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戦禍に社会科学はなにができるか|エカテリーナ・シュリマン/奈倉有里訳・解説

2022年2月24日、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まりました。
多くの人にとって到底信じがたい、許しがたい非現実的な出来事であり、不意打ちのように襲いかかったこの人為的災厄を前に、人々は恐怖と混乱と麻痺状態に陥りました。そのようななかでロシアの政治・社会学者エカテリーナ・シュリマンは、社会科学の知見にもとづいて状況を的確に説明し、市民の不安をやわらげ、戦争にあらがう手段を個々人に行動可能な範囲で示してくれたのでした。その声にどれだけの人が救われたかわかりません。
戦争から1年が経つにあたって、『世界』臨時増刊「ウクライナ侵略戦争」(2022年4月)に掲載されたシュリマンの講演集「戦禍に社会科学はなにができるか」を再掲します。ここで述べられていることはすべて、いまなお読むに値するものです。
戦争の原因を特定の国民性に帰したり、指導者個人の思惑や歴史観を推量したり、武器の名称を並べ立てて戦局の予測をしたりするのではなく、「責任」と「法」の観点から、戦争に立ち向かうための知識を一般の人々のために伝える──そのような政治学者がいることは、学問への信頼を回復させるものでもあるでしょう。

シュリマンは2022年4月にロシア政府により「外国エージェント」認定され、現在はドイツで在外研究をおこないながら、番組「スタトゥス」を中心に積極的に発言をつづけています
最新の発言をまとめたものとして、『世界』2023年3月号に「戦争の受益者は誰か 「学芸の共和国」はどこか」(奈倉有里訳)が掲載されています。また、ジュニア新書『10代が考えるウクライナ戦争』(2023年2月)では、奈倉有里氏が「ウクライナ情勢をどう見るか――学問と文化の視点から」を寄せ、シュリマンの言葉を引用しながら「戦争をさせない社会構造」をつくるために何ができるか、学生とともに考えています。あわせてお読みいただければ幸いです。
ヘッダー画像はウクライナ出身の画家アルヒープ・クインジによる作品「夜の放牧」です。(編集部)

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著者近影 (c) Ekaterina Schulmann


エカテリーナ・シュリマンは1978年生まれの政治・社会学者で、ロシアの数少ない独立系放送局「モスクワのこだま」で政治コメンテーターを務めてきました。「モスクワのこだま」が活動停止に追い込まれたあとも各地の団体やオンラインで講演をおこない、苦難のなかを生きる人々に、専門知識にもとづく情報を発信し続けています。今回、連絡をとることすら困難な状況のなかで、快く翻訳掲載の許可をくださったシュリマン氏に深く感謝します。(訳者──奈倉有里) 

講演1 戦争と社会学──これからを生きる人々へ

開戦翌日の2月25日にはもともと、高校生に向けて「社会科学とその効用──知識社会学はなんの役に立つか」という特別講義が予定されていました。シュリマンはその枠をある程度は守りながらも、ロシア軍によるウクライナ侵攻という衝撃的な現実に戸惑う若者のために言葉を探しながら、次のように話しました。

1 責任と罪

いま私たちは、少なくとも21世紀の大部分をかけて取り組んでいかなくてはならない大きな問題に直面しています。未来の歴史家はおそらく、ソ連崩壊から現在までの30年を、いま起きていること〔ウクライナ侵攻〕に向かう道として分析するようになるでしょう。今日は「責任と罪」と「私たちにできること」についてお話しします。

まず「責任と罪」についてです。いま、「なぜ私たちはこのことに気づけなかったのか」という後悔の声、「この状況を生み出してしまった人すべてに罪がある」という罪悪感の声がたいへん多くあがっています。

このような状況に対し社会科学にはなにができるでしょうか。社会科学は、人間が他者にとる行動について学んでいます。政治学や政治史を学ぶと、人間とは残忍で凶暴なものだという前提に立つには充分な量の資料があることがわかるでしょう。

