終わり
こんにちは。
これが2回目のnoteです。
今はおばぁちゃんの病院へ車で向かっているところなのでこれを書いています。
おばぁちゃんは少し前に足に皮膚がん?があって、足を切断しました。
少し前から入院はしていたものの自分が学校とかあったり、コロナで面会も決められていて日程が合わずお見舞いに行くのが少し遅くなっていました。
おばぁちゃんからは会えないから電話を掛けてと言われて、2回だけほんの少し電話をしました。
私は昔からおばぁちゃん子だったと思います。
中学、高校になるにつれ話をすることは圧倒的に少なくなったとは思いますが、病気になったり、足を切断してからやっぱりおばぁちゃん、そしておじいちゃんとかには何か恩返ししたいなとさらに強く思いました。
今これを書いてる時に親から聞いたんですけど、面会は出来ず、窓から顔を出して見るだけだそうです。
おばぁちゃんもおじいちゃんもお父さんもお母さんもそして、自分も、いつかは必ず死という『終わり』がきます。
昨年、父方のおばあちゃんが亡くなりました。
そのおばあちゃんには恩返しは何も出来なかったと思います。
自分はまだ高校生なので大きな何かを買ってあげるとかは出来ないのでもっとおばあちゃんと話をしておけば良かったなと少し後悔はあります。
おばぁちゃんもおじいちゃんも自分が一緒に居たのは多くても自分の年齢分でしょう。
自分がおばあちゃんとおじいちゃんが死ぬまで一緒に居れるのはほんの少しだということ。
おばあちゃんもおじいちゃんも自分のように赤ちゃんに生まれて、学生生活もして、社会人として働いて、今がある。
その人生を自分は少なくとも3分の2以上も知らないから60、70年分の人生を一瞬として感じてしまってとても悲しくなってきます。
果たしておばあちゃん、おじいちゃんは幸せと思える人生を過ごしてきたのか。
後悔があった人生を過ごしてきたのか。
それは本人達にしか分からないでしょう。
私も気づいたら皆誰しもが来る『終わり』が来ているのでしょうか。
そう思うと人生は儚く悲しくなってきます。
なので残りの少ないと思われるおばあちゃん、おじいちゃんには何か社会人になってから恩返しは絶対したいと思います。
自分も弟もお父さんもお母さんも10年以内…5年以内…もしかしたら明日…死ぬかもしれない。
それが分からないのが人生。
お父さんもガンになっているし、自分の家はガン家系だから絶対と言っていい程自分もガンになるでしょう。
だから自分達もお金にも幸福度でも絶対に後悔はしたくない人生を送っていきたいですよね。
ちょうど今病院に着いて、駐車場の窓からおばあちゃんと顔を見て手を振りました。
僕が何かをしなくても、顔を見せるだけでおばあちゃんとても喜んでるんだと思うと…
今ちょうどおばあちゃんとの面会が終わって近くのレストランでオムライスを食べてこようと思います。
全ての人に幸せが訪れますように。