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ランプが伝える、ふたりのキス

一緒に暮らそう。
どちらから言い出したのだったか。
スプーンで紅茶をかきまぜても、別にもうミルクの色が濃くなるわけでもなし。ただの習慣のようなものだ。ただし儀式めいた習慣だ。どこでもやってしまう。店でも、家でも。
今はひとりで住んでいる家。これからは、この目の前の彼と住むことになりそうな、どこかの家でも、きっと。

どんな家が良いかな。どのあたりが良い?街から離れすぎてると買いものが不便だと思う。ほら、お互い、車は持ってないから。免許はあるのにね。

いつになく口数が多い。
彼でも緊張するんだな。
ちょっとした発見だと思いながら、彼女はスプーンを置いて、カップを口に運ぶ。いちおう、彼の話に苦笑で返したその後で。

あのバス停のあたりはどう?バス停から坂道をのぼったところに住宅街があるよね。何軒か、空き家があったと思うんだ。あのへんなら街に出るのに不便しないし。

パブもあるしね。

彼女が素早く投げた皮肉を、彼はふいをつかれるあまり真っ正面から受けてしまう。でも。

あのパブ、知ってるの?なら話は早いよ。やっぱりサッカー観戦には大画面とエールがないと。

応援のエールじゃないんでしょ。

もちろん。亭主が一パイントグラスに注いでくれたエールさ。

こういう会話ができるのは良い。とても良いと思う。いちいち本気で腹を立てたりしない。癇癪を起こさない。
ジョークが通じるのは大事なポイントだ。だって一緒に暮らすならお行儀よくなんてしてられないもの。軽口ぐらい普通に叩きたいし、たまには汚いことばだって使うんだから。
生活をしていくのなら、そういうことでいちいち目くじらを立てるようなひとでは困る。

ご注文のキドニーパイです。

ウェイターが皿をことんと彼女の前に置く。
ありがとう、と言ってから彼がどうぞとばかりに手をななめにして勧めつつ、自分のティーカップを取り上げる。
食べるのは彼女なのに、ありがとうと言う。こういうところも、とても良い。
べつだん暗にここは僕が支払うと請け負ってるわけでもない。デートをした時の支払いについて何か決めごとをしたわけではないけれど、最終的にどうなろうと、彼は必ずありがとうと店員たちに言う。彼女が彼女のセーターを買うときでも、言う。レジで、ありがとうと。さりげなく。
彼女が言わないからではない。彼女が既に言っていても関係なしに彼は言う。
だって一緒にいるんだから。
そういうつもりなのだと思う。とても良い。これでちっとも押しつけがましくないのだから、とても、とても良い。
ティーカップを脇に寄せて、キドニーパイを真上から見下ろす。ナイフとフォークに指をかけようとして、ふと尋ねる。

あなたは何か食べないの?

僕はいいよ。夜、どっさり食べるから。

そう。じゃあ頂くわ。

それにしても君がキドニーパイなんて珍しいね。

彼女は首をかすかに傾げてみせるだけで、黙ってナイフの先をパイに埋め込む。さくりとした表面の感覚と、ナイフを通じて受け取る内側のどろりとした気配は、いつだって裏腹だ。
フォークで側面を押さえながらナイフで切り開く。予定どおりにあふれた内臓をパイの皮にからめていく。
予定。そうだ、予定。決めていたこと。

話があります。

そのままの姿勢で言うと、彼の動きがぴたりと止まった。まばたきだけが、一拍おいてから慌ただしく再開される。
彼でも緊張するのだ。そう。私だって。

一緒に暮らす前に、聞いてほしいことがあります。

彼はティーカップをテーブルに置いた。緊張だけではない、不安そうな表情。でも、何故だろう。申し訳ないとは思わない。
言うべきことは、言わなければ。
一緒に暮らすために。
どちらから言い出したにせよ、今、ふたりで分かつ希望のために。