これに対し社会科学は、アリストテレスの言う「人間とは社会的な存在」であり「政治的な生き物」であるという定義にもとづいて、その形態がいかに多様でありうるかを分析しています。人間を、性善説でも性悪説でもなく、環境に順応する生き物と認識して分析するのが社会学です。人間には、常に自らの行動を正当化し、自らが属するものを肯定する傾向があります。人間は優れた行動をとることもあれば凶悪な行為にでることもあり、いずれの場合もそこには社会的規範が影響しています。突発的に生じる偏執狂や聖人といった現象を除けば、大多数の人々はこの社会的規範に順応することで生き延びようとしています。

これは一見あまり高尚ではない見方に思えるかもしれませんが、よくよく考えてみれば、普段私たちが見解の違う人々と穏和な人間関係を築いていけているのは、人間が環境に順応する生き物だからということがわかるでしょう。しかしこの「順応」という特性が、ときには凶悪な方向に向かうことがあります。では、「凶悪な方向」について留意していただいたところで、話を戻しましょう。

この、社会に順応するという人間の特性には、強者と弱者の階層という概念がつきまといます。人には、自らが属する社会に参加したいという民主主義的な欲求があります。他方で、社会にはロベルト・ミヒェルス〔1876~1936、ドイツの社会学者〕が「寡頭制の鉄則」と呼んだ、権力が少数の人間に集中するという現象が起こります。この二つが、どこの社会においてもどの歴史的局面においても、さまざまな割合で、さまざまな力関係のもとに存在しています。人間は常に強者と弱者の階層のなかで生きています。フィリップ・ジンバルドー〔1933~、アメリカの心理学者〕によるスタンフォード監獄実験〔1971年〕は、現代では主に人間の加虐性や野蛮さを示す文脈で例にあがります。あのような実験は現代の学術界ではもちろん許されません。もっとも、現実にはいままさに、生きた人間が大量に実験にかけられているようなものですが……。

さて、スタンフォード監獄実験の研究結果はほぼ捏造でしたが、あの実験からは別のことがわかります──人間は基本的に、言われたことを言われるがままにおこなうということです。当時の現場では、それが「学術研究のため」であるという前提が、被験者たちを言いなりにさせました。

私たちは無論、それぞれに責任を背負って社会を生きています。けれどもいま起きていることの罪をこの社会で生きる「すべての人」にまで広げてしまえば、その決定に至るまでにほんとうに罪のあった人々への追及を諦めることにもつながりかねません。「私たちみんなが悪かった、みんなに罪がある」というのは、道徳的には理解のできる表明です。けれども基本的なことを理解していなければなりません──権限が大きい人ほど責任は重く、権限が小さい人ほど責任は軽いのです。

世間では一般的に「自由には責任がつきものだ」「無責任な自由はよくない」などと言われることがありますね。私が言いたいのはむしろ逆で──「自由なき責任はありえない」ということです。人が社会に出て、なにかのポストについて仕事を任されたら、そこには責任があります。けれども選択の余地のない行為を強いられた場合、そこに責任は生じません。もちろん、その行為が明らかに犯罪である場合、「自らの命を危険に晒しても犯罪的な命令は遂行しない」という選択は残されていますが、同時に人が自らの命を守ろうとするのは当然の権利です。

罪の意識は無気力に、責任感は行動につながります。私たちが各自で「私には罪がある」と認識するのはかまいません。それを言葉にしてもいいでしょう。けれどもあなたが抱える「罪悪感」は、自分の負っている「責任」以上に膨れあがってしまってはいけません。そうなるとなにもできなくなってしまう。自分が負っているはずの「責任」すら、逆に見えなくなってしまうからです。まずは自分がいかなる「責任」を負っているのかを明確に認識することが、なにもできない状態から脱するための第一歩です。

その「責任」の範囲になにが入ってなにが入らないのか、私たちになにができてなにができないのか、わかりづらくなるときがあります。それでも常に自分の「責任」を負える部分があることを意識し、決して諦めないでください。「なにもかも終わりだ」「戦争が始まってしまった」「もう遅い」といった言葉に身を任せないでください。

2 プロパガンダが蔓延する社会にどう生きるか

次に、私たちができる行動についてお話ししましょう。ガブリエル・アーモンド〔1911~2002、ウクライナ系移民、アメリカの政治学者〕は、社会における団体の利益と債権について分析しています。

