥の観察をする時みたいに咳をする事さえ憚れて、その静寂は隣に座す人の呼吸も気になる程に、広間にいる者たちの心臓の鼓動さえ聞こえるのではと思われた。もしその音が本当に聞こえたとしたら、勝頼のそれと誰かのそれとのテンポが重なった時である───再び長閑が、
「殿、ご決断を!」
と言いかけたのを、
「黙れ、長坂!」
と、迅雷の如く遮ったのは勝頼の嫡子信勝であった。かつて信玄が「武田家の家督は信勝が十六歳になったら譲る」と遺言した正にその年に当たるその勇姿は、悲しき時の符号ではあるが勝頼にも増して凛々しくあり、悲嘆に暮れた広間の視線を瞬く間に集めると、
「お前は巧言を使って忠臣を誹り、退け、跡部と心を合わせて穴山を腰抜けにし、武田家十九代が相続する躑躅ケ崎の舘を破却させて新甲府の城を築かせた上に、その普請もいまだ終わらずして、この期に及んでまだ父上を愚将にしようとするか! すべてお前の計らいによって武田家の運が尽きようとしているのだぞ!
一族一門に見限られた上は、おめおめ織田に降参などしてなるものか! 仮に降参したとて織田が受け入れる筈がなかろう。お前は二度と口を開くな!」
と言い捨て、次に勝頼に面を向けて、
「父上! 名もなき者の手に掛かって討ち死にするより、いま早々に御自害いたしましょう!」
と激しく諫言申した。
その場にいる者たちは驚くとともに、心ある者は両目を潤ませ袖を濡らした。
昌幸は暫く目を閉じて何も言わずにいたが、やがて信勝に向かい、
「さすがは名将信玄公の孫君で御座る! 潔い今の仰せ、天晴れ、天晴れ!」
と声を挙げて続けた。
「某もこうなると知りながら、これまでも度々御諫言申し上げてきましたが、聞き入れられず今更となり誠に是非もない・・・。
しかしながら、それに付きまして某、愚案を申し上げたく存じます。死ぬは易く生くるは難し───御自害は何時でもできましょう。どうか今一度だけ、御運定めをしてもよろしかろう? 上州吾妻の岩櫃城近くに、勝頼様にお住まいいただく居館を拵えております。そこへ今すぐにでも御移動下さい。あそこなら沼田に近く、比類なき要害にして堅固な場所でございます。まあ、城というわけにはいきませぬが、今はそこに御籠城いただくのが上策。そこで時を待ち、いずれ再び武田の名を天下に轟かせましょうぞ!」
と、「必ず勝算がある!」といったふうに自信満々と言い放った。すると、これを聞いた勝頼は忽ち双眸に光を取り戻し、
「岩櫃か・・・。なるほど、あそこならば真田が申すとおりだ。わかった、そうしよう。これより吾妻に退き、最後の運試しをしようではないか」
と即断したのである。昌幸は静かに微笑んで、
「しからば某、これより急ぎ立ち返り、兵糧の用意をして万事整えますので、勝頼様は急ぎ御用意を済ませ、直ちにここをご出立下さりませ!」
と言うや、慌ただしく信濃へ帰って行った。
ところが彼の姿が見えなくなると、またもや長坂長閑が口を開いて横槍を入れる。
「真田が大層な事を申したわ。殿、信じてはなりませぬぞ。吾妻はつい先日、海野兄弟による内乱が起こったばかり。けっして安全な場所とは言えませぬ。そこに籠城するなら郡内の岩殿城の方がよほど安心です───のぅ? 小山田殿」
とぼやいた。小山田信茂は岩殿城の城主であり、彼もまた、かつて信玄が〝もし籠城するなら駿河の久能か、甲州郡内の岩殿か、信濃の吾妻か〟と言ったのを知っていた。そのため、日ごろから籠城のための準備を怠らなかったのである。そして今こそお役に立つ時とばかりに、
「勝頼様、長閑の申すとおりでございます。岩殿は既に籠城の準備ができております。どうぞこちらにご移動下さい!」
と申し出たのである。
そこでまた勝頼の心が揺らぐ───。
破滅への道ゆきを辿ってみると、そこには必ず長の一念の迷いがあるものだ。勝頼には小山田の言葉が真実に聞こえた。
「うむ・・・ならば、そう致そう・・・」
彼は昌幸の後姿を思い浮かべながらそう言った。
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