何かな。

優しい微笑みがこわばっている。彼女はそれが崩れることを、もう恐れない。
言うべきなのだから、言う。彼がありがとうと、言うべきでないことまで言ってくれているのだから。
暮らしはじめてから、言わなかったことで彼を落胆させるべきではない。
一生のことだ。昔、結婚したときは若すぎて一生がいったい何なのかさえ分かっていなかった。でも今は分かる。
結婚はしないけれど、一緒に暮らす。いつでも簡単に出ていける。どちらもが。
でもそんなのは嫌なのだ。それならはじめから一緒に暮らすなんてこと、しないほうがいい。

私、総入れ歯なの。

彼女は言った。
彼は次のことばを待った。
続きはなかった。彼女の言うべきことは、それがすべてだった。
彼のまつげが上下する、その速度がだんだん緩やかになってくる。彼女はそれを見つめながら、フォークを操り、器用に切り分けた一片のキドニーパイのそのまたかけらを唇の隙間からお招きした。噛む。噛んで、味わって、食べる。彼の前で。咀嚼してみせ、飲み込んでみせた。
おいしそうにする演技は必要なかった。実際においしかったから。
外は雨がまだ降りやまずにいる。
彼女の傘がすれ違う人のそれとぶつかっても、彼は言うだろう。彼がいつも自然に言うことを。
この店を出た後でも、きっと、彼は言うだろう。





「同棲前に私から彼に伝えておいた注意事項その一だったのよ」

きちんと入れ歯をセットしすっかりいつも通りの面もちを整えてから、ホストマザーはそう教えてくれた。
学校に行ったら休講だとかで、その日はいつになく早く帰宅することになってしまった。
電話してから帰った方がいいかな、と案じた一秒後に、いや、電話、ないんだった、と気づいた。

ホストマザーはおしゃべりが大好きな人で、暇さえあれば誰かしらに電話をかけて何時間でも過ごしてしまう。
おかげで電話代が家計を圧迫するということで、ある時期から電話を置かないことにしたのだと聞いていた。
車がなく、電話がない。当時のイギリスの一般家庭ではやはり珍しいタイプだった。
でも五十代以上で一緒に暮らしていても結婚していないことは良くあるというのだから、文化の違いってわからない。

ともかくも、その日は予告なしでの早い帰宅。
もしマザーが出かけていても、鍵は預かってるし、大丈夫だろう。
そう思って裏口から入ろうとしたら、ドアを開ける前にあちらから開いた。
ホストマザーが口もとを押さえて、なんでこんなに早く帰ってきたの、とちょっと厳しい目つきで聞いてきた。
理由を説明すると、ひとつうなずいて私を家に入れてくれてから、黙ってキッチンボードの上のコップを指し示した。
そこに浮かんでいるものを見て、さいしょは何だろうと思ったが、マザーのほうを向いて、あ、とようやく理解したのだった。

それまで私は日本でも入れ歯を使っている人に会ったことはなかったのだと思う。少なくとも、入れ歯をはずした場面に出くわしたことはなかった。
そういえば祖母は歯がとても丈夫で、亡くなったのは十年ほど前だが、百歳をまぢかに歯はほとんど自前だったはずだ。





ホストマザーは私に紅茶のマグを差し出しながら、珍しくちょっと決まり悪そうに弁解をした。

「別にあなたに言う必要はないと思ったの。ちゃんと彼には言ったもの。同棲前に」

彼さえ知っていればいい。
そういうことならこれは惚気なのかな、と思うと何だかおかしかった。

「で、ファザーは何て答えたの?」
「別に構わないって。そりゃそうよね。それで迷惑かけることなんて何もないし、私の魅力も損なわれないでしょ」
「じゃあなんでわざわざあらかじめ伝えたの?」

