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【寄稿】高瀬由嗣|メドゥーサの謎〜現象の記述における主観と客観〜

 本記事では、2020年4月に発売された『心理アセスメントの理論と実践ーーテスト・観察・面接の基礎から治療的活用まで』(現在2刷目)刊行を記念して公開された、高瀬由嗣先生による寄稿を特別公開します。

 昨日3月13日より、マスクの着用が個人の判断に委ねられることとなりましたが、本記事が初公開された2020年4月は新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言の発令され、本格的にコロナ禍へ入ったばかり。
 のちに「世間が異様な雰囲気に包まれたなかで執筆したことをはっきりと覚えています」と著者が語る通り、そのときの雰囲気が何となく文章に表れているようにも読めます。ぜひ、そうした空気感も味わいながら、お読みいただけると幸いです。

※本記事は『学術通信 No.121』(2020年夏)掲載の内容を転載したものです。

メドゥーサの謎〜現象の記述における主観と客観〜

 メドゥーサの面相を見た者はたちまち石になる。

呉茂一『ギリシア神話』新潮社、1979年

 学生の頃の話であるが、ギリシア神話に登場するこの怪物の話がやけに気になり、私はその世にも恐ろしい面相やら、それを見て石になる場面やらを心の中で反芻はんすうしたことがある。いろいろと想像をめぐらすうちに、そんな事はあるわけがないとふと思い至った。もちろん神話なのだから、現実にはありえないような事が起ころうが何の問題もない。問題はそこではなく、メドゥーサの顔を見た者がたちまち石に変わるのだとしたら、一体誰がどうやってその事実を知り得たのか、という点にあった。以来、神話の本質とは何の関係もない瑣末さまつな疑問が、しばらく頭から離れなくなった。  
 
 友人たちにこの疑問を呈すると、判で押したように同じ答えが返ってきた。 「メドゥーサの顔を見た人が石になる場面をたまたま見ていた第三者がいたのであろうーー」
 この説明は一見もっともらしい。ところが、よく考えてみるとやっぱりおかしい。石になった理由を、どうしてそうも簡単にメドゥーサの「顔を見た」ことに帰することができるのか。ひょっとしたらメドゥーサの発する音声や匂いに身体が反応したとか、あるいはこの怪物が保有する病原体に感染したとか、それらしい理由は他にもいろいろと考えられるではないか。しかし、当事者が石になってしまった以上、何が真実であるのか確かめようがないのである。否、それだけではない。そもそもこの説明は矛盾をはらんでいる。「石になる場面を、たまたま見ていた第三者」自身も何らかの形でメドゥーサの顔を見ていなければ、先の説明は成立し得ない。
 では、この第三者も石になったのか。石になったとしたら一体誰がこの「事実」を伝えたのか。  

 あれこれ考えていると、「メドゥーサの面相を見た者はたちまち石になる」といった底知れぬ破壊力をもつ言説は、いかなる方法を用いようとも決して直接には確かめようのないことを述べたものであるという結論に自然に行きつく。つまり、そこに表現されたのは客観的な事実ではなく、メドゥーサは恐ろしい力を持つに違いないという解釈や願望といった主観なのである。  
 さて、ずいぶん理屈っぽい話になった。 しかし、このメドゥーサの話は、実は私がいま生業としている臨床心理学の仕事と決して無縁ではない。科学としての臨床心理学は、さまざまな現象を客観的に記述することを求める。そして、私たちはその要請に応えようと懸命に努力する。しかし、私たちが行っている記述は、本当に客観的であるといえるのか。あるいは、「客観的」と思い込んでいるだけで、そこには誤謬ごびゅうがあるのではないか。そんなことを思わずにはいられないのである。  

 臨床心理学を学ぶ大学院生たちに、ときどき私は様々な現象を記した文章を提示して、それが客観的な記述か、それとも主観的かを問うてみることがある。例えば「あの人は悲しみを抱えている」という文章を示すと、クラス全員が「主観的」であると答える。確かに、この文章は多分に記述者の解釈によるものであり、その意味で「主観的」と答えるのは正しい。では、「あの人は泣いている」 はどうか。これは学生によって評価が分かれる。「泣く」の意味を「涙腺から大量の涙液が分泌されて、それが瞼の外にあふれ出ること」に限定するならば、客観的といえなくもない。しかし、一般に「泣く」という行為は、「精神的・肉体的な刺激に堪えず、声を出して涙を流す」(広辞苑)と定義される。これに従うならば、外側から見ただけでは断定できないことを言い表したこの文章は、観察者の主観に拠っていることになる。それなら「あの人は恋人の姿を見ていた」はどうであろう。この記述に関しては多くの学生が「客観的」と答える。しかし、メドゥーサの例と同じく、この手の記述は疑ってかからねばならない。「あの人」は本当に恋人の姿を見ていたのか。もしかしたら、恋人の背後の何かに目を奪われていたのではないか。こういったことは「あの人」に直接確かめてみなければ分からないのである。ところが実際に聞いてみると、当の本人ですら自分が何を 見ていたのか判然としないときもある。そうなると真相は藪の中である。  

 このように様々な文章を例に取りながら検討を進めていくと、直接見ることのできない心理状態の記述はもちろんのこと、客観的に映る行動の記述にも、主観的な解釈が多分に含まれていることに気づかされる。どうやら私たちは、人間にまつわる様々な現象を主観的に捉えざるを得ないようである。それゆえに、心理現象を純粋に客観的に記述し、説明し、予測しようとするのは実に難しい所作である。私たちは、このことをしっかりと認識する必要がある。  
 それでも私たちは客観性を獲得しなければならない。なぜならば個々の現象を、より深くより適切に理解するためには、客観的な基準に照らすのがもっとも確実な方法だからである。では、客観性とは何であろう。
 
 相互主観性の考え方に立てば、個々の主観(例えば個々人による観察)が集積され、そこに一致が見出されるならば、それは「客観性」となる。冒頭のメドゥーサを例に取ると、その顔を直に見たであろう人々の間に、石に変わるという現象が共通に生じることが確認されるならば、「メドゥーサの面相を見た者はたちまち石になる」という記述は客観性を持つことになる。事例の数が多ければ多いほど、しかも「面相を見た」ことの状況証拠と「石になる」という現象との間の関係性が強ければ強いほど、上の記述の確からしさは増していくことになる。このような地道な努力を重ねることにより、ようやく現象の記述における客観性が担保される。そして、この客観性を獲得することが、人間理解のための強力な武器となる。  

 あくまでも神話であって、現実にはあり得ないことを承知のうえ、最後にメドゥーサの話に戻る。仮に、「メドゥーサの顔を見ると石になる」という記述が客観性を持つならば、石にならずにメドゥーサ の首をねたというペルセウスの特異性がより鮮明に浮かび上がってこよう。いかなる証拠をかき集めても、この破壊的な言説に客観性が見出せないならば、何の罪もなく命を絶たれたというメドゥーサの無念さが心から理解できよう。

高瀬由嗣(たかせ・ゆうじ)
明治大学文学部心理社会学科教授。博士(心理学)。
編著書に『臨床心理学の実践:アセスメント・支援・研究』(金子書房、2013年)『心理アセスメントの理論と実践:テスト・観察・面接の基礎から治療的活用まで』(岩崎学術出版社、2020年)、訳書に『インクブロット:誰も知らなかったロールシャッハとロールシャッハの見なかったロールシャッハ・テスト』(誠信書房、2022年)がある。

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