
読書記録2022 『真田太平記』 池波正太郎
年初から四半世紀ぶりにゆっくりと再読を進めてきた真田太平記も、ついに全12巻を読み終えてしまった。
言うまでもなく読書にとって速度は必ずしも重要な要素ではない。
とはいえ「先が読みたい」という欲求を鷲掴みにされてしまうような小説では、ページをめくっていることすら忘れてしまうほど、読む速度は上がって行く。
池波正太郎さんの作品、とりわけ真田太平記にはそういう「魔力」があって、疲れることもなくひたすら物語の先へ先へと向かってしまう。
こんなシロモノを、よくも2ヶ月もの時間に引き伸ばしながら読めたものだなと、思いもよらぬ自分の自制心の強さに驚いてしまった。
年初にも書いたことと重複するが、歴史小説には完結してしまった歴史的事実を小説が改変することはないという強みとハンディキャップがある。
信長は思わぬ1982年に謀反で命を落とし、家康は1600年に関ヶ原で勝者となり、信長が起こした畑に秀吉が撒いた種を刈り取る。この事実を変えたらファンタジー小説に変容してしまう(ネガティブに)。
本作は父、真田昌幸と信幸・幸村兄弟(あえて信繁とは書かない)、真田家にまつわる多くの人が戦国末期から元和偃武をどう生きたか、の物語だ。
長篠の合戦の終結から徳川家康の死去、2代将軍秀忠の治世の初期までの約40年間ほどが綴られる。
歴史年表に出てくるエポックとしての出来事だけではなく、その間を生きた人間に光を当て、その者の目線から歴史をたどり直すのが歴史小説の醍醐味というものだ。
これまた言うまでもなく(だったら書くなという話ではあるけれど)、歴史小説には作家自身の歴史観、歴史認識が潜んでいる。事実に即した形で作品を書いても、そこには必ず自身の思いが反映される。小説に限らず、すべての表現とはそういうふうになっている。
比較が適切だとは思わないけれど、「司馬史観」などと言われる司馬遼太郎の歴史の捉え方と比べると、池波正太郎の作品は自身の歴史観を織り込む意図よりも、物語自体を面白くすることを最優先にしているような印象を受ける(ご本人もそんな意味のことを度々おっしゃっていたそうだ)。
「小説が娯楽ならば面白くなければならない」と考えていたならば、本作はまさにその通りのものになっている。
小説の中身にはできるだけ触れず、たいした感想も書かないのは、この12冊の文庫本をこれから初めて読む人に余計な情報を付け加えたくないからだ。
予告編も見ることなく見た映画が途方もなく面白かったときの興奮、「あれ?あれ?」と思いながら読むことをやめられずに、一気呵成に全編を読み通してしまった後の虚脱感、「こんなに面白い小説を読んじゃったら、このあと何を読んだらいいんだ?」と途方にくれる感じ、それらはすべて本作を読めば味わうことができる。
これから初めて読むという人が心底羨ましい。
+ + +
余談だが、先日、下期の直木賞を受賞した今村翔吾さんは、この『真田太平記』を読んで歴史小説、時代小説の面白さに取り憑かれて小説家を志したそうだ。ありとあらゆる歴史モノ、時代物を読み漁ったというその量は、相当に自信のある僕から見ても「この人、すごいな」と思うほどだ。
思い返せば確かに今村翔吾さんの作品には池波作品と通底する「徹底した面白さ」を見つけることができる。直接的なものかどうかはわからないが、大なり小なり影響を受けているのは確かなんだろう。
さらに余談。
「1冊だけ無人島に持って行くなら」的な意地の悪い質問がある。
何か1冊だけを持って行くなどとてもできるはずがないのだが、「好きな小説家を5人挙げろ」と言われたら、かなり簡単に答える自信がある。
レイモンド・チャンドラー、村上春樹、片岡義男、池波正太郎。この4人をさっと挙げて、5人目に藤沢周平を入れるべきか、柴田錬三郎にするべきか、それとも松本清張と横溝正史のどちらを選ぶかで悩むか、あるいは小松左京と筒井康隆のどちらを選ぶかで頭を抱えるか、そんな感じになる。
今、さっと挙げた方々の作品はこれまでに何度も再読しているものばかりで、僕にとっては自分を形成する基盤のようになっている。
真田太平記はこの後、生きている間に何度読むことになるんだろうかね。そう考えると人生は短いものだとつくづく思う。
これから初めて読む人が本当に羨ましい。
二度も言ってしまった。
(計47冊中の36,39,40,43.45〜47冊目)
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(その他の読了本たち)
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