維新派『十五少年探偵団 ドガジャガドンドン』はるか彼方のわたしへ
「アイ アム ア ボーイ」
「アイ アム ア ガール」
「バット フー アー ユー」
最も近くにいるわたし、から、最も遠くにいる、わたし、への、いつ届くともしれない呼びかけから、演劇ははじまる。
日本国内はもちろん、世界各国で活動を行い、主催の松本雄吉の死ののち、2017年に解散した劇団、維新派。その1987年の大阪城公園での公演を映画化した、『十五少年探偵団 ドガジャガドンドン』を観た。
油の切れたブリキのおもちゃのように、ぎこちない動作を、延々と繰り返し、脈絡のない言葉を発しながら、めいめいに舞台の上を歩き回る演者たち。彼らがゆっくりと交差し、離れてゆき、また集合しては離散する、その姿を、スクリーンに見ながら、なぜか、胸が締め付けられるほど懐かしい気持ちになる。
ストーリーというものはない。単に声を出しながら遊歩する人々が、そこにいるだけなのに、そこには強烈な思念が漂っている。汽車、夜祭、工場の中、様々な情景のなかで、断片的に語られる、いろいろ。転校した友達のこと、昔近所に住んでいた住人のこと、かつてあったものたちについてのこと。そして、すべてがいなくなって、孤独に取り残された、わたしについて。
いろいろなものが、かつてのわたしと一緒に、どこかにいってしまっている。いまは欠乏している。いまのわたしの中には、かつてのわたしはいない。そういう感覚が、維新派の演劇から濃厚に漂ってくる。これはたぶん、劇作家、松本雄吉の皮膚からにじみ出ている感性なのだろうと思う。その皮膚感性が、松本の皮膚から直接わたしたちの肌に乗り移ったかのような気がする。
わたしは、維新派の演劇の、ゆっくりとした動きや脈絡のない言葉の、執拗な反復をずーっと眺めていると、軽いトランス状態になってくる。舞台上の彼らと、松本が、自分の皮膚に溶け込んでくるような。
彼らの孤独が、皮膚からじわじわと入り込んできて、胸がしめつけられそうになるのだ。わたしの体のなかで、彼らはかつてのわたしを探しはじめる。呼びかけるわたしが、わたしのようであり、呼びかけられるわたしが、わたしのようでもある。
わたしとわたしが、ずっと遠い距離をへだてて存在している。でも実はそのどちらもが、わたしではないかもしれない。時間は刻一刻と移ろい、わたしがわたしを定義したつぎの瞬間には、わたしはわたしでないものに変わってゆく。
わたしは汽車を追いかけてはしる。汽車のうえにはわたしが乗っている。それは絶望的な速さで、わたしから遠のいていく。わたしではなくなっていくのかも知れない。わたしはわたしに、あるいはわたしではない誰かが、わたしではない誰かに呼びかける。
「アイ アム ア ボーイ」
「アイ アム ア ガール」
「バット フー アー ユー」
わたしが生きることは、かつてのわたしに出会うために、後ろ向きに走ることなのかもしれない。わたしではない、わたしに出会うことなのかもしれない。それがどういうことかは、分からないけど、とにかく維新派の舞台からどろりと流れ込んでくる皮膚が、そう言うのだから。
シネ・ヌーヴォにて「維新派・松本雄吉特集」開催中です。
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