私たちがなにか社会に対して声明を出そうとするとします。著名人は単独で「公開書簡」という形の声明を出すこともありますが、大抵の場合は、複数の人間が署名し団体として声明を出しますね。もちろんより多くの人が声明に署名することも大事ですが、もっとも良い形、効果の期待できる形は、たとえば「演劇関係者同盟」とか「切手収集家協会」とか、そういう名前のもとに署名を提出することです。そういう名前は、政治的観点からひとつの団体とみなされるものだからです。たとえそれが小規模な団体で反響が少なくても、なにかを組織できる団体が存在していることが大事なのです。

だからこそ現在の政府は、市民の組織したあらゆる独立団体をことごとく敵視しているのです。これまで、すべての団体は、国家の下部組織に組み込まれるか、さもなくば潰されるということがなされてきました。

みなさんはなぜ巨大な国家にとって、ごく少人数の趣味のグループまでもが、そんな「敵視」に値するのだと思いますか。それはまずひとつは、人間が、小さくてもどこかの団体に属することで、その人たちと仲間意識や連帯感を持ち、自分は間違っていないという自己肯定感を得られる存在だからです。もうひとつは、団体の行動力は人間一人とは比べ物にもならないくらい大きいからです。もし声をあげたいと思っても、「街に出れば警官に逮捕されるかもしれない、どうしよう」と考えている状態のとき、普通の人は街に出ません。でも、もし団体がそれを組織し、役割を決めて互いを守り合うと決めれば安心感が生まれます。

ところが国家の下部組織以外の独立した団体がまったく存在しない空間にひとりぼっちでいると、人は常に不安でよりどころがなく、いつ周囲からつまはじきにされるかと怯えるようになります。強権国家にとって、これほど都合のいいことはありません。

そうした社会では、プロパガンダが容易に浸透します。プロパガンダはまず仮の「多数派」を装い、いまどういう考えが支持されているかを演じてみせようとします。はじめはどんなに荒唐無稽に思える主張でも、それがすでに支配的思想であり、社会に浸透しているかのように見せかけるのです。その後、不安でよりどころのない人々が沈黙しているうちに、偽りの「多数派」を鵜呑みにした主張をする人々が出てきます。すると強権国家は強く人々に同調を求めるようになります。

ほとんどの人は、自分がその目で見たわけでもなく、専門的に学んだわけでもなく、直接接点もないことについて、揺るぎない意見を持ってなどいません。それ自体はまったく正常なことです。たとえば自分の暮らす国の法律についてですら、条文の細かい点まで熟知し、常にそれを意識して行動しているという人は少数です。実際には法律は私たちの生活のあらゆる局面で必要になるものですが、だからといってすべての人に知識と確固たる考えを持てと強要することはできません。

人は周りの人にとって「いい人」であろうとします。とりわけ法律だとか国際政治だとか、普段はほとんどの人が興味を持たず、理解もできないような問題については、周りが「いい」と認めている考えに従おうとします。

あるいは予想もしていなかった恐ろしいことが起きたときも、人は早く心を落ち着けたくて、なるべく短くて耳あたりがよくわかりやすい、標語のような言葉を手に入れたがります。

あなたたちにとって、それは愚かな行為のように思えるかもしれません。けれども社会科学を学ぶことで、それらの行為をしている身近な人々を断罪しなくともよいということがわかるのです。

これはたいへん重要な、大切なことです。私たちは、ひとたび「自分に罪がある」という強い罪悪感に悩まされると、その後は「あの人も間違っている」「この人もおかしい」という思考に陥りがちです。けれども社会学の基礎を理解することで、自分に対する行き過ぎた罪悪感も、身近な他者に対する断罪も避けることができます。それが、私たちが共になにかをするうえでの基盤になっていくのです。

それは決して、許されざる者を許せということではありません。では、本当に責任を追及しなくてはいけない相手はどこにいるのでしょうか。すでに述べたとおり、大きな権力、声、責任を負っている人にあるのです。