ホストマザーは見るからに噛みつきそうな表情になって、そんなことより今日はどうする気なの、休講だからって勉強しない理由にはなりません、とお説教を始めてしまった。





ホストマザーから聞いたことは、
「同棲前に総入れ歯であることを話して了承を得た」
それだけ。
だから冒頭に書いた文章はほとんど捏造。

実際に、いつごろから一緒に暮らしはじめたのかも知らない。ただ、ホストマザーのお子さんたちがみんな家を出てからだとは聞いているから、そこそこの年齢だったのだろうと想像している。
でも、案外、若かったからこそ、総入れ歯であることを言っておいたのかもしれない。
それなりの年なら入れ歯ぐらい別に不自然でもないのだし、同棲を始めるにあたり真っ先に知ってもらうこととしてどうなのか、何とも。
それこそ文化の違いかもしれない。欧米は歯には気を遣うものだし、やはり何とも。





そんなホストマザーとファザーは、しょっちゅうケンカをしていた。

一度、夜中に寝ていたらふたりの寝室から流れてくる口論で目が覚めてしまった。
ついでなのでトイレに行こうとしたら、気配を察したマザーが「あの子が起きちゃったじゃないの」と怒り、ファザーはそれに「君が大声を出すからだ」と反論し、その後も小声で言い合っていたが、朝にはいつも通りだった。

学校であくびをしていたら友達に「寝不足?」と聞かれ、こういうことがあって、と気軽な話のつもりで洩らしたらみるみる深刻な表情になり「そういうの、よくあるの?」と心配されてしまって、いや、うん、よくあるけど、ぜんぜん大丈夫だよ、よくあるけどすぐ仲なおりしてるし、と必死になってホストペアレンツの名誉を守らねばならなかった。
その友達の家は階級がちょっと上で、ご両親もとても厳格な方で、ケンカなんて滅多にしないぶん、ケンカをしたら即離婚か別居という一触即発状態なのだと知ったのは、ずいぶん後のことだ。





ふたりのケンカのことを私は不安に思ったことがない。
そもそも何を言い争っているのか、聞き取れない。
ケンカ中なんてものすごい早口でまくし立てているし普段は使わないような単語も飛び出る。
そうでなくても、私は仲裁に入る立場でもない。
リビングでケンカが始まったら、最初の三分ぐらいはリスニングの練習にあてるものの、理解できた範囲でも内容はまあまあ大したことではなさそうなので(ファザーの買ってきた梨がすっぱかったとかマザーがテレビ欄のチェックを間違えたとか、よくある他愛ないこと)、あとはBGMがわりに流しておいてテキストや本を読んでいた。

例外として、私でも聞き取れるぐらいのゆっくりさの時は、そっと場を外したりしていた。
速度が落ちるということは、言いにくいことを言っているのだ。

「だって、あなたは、つまり、子どもを育てたことがないでしょう」

そんな内容ならケンカじゃなく話し合いが必要になるのだろうし、遠慮すべきだろうと判断して自室に移動する。
大抵はそんなに時間を置かず「紅茶を淹れたから降りておいで」と呼ばれる。
それまでは自室でぼんやりしておくのがたったひとつ私にできることだった。





しかし、ケンカをしてもほとんど二十分と経たずいつも通りになっているので、本当に私が困ったことなんてない。
困ることといえばむしろ逆のことでだった。

ふたりには、
「どちらかが出かけるとき必ずキスをする」
という、さすが欧米ならではの決まりごとがあった。

五分前まで激しい口論をしていたその唇でちゅっとやっていく。

いろんな意味で、すごいなあ、と思っていた。





あるとき、ホストファザーが出かけようとしたら、マザーが二階にいて、階段の下から何度も呼んでも聞こえないことがあった。
たぶんシャワーでも浴びていたのだと思う。
十分ほど前までめちゃくちゃに言い争っていたから、頭を冷やしてるんだろうと私は思っていた。

しばらくねばった後で、ファザーは時計を見てから、私に向かって肩をすくめた。

「しょうがない。行ってくるよ」
「うん。気をつけて」
「彼女に伝えてくれるかい。キスを」

わお、と呟いたら、彼女に似ちゃダメだよと笑いまじりにたしなめられた。

じゃあね、とファザーがドアを閉めて間もなく、マザーが降りてきた。

さっそく伝言の役目を果たそうとしたら、それよりも先にマザーはファザーを探して首をきょろきょろとさせた。

「あの人、どこ行ったの」
「呼んだんだけど」
「ちょっと、あの人、キスしないで行ったの?」
「うん、だから呼んだんだけど」
「あらそう!キスしなくていいってことね!そう!よーくわかったわ!」

ふんふん!

