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【解説】竹田青嗣『欲望論』(11)〜欲望論の哲学とは何か?

1.現前意識

 ここでようやく、フッサール現象学をさらに深化した、竹田青嗣の欲望論哲学の原理について論じていくことにしよう。

 前にも述べたように、現象学は、決して疑い得ない思考の始発点を「超越論的主観性」として定めた。

 それはつまり、たとえばリンゴが「見えてしまっている」といった「現前意識」を根拠とする意識作用のことである。

 私たちは、このリンゴが絶対確実に存在しているのかどうか、疑うことができる(夢かもしれないし、幻影かもしれない)。

 しかし、いま私にこれが「見えてしまっている」という「現前意識」は、どう頑張っても疑えないのだ。

 持続する「現前意識」の生成こそは、誰にとっても、自分の「世界」の現実性定立の源泉であると同時に、その確かめの最後の根拠であると。同じことをつぎのように言い換えることができる。すなわち、現前意識は、誰も“その背後に回ってみることができない”世界の「現実性」の底板であると。

 一切の認識は、この「現前意識」を根拠にした確信・信憑なのである。

 それゆえ、私の認識が客観(本体)と的中しているかどうかなど、はっきり言ってどうでもいい。(したがって現象学は客観をエポケーする。)

 一切は私(超越論的主観性)の「確信」なのだ。

「認識論においては一切の認識は「確信」であるという場所から始発すべきである、というテーゼを受け入れるなら、認識論は、「何が真理であるか」についての独断論と相対主義的帰謬論の間の果てしのない水かけ論であることをやめ、一切の対象の確信条件についての一般理論として再構成されるであろう。」

 私は、この現前意識において、なぜ、どのように、このような「確信・信憑」を抱いているのか。これが現象学の問いの立て方だった。すなわち、「確信成立の条件の解明」の学。

 ここを出発点にすれば、私たちはお互いの「確信」を問い合い、「共通了解」を見出し合っていくことができる。

 これが、本体論にも相対主義にも陥ることなく、普遍認識(共通了解)を獲得するための思考の方法なのである。

2.個的直観と本質直観

 以上のように、現象学の本質は「確信成立の条件と構造」を解明することにある。

 ところでフッサールは、この確信が成立する最も原的な源泉を「諸原理の原理」と呼んだ。そしてその内実を次のように解明している。

 すなわち、「個的直観」と「本質直観」 。

「個的直観」とは、個物が直観されているということ、すなわち、このリンゴが「見えてしまっている」という知覚のことである。

 前にも言ったように、私たちはこの「見えてしまっている」という「個的直観」を疑うことはできない。そしてこの「個的直観」を根拠として、対象存在の存在を「確信」している。

 このことを、わたしたちは誰もが“確かめる”ことができるはずである。

 それに対して、このリンゴが絶対客観的に実在しているということは、究極的には確かめることができない。“確かめ可能性”こそが哲学における「思考の始発点」でなければならないことを、ここで改めて強調しておこう。

 もう一つの「本質直観」は、端的に言えば本質的な「意味」(これは一体何であるか?)のことである。

 私にはこのリンゴの「個的直観」が疑いなくあるが、同時にそれは、「リンゴ」という「意味」の本質を伴って直観されている。そしてそのことを、私はやはりどう頑張っても疑うことができない。

 このことも、私たちは自らのうちで必ず“確かめる”ことができるはずである。

 要するに、「個的直観」と「本質直観」は、不可分のものとして私たちに疑いようなく直観されているものなのだ。

 いま、私はあるツヤツヤした赤色の丸い個物を知覚しているが、そこにはリンゴという意味の本質もまた同時に所与されている。

 もし、その知覚対象が何かよく分からないものであった場合も、それは「何かよく分からないもの」という意味の本質を伴って直観される。

 いずれにせよ、私たちの直観は、何らかの知覚とその意味とが必ずセットでやってくるものなのだ。そしてこの「個的直観」と「本質直観」を最大の源泉として、私たちは「目の前にリンゴがある」等のさまざまな確信を成立させているのだ。

3.情動所与

 以上のように、フッサールは、確信成立の条件の根源的な源泉として「個的直観」と「本質直観」を見出した。

 この発見から100年、竹田は本書で、さらにもう一つの重要な「諸原理の原理」を提起する。

「情動所与」。

 それを竹田は、こう名付けた。そしてこの発見こそ、まだ哲学・学問界においては残念ながらほとんど知られてはいないが、哲学や、とりわけ人間−社会科学における、きわめて重要な可能性を開くものなのである。

 それはつまり、イントロダクションでも言った通り、「よい社会」や「よい教育」のような社会構想のための哲学の展開や、また、「愛」や「美」といった、実存論的世界の本質を明らかにすることが可能になったということである。

 しかしその前に、まず「情動所与」とは何か?