私はいま、みなさんの前でマイクを持って話しています。もし私がいまみなさんをけしかけるようなことを言い、それを聞いたみなさんが、その影響で互いに言い争いをはじめ、とっくみあいの喧嘩が起きたとします。校長先生が様子を見にきて私に、「さっきまではおとなしかったのに、突然とんでもない不良ぶりをお見せしてすみません」と、あなたたちに責任があるかのように謝ったとします。しかしそれは間違いです。この場合、演説をした私にその責任があるのです。責任は影響を受ける側ではなく、与える側にあるのです。

エリザベート・ノエレ=ノイマン〔1916~2010、ドイツの政治学者〕に「沈黙の螺旋」という法則があります。マスメディアなどが事実とは異なる統計を示し続けると、そこで示された「多数派」の声は次第に大きくなり、「少数派」は沈黙を余儀なくされていき、その螺旋がどんどん膨張し、「多数派」ばかりになっていくという法則です。この螺旋への導入を徹底的にやろうとするのがプロパガンダです。

いまがどんなに絶望的な状況でも、私たちがこれまでの20年間に、読んだもの、書いてきたこと、世界のさまざまな知識を得てきたことがすべて無駄だったとは、決して思わないでください。いかに閉ざされたように見えようとも、世界はすでにつながっています。世界に開かれた学問が本領を発揮するときは必ずきます。

人は、高校や大学を卒業したあと、カール・マンハイム〔1893~1947、ハンガリーの社会学者〕のいう「新たな交流」が始まり、新たな社会構造のなかでの社会的規範の概念ができてきます。みなさんはそのなかで新しい人間関係を築いていくでしょう。さらに世の中に出ると、上に言われた通りに動かなければならない局面や、いま社会で起きていることを肯定し、そこに同調して「これでいいんだ」と言いたくなる場面も出てくるでしょう。でもそれだけは違います。これでいいわけがありません。そのことを、なにも知らない人に説得するのは困難です。あなたたちには少なくともここで学んだ経験があり、これからも学び続けることができます。それは今後とても大切な支えになります。学問を精神の基盤とする人々は、最も強い人々です。それはものを考えるうえで大切な、社会的指針となります。テレビから流れる甘言や「多数派」の偽装に惑わされないための思考を持つことができます。今後いかなる「新たな交流」のなかに投げ込まれようとも、その指針を忘れず、それを基準に生きてください。

(2月25日、ノーヴァヤ・モスクワ、寄宿学校レトヴォにて)


講演2 過去、現在、未来──市民からの質問に答えて

2月27日には、オンラインで視聴者からの質問をまとめ、いま起きている戦争の原因、ロシアはこれからどうなるのか、いまなにができるかの三点について、社会構造の問題点、プロパガンダへの傾倒、身近な人への断罪を避ける術を中心に語りました。

1 なぜこんなことになったのか

第一に、「なぜこんなことになったのか」という質問について。この問いへの回答となるべき詳細は、歴史家、政治学や社会学の研究者、その他のあらゆる分野の学者によって、今後数十年をかけて分析されていくはずのことで、現在の研究が状況を判断するには情報が少なすぎます。ただ、私たちはそれでも分析をし、理解をしたいと思うものです。

ここでひとつ問題があります。なにか大きな出来事が起こると、それまでの経緯がなにもかもその出来事に向かうまでの兆候であり、例外などなかったかのような気持ちに囚われがちです。けれども、もし仮に別の大きな出来事が起きていたとしても、私たちは同じように必然であると思いたがるのです。なぜこんな話をするかというと、「すべては必然である」という考えかたは、ほかの似たような定理と同じで、責任の追及をあいまいにしてしまうからです。歴史に学ぶことを大きく通り越して、盲目な運命論になる危険があるからです。それは学問ではありません。

20世紀に起きた悲劇の多く──大量虐殺や侵略戦争やジェノサイドについて、そこに行き着くまでの思想の流れを問題にする研究というものがあります。「虐殺に至る思想の流れが社会にあり、その帰結として残虐行為が起きたのだ」という考えかたに基づいて、それを解き明かそうとする試みです。そういった研究は世界に数多くあり、一見もっともらしく見えますが、常に「思想」に「責任」を結びつけてしまう危険をはらんでいます。

