【解説】竹田青嗣『欲望論』(5)〜フッサール現象学の原理
1.フッサール現象学の原理
形而上学的独断論と、相対主義。
これら双方の対立を完全に終わらせるものとして登場したフッサール現象学の原理について、竹田はまず次のように言う。
フッサールの方法によって導かれる、認識論の解明の根本課題は二つ。
(1)ある領域で普遍認識が成立するその条件と構造を解明すること。
(2)なぜこれまで普遍認識が自然科学、数学の領域に限定されていたかを解明し、ついで、人文科学の領域でこのことが可能となるその可能性の条件を解明すること。
では具体的に、現象学はどのような原理を提示したのか?
その要諦を、竹田は次のように整理する。
(1)「主観−客観」の一致は検証されえないが、「内在−超越」の一致ならばこれを検証しうる。言いかえれば、認識がいかに客観(対象そのもの)に一致するかは決して言えないが、それがいかに「確信」として成立するかはいえる。
主観と客観は一致するのか? これは要するに、私たちは絶対の真理(本体)を知ることができるのかという問いの立て方である。
形而上学的独断論は、「これこれがその真理である」と主張する。
他方の相対主義は、「そのようなものはありえない」と主張する。
それに対してフッサールはこう主張する。
「主観ー客観」図式をやめて、「超越論的ー現象学的還元」を遂行せよ!
どういうことか?
確かに、懐疑主義・相対主義が言うように、「本体」など認識しえない。
したがって私たちは、客観的真理を思考の前提にすることはできない。
ゆえに、「本体」「客観」なるものは、エポケー(判断中止)されなければならない。
何が絶対の真理(客観)かなど、解明しえないがゆえに、そもそも問うことをやめよとフッサールは言うのだ。
しかしその上でなお、私たちには決して疑いえないものがある。
「超越論的主観性」。それをフッサールはこう呼んだ 。
たとえば、目の前のリンゴは、確かに絶対に存在しているかどうか疑うことができる。
この懐疑可能であることを、現象学では「超越」と呼ぶ。
しかし同時に、私は、いま確かにこのリンゴが「見えてしまっている」ことを疑うことはできない。
この疑えないことを「内在」と呼ぶ。
そしてこの「見えてしまっている」ということを大きな根拠に、私はリンゴの存在を「確信」しているのだ。
要するに、私たちは、客観的対象それ自体の存在を疑うことはできたとしても、いま私にその対象が見えてしまっており、それゆえこの対象の存在が「確信」されているというその意識作用については、どう頑張っても疑うことができないのである。
この意識作用を、フッサールは「超越論的主観性」と呼んだのである。
2.相対主義の解体(超越論的ー現象学的還元)
ここに、あらゆるものを懐疑し、その果てに相対化する、相対主義の論理を封じ込め打ち砕く思考の原理がある。
相対主義は、「このリンゴは赤色ではないかもしれない」「そもそもこのリンゴは存在しないかもしれない」と、あらゆる命題を懐疑し相対化する。
しかしその相対主義者も、このマグカップが「見えてしまっている」こと、そしてそれゆえに、このマグカップの存在を「確信・信憑」してしまっていることについては、何をどれだけ強弁したところで疑うことはできないはずである。
どんな懐疑主義者・相対主義者といえども、「このマグカップは存在しないかもしれない」と言うことはできたとしても、「自分にはこのマグカップが見えていない」と強弁することはできないのだ。
この、一切を私(超越論的主観性)の確信・信憑に還元することを、超越論的ー現象学的還元と言う。
現象学的思考のポイントを、竹田はさらに次のように言う。
(2)「現象学的還元」の方法。認識の外部に想定される伝統的な「超越存在」、すなわち世界自体、対象自体、性質自体、つまり「客観存在」自体、「本体」の観念の中止。これをフッサールは、遮断、括弧入れ、判断中止、エポケーなどの語で呼ぶ。つまり世界の客観存在の想定は停止され、世界はただ、“私によって生きられているもの”としてのみ存在するとみなされる。
(3)超越論的現象学における「超越論的構成」は、カント的な世界の先験的構成論とは異なり「私の意識」の地平における「世界確信」の構成の本質構造論を意味する。すなわち「超越論的構成」とは、「対象確信の一般構成」の原理論、あるいは「確信成立の条件の解明」の理論を意味する。この理解においてはじめて現象学的還元の方法は、「本体論」の解体の上にたつ認識問題の原理的解明の方法として理解されうる。
