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もしミルクの時代に戻れるのなら

狂言まわし。
そのことばを知るまで、私は「裁判者」と勝手に呼んでいた。

舞台の上にいながらにしてなかば観客にもなる。
主人公やその周囲につきまとい、時には共感を示し、またある時は批判の立場に身を置く。
そんな役わり。

ミュージカル「エリザベート」で、その裁判者はルキーニ。
同時に彼は幕が上がった瞬間から裁かれる役でもある。
エリザベートを殺害した人物として、上演される回数のぶんだけ、何度も何度も彼は罪を問われる。
何故、ハプスブルク最後の皇妃エリザベートを殺したのかと。

このオーストリア産のミュージカルが日本ではまず宝塚で上演され、東宝がそれに続いた。
大学時代の冬、そして二年後、社会人になったばかりの、確か初夏のころ。
私は寒い中を東京宝塚劇場へ向かい、さわやかな季節には帝国劇場で初演を観劇していた。





歴史を扱うミュージカルがとても好きだ。
そして私が好きな人物は、だいたいが裁判者なのだ。
「エビータ」ならチェ。
「レ・ミゼラブル」では私はファンテーヌがそれにあたると思っている。
歴史ものとは異なるが「オペラ座の怪人」においては冒頭にだけ出てくる老いたラウルがそうだろう。

彼らの共通点は必ず死に立ちあうこと。

「エリザベート」はその中でも特異なほどに「死」の物語として成立している。
何しろ主役がトート、死の帝王なのだから。





オーストリア・ハプスブルク帝国の終焉。
十九世紀末といえば、それほど昔でもない。
とはいえ、この帝国のおわり方は何もかもが奇妙に思える。

何しろ王位継承者ルドルフは自殺し、その後がまとなった大公までもが暗殺される。サラエヴォ事件。第一次世界大戦につながる出来事だ。

歴史に「もし」はない。
しかしどうしても考えてしまう。

もし、ルドルフが生きていたら。
もし、その母エリザベートが夫フランツ・ヨーゼフ二世と息子ルドルフの不仲を正していたなら。
もし、エリザベートがハプスブルクに嫁がなかったなら。

もし、もし、もしも。





一幕の終盤にさしかかるころ、「ミルク」を題材にした場面がある。
街では民衆の手にミルクが行き渡らず、不満の声が高まってきている。エリザベートを指さして。
エリザベートはそれを知ってか知らずか、宮殿でミルク風呂にたっぷり浸り、美容を保つことに集中しっぱなしだ。

ここで歌われる曲のメロディが、エリザベートの結婚直後に流れたそれと同じであることに、私ははっとした。

皇妃の務めだからと夫の母ゾフィからあらゆる自由を奪われたエリザベート。
「ここは監獄だ」と嘆き、死を願ってナイフを掴んだその手が、今は混濁した乳白のなかでやわく肌を撫でている。

エリザベートはルドルフを産んでからも自由を求めてやまず、夫に母ゾフィと妻たる自分、どちらを優先するかの選択を迫っていた。
だから夫の歓心を惹くために彼女は美しくあろうとやっきになってきた。それがめぐりめぐって死を招くことなど、もしかしたら、うすうす気づいていたとしても意に介さずに。

「私を見捨てるのね」と夫を断罪した唇を今や彼女は使わない。
しかしエリザベートの首にはいつも重たいカウベルがついていて、休むことなくおおきく響かせては告げ続けている。
「私はここにいる、生きている、まだ誰にも殺されていない」と。

彼女の豪奢なバスタイムは王家の特権や高慢というよりも、美を保っていなければとても自分を保ってなどいられない、そんな病にほかならない。

「今日は馬に乗りたいわ」と言ってゾフィに罵倒された、あのエリザベートは、王宮で孤立しようともなお彼女の中に息づいて、自由をうっとり夢みるかたわら、夫を味方につけようとひたすら美容に時間をそそぐ。侍女がバスタブにそそいだミルクに溺れて夫の訪れを待っている。

そうしてフランツ・ヨーゼフがついにバスルームの扉のまえにやってきたとき、エリザベートはあの有名な絵画そのままの姿となって高らかに歌うのだ。

「私は私のもの」と、一幕のおわりを。

それは二幕からより濃厚になるハプスブルクのおわりの合図でもある。





はじめてこのミュージカルを観たとき、私の目線は審判者ルキーニに追いつけていなかった。
エリザベートの結婚は覚悟が足りなかった気がしたし、死の帝王であるトートがどうしてルキーニについて何も語らないのかも、よくわからなかった。

だが、何度も劇場に足を運び、ウィーン版のCDを聴くにつけ、そして私自身が学生から社会人へと意識や姿勢を変えていこうとするごとに、この「ミルク」から幕間までのそれぞれの立ち位置に近づいていった。

ルキーニは、自分がエリザベートを殺したのではなく、エリザベートが死を欲しがっていた、そう一貫して主張している。
「エリザベート」とは、誰も知り得なかったエリザベートのこころの底を掘り起こしていく物語だ。
ルキーニがさまざまなかたちでざくざくとシャベルを振りおろしていったら、ミルクの鉱脈にがちんとぶつかって、じわりと裸足のつま先が白くにじみだす。
エリザベートは幾度と「死」であるトートの愛を退けながらも、あえかな安堵を漂わせているひどく幼い香りを振り払いきれずに、またミルクへと沈んでいく。

死の魅力とエリザベートの存在がもっとも一致している場面が、あの「ミルク」の直後にくるのは、決して偶然ではないだろう。
そして私は思い出す。
エリザベートが死という美を磨いているまさにその時刻、ルキーニがウィーンの街で、ある限りのミルクをさいごの一滴までひとびとに売り歩いていたことを。





ミュージカル「エリザベート」の本邦初上演と時期をあわせてマンガ版が発売されている。
作者は森川久美。もともと私はこのマンガ家さんのファンだったので、ミュージカルを観るまえに買って読んだ記憶がある。
巻末の解説だったか、「森川久美のトートは『大人になってしまったピーターパン』だ」といったようなことが書かれていた。
その比喩がとても印象ぶかい。

ミュージカルのクライマックスでもエリザベートはあくまで「私は私のもの」としか歌わない。
その隣でトートが「あなたは私のもの」とひたむきに求愛しても、彼女はきれいに無視してしまう。

初恋が実ることなく、ウェンディの子はすでに自分のもので、とうとう大人になってしまったピーターパンは、それでもミルクを欲しがるだろうか。
まだ運命というものを知らなかったあのころをなつかしむために、ミルク瓶へと手を伸ばすだろうか。

私は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にふと思いを馳せていた。
少年ジョバンニは母親にミルクをもたらそうと暗い家路をたどる。病気だという母親。生きているのだろうか。

そのミルクをほんとうに切望しているのはいったい誰なのだろうか。

気がついたら私は裁判者になりかけていた。
そのことが何だかおかしくて、いま、ミルクティーを飲みながら、私はひとりあまく自嘲している。







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