そうではなく、思想を問わず「強大な権力を握った人間が、手にした武器を暴発させた」という考えかたをするとき、「責任」は思想ではなく、武器を暴発させた権力にあることになります。そして、権力が暴走するとき、そこに必ずある問題は、その社会構造において権力に対する抑制が不充分である、ブレーキが効かないということです。

国家の権力が一点に集中している状態は、きわめて危険です。仮にその状態で一定の期間、平穏に過ごせたとしても(実際には問題が起きていたわけですが、もしそれがあまり見えなかったとしても)、中央集権にもメリットがあるなどと考えてはいけません。ひとつの権力の一存でなにかを決定できてしまうということの恐ろしさを、忘れてはいけません。

これからの世界に求められている課題は、それぞれの国が自らの指導者の権限をいかに制約するかということです。責任のありかを見極めることを諦めないでください。権力の言い訳に耳を貸さないでください──「こうするしかなかったんだ」「相手が悪いんだ」「俺は悪くない」というのは、家庭内暴力の加害者の典型的な言い訳です。

これが第一の質問への答えです。「なぜ〔戦争が〕起きたのか」の答えは、もはや止めるべきときに権力者を止めることができない社会構造になっていたということです。

2 これからどうなるのか

第二に、「これからどうなるのか」という質問です。いま、一般の人々のプロパガンダへの傾倒が懸念されています。現在ロシアの人々は情報をほぼ完全に遮断され、なにを指針にして生きていけばいいのかわからない、人為的に作りだされた非常に不安定な状況に置かれています。こういうときに最も手近な安心材料は、「多数」と宣伝されている動きに同調してしまうことです。

しかし、たとえばクリミア併合で政府の支持率があがったときに重要だったのは、ロシアの人々に国際法などの知識が浸透していないのをいいことに、「死者はいない」「クリミアの人々の願望を叶えた」「現地の生活水準が上がった」といった方便が(あくまでも方便であるにせよ)まかりとおる状況を作りだせていたことでした。

ところが現在の政府は、怨念と復讐心に満ちた言葉や「こうするしかなかった」といった言葉ばかりを繰り返しています。つまり、現状が悲惨だと認識したうえで、「こっちが悪いんじゃない、あっちが悪いんだ」という幼稚な主張をしている。これはおかしなことです。もしほんとうに、「特殊軍事作戦が国民の大半に支持されている」のだとしたら、そんな言い訳をする必要はないはずです。

これまでのプロパガンダは用意周到に、異口同音に同じことを言えるようなフォーマットを用意してきました。同時にクリミアで花束を持ってロシア人を歓迎する少女だとか、子猫を可愛がる特殊部隊員だとか、そういった現状を美化できる要素を必ず盛り込んでいました。しかしいまの政府にあるのは復讐心に満ちた支離滅裂な口実だけです。この点が、これまで政府がやってきたことと決定的に違います。体面を取り繕う余裕を失くしているということです。

これは、これからなにが起こるのかを考えるうえで非常に重要です。いま、反戦運動の規模はさほど大きくないように見えるかもしれません。しかし市民は非常に大きなリスクがあるのをわかっていながら反戦運動を続けています。それも首都だけではなく、地方の町や村にも広がっています。文化・芸術・教育団体からも数多くの反戦声明が発表されました。

なかでも注目すべきは慈善・福祉団体など非営利法人の声明です。慈善団体の人々がそうした意識を持っているのは自然なことに思えるかもしれません。しかし国からの助成金がなくなってしまえば被支援者、後ろ盾のない社会的弱者を守れなくなってしまう非営利法人にとって、これはたいへんな決断です。また、独立系報道機関の活動を停止せざるをえなかった人々が個々人で発している動画などには前代未聞の注目が集まっています。少なくとも人々はこの状況を少しでも理解しようと努めている段階にきています。この動きを完全に封じ込めることは不可能でしょう。

3 なにができるか

第三に、「なにができるか」という質問です。まずこういった状況下では身内や身近な人々とのあいだで些細なことが論争や喧嘩に発展し、取り返しのつかない溝が発生しやすいということを自覚し、決してその方向に動かないようにしてください。市民が分裂し孤立してしまってはなにもできません。