(4)この方法を通してのみ、なぜ主−客一致の不可能にもかかわらず「客観認識」(=普遍的認識)が可能であるかが説明され、同じことだが、「本体」や「真理」の観念を排除したまま「普遍的認識」の可能性の条件が明示される。さらに、この方法を通してのみ、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ウィトゲンシュタインにおいても達成されなかった、相対主義=懐疑論の完全な克服と解体(すなわち認識論的解明をともなう解体)が成し遂げられる。
3.確信成立の条件の解明
それぞれを噛み砕いて説明していこう。
(1)は、客観(本体)など知りえないが、内的「確信」ならば私たちはいつでも確かめられるということ。(「主観−客観」図式から「内在−超越」図式へ)
つまりこれは、目の前のリンゴの存在それ自体は絶対に確かとは言えないかもしれないが、いま私にリンゴが「見えてしまっている」という「内在」は、どう頑張っても疑えないということだ。
(2)は、世界はまさに私の内的「確信」として考えるほかないということ。(超越論的ー現象学的還元)
つまり私たちは、リンゴが「見えてしまっている」という「内在」を根拠に、このリンゴの存在を「確信」しているのだ。
(3)現象学は、この「確信」がいかに成立するかを解明するものであること。
つまり現象学はこう考えるのだ。「ここにリンゴが客観的に存在しているから、私にはこのリンゴが見えている」のではなく、「私にはこのリンゴが疑いの余地なく見えているから、このリンゴが存在しているという確信を持っているのだ」と。
しかしこれは、ごく普通の考え方とは逆転しているように見える。
普通、私たちは、「リンゴがあるからリンゴが見える」と思っているはずだ。
これが一般的な客観主義の考えだ。
しかし相対主義は、そのようなリンゴの実在それ自体を相対化するのだった。
いわく、このリンゴは幻影かもしれない、リンゴは本当は赤ではないかもしれない、等々。
それはつまり、リンゴの実在それ自体を前提には原理的な哲学を築けないということだ。
しかし先述した通り、私たちにはこのリンゴが「見えてしまっている」。このこと自体を疑うことはできない。
そしてそのことを根拠に、私たちはリンゴの存在を「確信」しているのだ。
現象学はこうして、一切を私(超越論的主観性)の「確信」へと還元せよと言うのだ。
それにしても、なぜ現象学はこのような思考法を取るのか?
それこそ、形而上学的独断論と相対主義の対立を終わらせ、力強い「共通了解」を見出し合う理路を示すためなのだ。
竹田が示した、現象学的思考の4つ目のポイントはそのことを言い表している。
(4)普遍認識は、この内的「確信」が「共同確信」たりうるところに成立するということ。したがってそれは、「本体」の認識を何ら意味しない。
普遍認識、すなわち、誰もができるだけ納得できる考え方(哲学的考え方や科学的知見)は、「真理」「本体」を決して意味しない。
それは、お互いの「確信」を持ち寄って見出し合った「共同確信」、すなわち「共通了解」にほかならないのだ。
リンゴのような知覚対象については、深刻な信念対立はあまり生じないかもしれない。
しかしそれが、たとえば「よい社会」や「よい教育」ならどうか?
こうした人間的な意味や価値の次元においてこそ、形而上学的独断論と相対主義の対立は深刻化する。
一方は、「これこそが正しい社会である」と主張し、他方は、「そのようなものは決して主張しえない」と相対化し続けるからだ。
しかし現象学は言う。一切は私(超越論的主観性)の「確信」である。「本体」などどうでもいいし、したがって、それを相対化し続けることもどうだっていい。
私たちは、なぜ、そしてどのように、そのような「確信」を抱いたのか。その「確信成立の条件」を互いに問い合い、そのことで「共通了解」を見出し合おうじゃないか。
現象学はそう考えるのだ。
真理を求めるのでも、これを相対化するのでもなく、いかに「共通了解」を見出し合うか。
このきわめてシンプルな思考によって、現象学は形而上学的独断論と相対主義の対立を終わらせたのだ。
(続く)
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