 竹田は言う。

 現象学的–欲望論的な内省的洞察の基本的原則からは、一つの知覚体験に本質的に属するのは、フッサールが規定する「個的直観と本質直観」(『イデーン』)ではなく、「個的直観」(知覚像)、「本質直観」(対象意味)、そして「情動所与」の三つの契機であるといわねばならない。

 たとえば花を認識する時、私たちはそれを、花としての本質的な意味をもった個物として認識する(個的直観と本質直観)。

 しかし同時に、私たちはそこに、なにがしかの「情動性」もまた必ず所与されていることを自覚するはずである。

たとえば、われわれが花を見るとき、知覚像がまずそれを「花」という「ノエマ」として示し、そのあとで花の美しさが所与される、とはいいがたい。花を見ることにおいては、一般には、知覚像、対象意味、そしていわば情動所与が一瞥のうちに所与されるといえる。さらに音楽体験の場合では、奏でられる旋律は、それが対象ノエマを所与する以前に、第一義的に、一つの情動(情緒性)を所与してこないだろうか。

 要するに、私たちはつねに何らかの情動の中を生きており、そしてそのことを必ず“確かめる”ことができるのである。

 ハイデガーが言うように 、

「気分(情動——引用者)がこわされたり、急に気分が変わったりすることがあるのは、実は現存在にいつもすでに気分があるからなのである。〔中略〕なぜか、それはわからない。そして現存在はそのようなことを知ることはできない」 。

 前に見たように、ハイデガーは、せっかくのこの洞察を自ら後退させてしまうことになった。

 しかし私たちは、この洞察にあくまでも留まり続けなければならない。

 私に“確かめる”ことができる最後の底板は、いま私が確かに何らかの情動を持っているという、そのことまでである。

 前述したように、私たちは「意識」や「欲望」の背後に回ることはできないのである。

 ところで、この「情動所与」が原的な所与であることは、夢について考察すればよりはっきりと理解されるかもしれない。

 夢の世界が日常的な現実体験と比べて欠く第一の契機は、明確な自己意識の希薄化である。夢においては「私は誰それである」という自己対象化的意識がその強度を失う。このことは、自−他の対象的な関係意識の希薄化をも意味する。第二の契機は、時間・空間的因果的秩序の整合性と連続性の曖昧化そしてその解体。〔中略〕第三の契機は、出現する対象・事象・出来事の知覚所与、意味所与、情動所与の間の、定常的結びつきの不安定と変転である。

 夢においては、自己意識や時間・空間秩序の整合性が失われるだけでなく、「情動」もまた不規則に変化する。

 そしてこの不整合こそが、私たちが現実と夢とを区別する本質契機にほかならない。

 したがって、逆に言えば、私たちは現実知覚において、必ず「情動所与」をその認識の根拠にしているということだ。

 夢でなくても、私たちの認識に情動が所与されていることは次のような例から理解することができる。

 いつも通っていてよく知っているはずの街路がなぜかふと馴染みないものに見えて道を間違えたかと思うようなケース、見慣れている文字をじっと眺めているとそのなじんだ「感じ」が剥落して、奇妙な文字に見えるという場合、あるいはまた疲労がひどいとき、突然周りの世界から「生き生きした現実感」が失せて、離人症的感覚におちいるような場合。

 私たちの原的な直観(認識)は、個的直観、本質直観に加えて、情動所与を伴っているのだ。

 この「情動所与」の発見は、この後「欲望相関性の原理」として展開されることになる。

 一切の意味や価値は、「本体」があるわけでも、永遠に「相対化」し続ければよいものでもなく、「欲望相関的」に確信・信憑されるものである。

 ならば私たちは、とりわけ前回論じた「言語ゲーム」において、さまざまな意味や価値の本質を、どのように「欲望相関的」に「確信・信憑」しているのかと問うていくことができるようになる。

 そしてこの問いの立て方こそが、あらゆる意味や価値の本質論、ひいては、「よい社会」や「よい教育」などについての哲学を展開するための、最も根源的なものとなるのだ。

 以下ではいよいよ、竹田による様々な意味や価値の本質論を紹介していくことにしたいと思う。

 これまでは、本体論にも相対主義にも陥ることなく、両者の対立を終わらせた上で、どうすれば意味や価値の共通了解可能な本質を見出し合うことができるかの原理について述べてきた。

 以後(『欲望論(第2巻)』)は、その原理に基づく、新たな哲学領域の展開である。

(続く)

 


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