それから、職場や家庭での仕事をできるだけ投げ出さないようにしてください。仕事や任務をこなし続けることには、精神衛生を保つ役割もあります。

それでも、もっとなにかしなくてはと焦ったり、逆になにもできない無力感から呆然としたり、あるいは精神を病んでしまうことも起こりがちです。

余力があるなら、いちばんいい方法は、困っている人を助けることです。孤児院などのボランティアに参加するなどの行為により、主体性の実感を取り戻すことができます。恐怖が蔓延する社会では個人の人格が消えてしまったような感覚に陥りやすくなり、自分がなにかの犠牲者のような気がして、そうするとよけいに恐怖心がつのります。誰かを助けることはその悪循環を断つためにたいへん効果的で、自分がすべきことも見えてきやすくなります。

もし私たちがこの危機を乗り越えられたら、そのときにすべきことは途方もなく大量にあります。もう少ししたら、もっと具体的に「なにができるか」をお話しできるかもしれませんが、いまは現在あるものを壊さないように努め、生き抜いてください。

(2月27日、モスクワ、オンラインセミナー)


講演3 情報との向き合い方──不安の蔓延する社会で

3月8日、当初は「情報衛生学」──現代に氾濫する情報のなかを人はどう生きるかという講義が予定されていました。

状況が激変するなか、シュリマンは「一方ではこれまで通り、混乱した精神状態でなにかを決断してはいけない、と繰り返したいところですが、他方ではすでに恐怖が具現化してしまっていて、その終わりがまだ見えない状態です。ですから、混乱と恐怖が現実にあることを認めたうえで、なにかを決めていかなければならないことになります。一定の不安が常に社会背景として存在することが、これからの時代の新たな前提となるのでしょう」と言い、そうした社会状況のなかで気をつけるべきことを語りました。

1 強者への同調、恐怖と攻撃性

そのような前提があるとき──人が不安なときにとる行動は、大きく分けて二つあります(なかには両方の行動を同時にとる人もいます)。

まず一つは、少しでも自分が安心できる、怖くなくなるような説明を探し、「たいしたことじゃない」「すぐに終わる」と思おうとすること。しかしこの行動には往々にしてある特徴がつきまといます。なにもたいしたことは起こっていないと思おうとするとき、人はより「強い」側に同調しがちです。とりわけ周囲の人が次々に拘束・弾圧されているのを目の当たりにすると、「自分は助かりたい」という思いから、なんでもいいから盾となるものを探そうとする──「自分は無害です、なにも知りません、逮捕されている人とは関係ありません」という態度をとる。これはあまり倫理的ではない態度に見えるかもしれませんが、身の危険を避けようとするのは人として自然なことでもあります。いま多くの場所で起きているのはこの現象です。

このような状況下で、そういう人が一見「攻撃的」なことを言ったり「発狂」したりしているように見えるとき、本人には自分が攻撃しているという自覚はなく、恐怖心からそのような行動をとっていることがほとんどです。たとえばあなたが反戦を口にしたとして、家族や親しい人がそれを「危険思想」であるかのように言って咎めるとき、その家族は当人を攻撃しているつもりではなく、その奇妙な方法によって当人を守ろうとしている──彼らの思う「安全圏」に入れて守ろうとしているのです。

ですから、そうしたことに直面しても、それが恐怖心の表れなのだということを理解してください。同調する必要はありませんが、怒って喧嘩をするのは避けてください。

2 不安な情報の氾濫と対処

不安が蔓延した社会においてよくみられる二つめの行動──これはもともと繊細な精神の人が陥りがちな状態です。なにか大変なことが起きたという衝撃から、とにかく衝撃的な情報や残酷な映像を探して釘付けになる。いわゆる「ドゥームスクローリング」といって、悲観的な気持ちに見合った情報を吸収することに時間を費やし、やめられなくなってしまう現象があります。

そもそも今日は、予告では現代の情報社会の構造についてお話しすることになっていました。一方では情報が氾濫しているようでいて、他方ではなにも信じられないような現代において、すべての情報発信者があらゆる手段を用いて受け手の興味を惹こうと趣向を凝らしています。いま現在起こっていることは、この情報社会の基本的法則にとんでもない悪意が加わったバージョンですが、だからといって問題の核心は変わりません。

