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11年前
11年前のあの日は、吉祥寺で友達と昼からビールを飲みながら喋っていた。
15時過ぎのでかい余震の後、友達がバスで帰宅するのを見送って、自宅まで歩いて帰ってきた。
交番で自宅までの距離を確認したら、直線で15キロ。迂回等々を含めても20キロはない。1キロあたり7分ペースなら2時間ちょっとかとすぐに計算が立った。フルマラソンを何度か経験していると、40キロ以下の距離は理解可能な範囲になる。
荷物もあり、靴も走れるようなものではなく、とりあえず歩きだなとは思ったけれど、途方にくれることは微塵もなかった。
距離を尋ねに入った派出所の警官は歩いて帰ると言った僕に驚き、呆れ、「とにかく安全第一で」と敬礼までして見送ってくれた。
電車がストップして、道を歩く人はいつもよりずっと多かったけれど、当時はただの健常者だった僕にしてみれば、いつもの散歩と変わらない気分だった。
確かに経験したことがない大きな揺れで、ただ事ではないとは思ったけれど、その時点では太平洋岸を津波が襲っていることも、地震の規模もわからず、「震災」とか「被災」なんて言葉はまだ浮かんでいなかった。
異常な事態だと感じて僕がしたのは、売り切れる前にとコンビニエンスストアで食パンを1斤と水を1リットル買ったことだけだった。
これだけあれば1日は足りる。途中で怪我でもしない限り、どれだけゆっくり歩いても12時間後には自宅に着く。考えていたのはその程度のことだった。
帰宅する途中で、普段のようにチェーンのコーヒーショップでコーヒーを飲み、早々に帰宅を諦めて酒盛りに方針転換したサラリーマン達の隣でラーメンを喰い、ただ事じゃないなと感じつつも、少なくとも僕の周囲2mぐらいはさほど日常と変わらなかった。
緊張していたのか、どこかで無意識に麻痺していたのか、不思議なことに帰宅するまでただの一度も余震を感じないままだった。そのことが震災の恐怖が心に刻まれることを防いだんじゃないかと今でも思う。
下高井戸の駅でトイレを借り、解放された事務室のテレビに映った仙台平野を津波が進む映像を見てもまだ、僕に切迫した感覚は湧かなかった。
僕が恐怖に取り込まれたのは、帰宅してテレビをつけ、映像を目にしたこと、頻繁に鳴り出す緊急地震速報のアラームだったのは間違いない。
直接的な被害はなかったけど、あの時の心理的な恐怖は今も払拭できていない。
3年後、震災当日、歩いて帰宅する途中で撮った写真をまとめて『あの日のできごと、それからのこと』とタイトルをつけ、200ページほどのWEBマガジンを作った。
その際に、別に書いた序文のようなものは次のようなものだった。
震災の起きた3月11日から、東京の不気味なほどの静かさが怖くなって、カメラを提げて異様な様子を時折撮っていた。
当日は混乱。数日が経ち、原発事故が伝えられてからは恐怖。電力不足で暗くなった街、人の気配がなくなったターミナル駅の表通り、ガラガラの電車。 暗さは僕が幼かった頃とそれほど変わらないはずなのに、街全体が不安と恐怖に押しつぶされているようだった。
報道で伝わってくるあまりに悲惨な光景や異様な雰囲気が漂う街の様子を目にして僕は考え込んでしまった。
果たして東京はこの震災における何者であるのか。
ただ被害の少なかった場所なのか、それともある意味での被災地なのか、それとも原発事故の婉曲的な加害者なのか。
僕は被災者なのか、ただ大きな地震を経験した者なのか。
僕はいったい何者なんだろう。
いまもまだ答えは出ていない。
わかっていることは、いずれどこかでまた同じことが起きる。
きっとそれだけなんだろう。
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