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【解説】竹田青嗣『欲望論』(17)〜美とは何か?

1.美をめぐる4つの問い

 前回、私たちは、「善ー悪」という分節の源泉が「母ー子」の言語ゲームにあることを見た。

 続いて竹田は、「美ー醜」の分節の源泉もまた、基本的には「母ー子」の言語ゲームにあることを述べる。(ここで「母」と呼ばれるのは、養育者を象徴的に名づけたものであって、当然、父であっても、祖父母であっても、血縁関係にない養育者であっても構わない。)

 しかしこのこともまた、哲学史において十分洞察されてきたこととは言えないと竹田は言う。

 そこで竹田は、本書で、カントの美的認識論や、それを継承したシラーの美学、さらに新カント派の美学等を批判的に検討する。

 しかしここではそれらの批判は割愛することにして、これまでの哲学的美学を総覧した上での竹田の結論だけ紹介しておこう。

 ここまで来てわれわれは、「美の謎」の核心にあるのが「美の普遍性」の問題であることを理解せねばならない。あるいはまた、近代哲学における美学的探求の努力が、根本的には、美の普遍性をいかに根拠づけうるか、という主題をめぐっていたことを再確認せねばならない。

 なぜ、私たちはあるものを「美」と認識しうるのか。しかも、なぜそこにある種の普遍性を見出しうるのか。

 これが、哲学的美学における核心的問いなのだ。

 この問いをさらに展開すれば次のようになる。

 第一の問題。プラトンによる美の知覚–感覚性と美的感受性の矛盾。なぜ単なる知覚(視覚・聴覚)が美的感受の能力をもつのか。
 第二の問題。美は主観性だが普遍性を要求する(カント)。しかし美の感受ははたして普遍性をもつか。もつとすればその根拠は何か。
 第三の問題。美と芸術の本質的区別。
 第四の問題。最後に、美と善の関係的本質。

(1)なぜある種の知覚が美的に感受されるのか

(2)美はなぜ普遍性を持つのか

(3)美と芸術とは何が違うのか

(4)美と善とはどのような関係にあるか。

 これらの問いに、以下で竹田は挑んでいくのだ。

2.なぜ美は普遍性を持つのか?

 まず、第1と第2の問いについて。すなわち、(1)なぜある種の知覚が美的に感受されるのか、(2)美はなぜ普遍性を持つのか。

 美の普遍性について付言しておけば、たとえば「かわいい」の場合、これは必ずしも「普遍性」を求める概念ではない。

 何を「かわいい」と思うかは人それぞれであり、それで構わないと私たちは考えている。

 しかし「美」は少し違う。私たちは「美」を、ある程度の普遍性を持ったものとして感じ取る。「美しい」と言う時、それは暗黙のうちに、他者にも共有されるはずだという想定があるはずなのだ(その想定が外れることはあったとしても)。

 さて、ここでも、考えるべきは「母ー子」の言語ゲームである。

 この言語ゲームにおいて、先行するのはまず「きたない」であると竹田は言う。非常に面白い洞察だ。

 ここではごく一般的な経験的洞察として、はじめに「きたない」が、つぎにその反対概念としての「きれい」が「子」に了解されること、この意味了解の基礎の上に、われわれの主題である美的な感受性としての「きれい–きたない」の分節が了解されていくということが重要である。

 嘔吐物や排泄物などを、「母」は「きたない」と名指しこれを禁止する。「きれいーきたない」の審級は、こうしてまず「きたない」という言葉によって分節されるところから始まるのだ。

 では、「きれい」はどのように「子」において分節されることになるのだろうか。

 「母」がどのような対象を美的な意味で「きれい」と呼ぶのかについて、さらに考察してみよう。「母」が、「きれい」という言葉で指し示す範例的な対象は以下である。花、衣服の色や柄、絵本の色調、とくにキラキラと光るもの、色ガラス。磨き上げられたもの、等々(総じて、視覚主導)。そしておそらくは、少し後になって、夕焼けや星空などの自然の情景や風景。
 ここでは、「きれい」は「きたない」を予想せずその対立項ではない。また「きたない」がもつ禁止・抑止の指示性をもたず、「よい」がもつ、触れたりそれで遊んだり食べたりしてよいという許可の意味をもたない。ここでの「きれい」は、ある対象をともに見ること推奨されており、そのことでそこで生じる感情の共有を促す、といった意味をもっている。

 きわめてすぐれた洞察と言えるであろう。

 「きれい」は、「きたない」の反対項として分節されるわけではないし、「許可」としての「よい」として分節されるのでもない。

 この言葉は、「母」との間のある種の感情の共有を促すものとして「子」に訪れるのだ。

 「あの夕焼けきれいだねえ」「きれいなお花だね」「きれいな貝殻ね」……。

 「母」が「子」に「きれい」をめぐるコミュニケーションする場合、それは必ず「感情共有」を呼びかけるものとなっているのだ。

 このあと竹田は、「きれい」が「美」へと転移されていく道筋や、様々な美的対象についての考察を展開するのだが、ここでは省略する。

 重要なことは、ある知覚が美的に感受され、かつまた普遍性を持ちうる根拠は、上に見てきたように、美がそもそもにおいて、「母」との間の感情共有として「子」に訪れるものであるからなのだ。

 つまり「美」は、その原初形態である「きれい」において、すでに「母」との感情共有を前提するものであった。

 ここに、「美」の普遍性をめぐる謎(なぜ「美」は普遍性を持ちうるのか?)の答えがあると竹田は言うのだ。

 次回は、上述した問いの(3)と(4)、すなわち、(3)美と芸術とは何が違うのか、(4)美と善とはどのような関係にあるか、について論じていくことにしたいと思う。

(続く)

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