開戦前に私が話そうと思っていたのは、いま仮に「情報衛生学」と呼んでいるこの分野が、今後の社会学においても根本的に大切になっていくだろうということでした。

そして現在、情報が次々に制限されていくなかで、この問題はむしろ深刻さを増しています。これまでは各自が信頼できる情報源をいくつか選ぶことで、安心できる情報空間を作っておくことができました。しかしいまはその情報源がひとつひとつ針で泡を刺すように潰されています。私たちは報道機関としてのまとまりを絶たれた情報の波のなかに投げ出され、なにを信頼するかが文字通り生死を分けるほどの深刻さをもって立ちはだかっています。

現在は意識して集めようとしなくても酷いニュースばかりですから、無自覚に「ドゥームスクローリング」の状態に陥ってしまう危険があります。

これを予防するために、情報を見たあとの自分の精神状態に自覚的になってください。なにかを見たあとで、お腹が痛くなったり吐き気がしたりしていませんか。

とりわけ注意すべきなのは、力が抜けてしまうような感覚です。「罪」と「責任」の話〔講演1〕をしたとき、私は「罪の意識は無気力に、責任は行動力につながる」という話をしました。ですからまずその情報があなたにとって、せめて行動する余力を残すものか、それとも無力感に陥れるものかを判断してください。「自分たちに罪があった」という感情を吐露したり、ショックのあまり悲観的な言葉を口にしたりすることにも、確かに最初の数日間は意味があるでしょう。けれどもその段階を過ぎたら、できる限り有意義な情報を厳選してください。

例えば憲法や法律についても、「すでに戦時下の非常事態だから憲法などなんの意味もない、人権などまったくなくなってしまった」というような言葉を鵜呑みにしないでください。憲法や法律はいまのところこれまで通り有効です。それらを、自分の身を守ることに役立ててください。

反戦運動はこの数日ずっと続いており、拘束者はかなりの数にのぼっています。こういうとき警察は憲法やら法律やらの知識を持ちだしてくる面倒な相手を好みません。ですから「面倒な相手」になってください。決して語気を荒げたり喧嘩腰になったりせずに、自信を持って自らの権利を主張してください。警官になにか質問されたら丁寧かつ手短に答えてください。どう要求されようとも、携帯電話の中身を見せる義務はありません〔開戦後、ロシアでは反戦運動の取り締まりのため実際に街角で警官が通行人の携帯電話のロックを解除させ中身をチェックすることがおこなわれている〕。もし見せろと言われたら「この携帯は祖父のもので、暗証番号がわからない」とでも言ってください。あるいは暗証番号を三回連続で間違えて、緊張して手が震えると言ってください。

もちろん私はすでに警察に目をつけられているような、これまでも目立った反体制運動をしてきた特別な人々に言っているのではありません。彼らはすでに警官にどう接したらいいのかをよく知っています。私がいま呼びかけているのは、手当たり次第に拘束されていく人々を見て、自分がそうなったらどうしようと恐れている人です。法的支援団体〔OVD-info〕も積極的に利用してください。

3 徴兵と解雇に抗う手段

次に、いま恐れられているのが軍への召集です。自分が兵役済、退役済などどういう状態にあるか、各自確認してください。専門知識を持った女性など、特殊な需要が考えられるケースも念頭に置いてください。常に医師の診断書〔従軍を断るための〕を用意してください。電話での呼び出しには応じないでください。召集には正式な令状が必要です。怪しげな電話を受けたら「令状を郵送してください」と言って相手にしないでください。郵便物が来たら消印があるかを確かめてください。過去の例として、消印のない郵便物や電話による不法な呼びかけによって「軍委員会に出向け」と言われ、行くと自らが出向いたものとして「義勇兵」とみなされて戦地に送られた例があります。

すべての場合において、「断ったら射殺されるのではないか」と怯えてなりゆきにまかせるのではなく、「合意したらどうなるか」の恐ろしさのほうを考えてください。もし法的に拒否の権利がないとしても、あらゆる手で「時間稼ぎ」をしてください。

それから、仕事の解雇の問題も心配されています。まず、あなたがいかなる思想を持っていたとしても、それを理由に解雇するのは違憲だということを、決して忘れないでください。

そういうとき雇用者はたいてい曖昧な圧力で自主退職に追い込もうとします。雇用者が使いがちな「ご自身で、わかっていらっしゃいますよね」といった言葉には決して負けないでください。自分から退職してしまうと、法的支援が難しくなってしまいます。どうしてもつらいときは短期休暇をとるなどして対策を練ってください。

(3月8日、トヴェーリ、「生きた言葉」講演会)

訳者解説

なぜ戦争が起きたのかという問いに対するシュリマンの「もはや止めるべきときに権力者を止めることができない社会構造になっていた」「抑制が不充分である、ブレーキが効かない」という回答は、現在のロシアの状況を見る限り、きわめて的確かつ誠実なものです。この二点について簡単に説明します。

ひとつめの「的確」である理由として、実際にいまロシアの憲法と法律がズタズタにされ、市民の人権が奪されていることがあげられます。市民はたとえ戦争を止めたいと思っても、それを街角で口にしただけで警察から暴力を受け拘束されます。インターネット上の思想表明だけでもその危険があり、どんな口実で自分がつかまるのかわからない人々は、日々怯えて暮らしています。しかし検閲ひとつをとっても、本来ならばロシアの憲法で明確に禁止されているのです。まるで国のトップが憲法の条文を読んだことがないかのようですが、この状況はいま突然始まったわけではありません。法改悪は戦争という惨事に結びつく地点に至るまで、じわじわと進んできました。シュリマンはこれまでもずっと、法律が様々なごまかしとともに改悪されるたびに、その問題点を歴史的な例や社会学の知識と引き合わせながら、一般の人々にも理解できる言葉で説明してきました。

たとえばロシアには反政府デモを規制する法律があります。しかし集会の自由は憲法に定められた大切な権利のひとつです。ところが政府はこの権利にかんして「収穫を祝う集会」などの政府にとって好都合な集会を認めていることを口実に「守られている」と主張し、規制したのはあくまでも社会秩序を乱す集会のみだと言い訳をしています。言い逃れを続け、自分たちに都合のいいように法律を変え続けてきたロシア政府のトップは、武器を暴発させようと思えばいつでもできる状態を作り出していたのです──この指摘は、いま政府がいかなる思想を言い訳に使っているかを考えたり、その言い訳の根源を探ったりするよりも、はるかに重要なことです。

二つめの「誠実」である理由は、この回答が責任の所在を決してうやむやにしないものだからです。政府を止めることができなかったことに対し、良心的な市民は(彼らの多くが幾度も自分の職や地位を犠牲にして抗議をしてきたにもかかわらず、それでも止められなかったことについて)、自分たちに「責任」があると口にしがちです。けれども彼女のいうようにそれは倫理的には理解できる表明ですが、図らずも責任のほとんどないはずの人を追い詰め、ほんとうに責任のある人間の責任の重さを曖昧にしてしまう危険をはらんでいます。

この二つは、私たちがこの問題を考えるにあたっても、これからの世界を戦争のない世界にしていくためにも、たいへん重要なことです。シュリマンの言葉が、それを考えることの一助となることを切に願っています。

(初出:『世界』臨時増刊「ウクライナ侵略戦争」2022年4月)

エカテリーナ・シュリマン(Екатерина Михайловна Шульман)
モスクワ社会経済専門学校准教授。専門は知識社会学、政治学。1978年トゥーラ生まれ。高校卒業後、カナダのジョージ・ブラウン・カレッジに留学。準博士(政治学)。通信社RIAノーボスチ勤務後、独立系放送局「モスクワのこだま」の政治コメンテーターを務めた。主著に『政治過程としての立法』(2014年)、『実用政治学――現実との接点のために』(2018年、いずれも未訳)。

奈倉有里(なぐら・ゆり)
早稲田大学講師。専門はロシア詩、現代ロシア文学。1982年生まれ。ロシア国立ゴーリキー文学大学卒業。東京大学大学院博士課程満期退学。博士(文学)。著書に『夕暮れに夜明けの歌を』(紫式部文学賞)、『アレクサンドル・ブローク 詩学と生涯』(サントリー学芸賞)、訳書にスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『亜鉛の少年たち』、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』『赤い十字』など。


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