そう言ってひとりで怒りはじめたときには、もうどうしようかと思った。おかしすぎて。

笑いを堪えながら、呼んだんだけど聞こえなかったんでしょ、キスの伝言をあずかってるよ、と言い終えるまで、何度も「十回なんて呼んだうちに入らない、百回でも呼ぶべきよ」とか「上に来れば良かったでしょ」とか「私を待てないほどの用事なんてあるわけがない」とかとにかく「キスしていかないとか信じられない」というようなことを言い立てては私の話を遮ってしまう。
伝え終えるまでにファザー帰ってきちゃうんじゃないかなと心配になるほどだった。

つまりふたりはそれくらい仲がよかった。





どうにかこうにか伝言を終えて、マザーの気が鎮まったかというとそうでもなく、それからもまだぶつぶつ言っていた。
テレビを見ている間は静かだが、CMになるとぶり返す、そんな調子。いっそテレビ番組よりずっと面白いので早くCMにならないかなと思っていたら十時になり、寝る時間になった。

私もその時間には自分の部屋で一日を終える準備をすることにしていたから、いつものようにリビングのカーテンを閉めたり、それぞれの自室に持って行く紅茶や水を用意したりしていた。
最後にリビングを出るとき、そしてファザーがいないとき、マザーはテレビの上のランプをひとつだけ灯しておく。

「こうすれば彼は暗い中を帰ってこなくてすむでしょう」

ファザーが出かけている晩はそう言うのがいつものことで、その夜もその習慣に変わりはなかった。

それはファザーが出かけた先がパブだから、帰るころにはほろ酔い加減、暗闇で転んでケガでもあってはたまらないし家具が倒れるのも困る、そういうこともあっただろうけれど、何だかんだと愛情の証に決まっている。
本人が絶対に認めなくても、そうに決まっている。





ある月曜日の朝、自室を出たら目の前の壁の下のほうが血に染まっていたことがあった。
前日の日曜日にマザーのお孫さんが集まって大騒ぎしていたから、もしかして気づかないうちに誰か転んだか何かしたのかもしれない。
そう思ってすぐにマザーとファザーのいるリビングに駆け込み、そのことを伝えたら、ふたりは顔をつきあわせてから、

「昨夜、酔って帰ってきてあそこで鼻血を出したから、多分それ」

とファザーがおそるおそる告白した。

その後どうなったかはご想像にお任せする。





十年ぐらい前、ファザーからの手紙で、マザーが脳卒中で倒れたと知った。

でも、心配しないで。彼女は真面目にリハビリをして、順調に回復しつつあるから。家で彼女が居心地よく過ごせるよう、僕も今から病院でいろいろ教わっている。彼女は強い人だ。きっとこれを乗り越えるだろうし、僕は彼女を支える。だから、君は心配しないで、自分の人生を歩みなさい。

心配するなと言われても心配に決まっている。
あのランプが愛情であったのと同じぐらい、決まっている。

でもイギリスに駆けつける余裕はなかった。
次の手紙は半年後に来た。

彼女はずいぶん良くなったよ。入院していた頃より、家での方が回復が早い気がする。でももう前みたいにすごい勢いでしゃべったりはできない。たまに彼女が何を言いたいのか、僕にもわからなくなることがある。悲しいよ。君がいた頃の彼女は本当に元気で、すごくおしゃべりだったよね。信じられるかい、無口な彼女なんて。でもちゃんとケンカはできているから、大丈夫だよ。彼女は僕に負い目を感じていない。言いたいことを何でも言おうとしてるのがわかるから大丈夫なんだ。彼女はもう旅行もできないし、僕はそんな彼女のそばに一生いるけれど、彼女のこころも僕のこころもいつも君とともにあるよ。また会える日まで、元気でいてほしい。僕たちの日本の娘、君を愛している。キスキスキス





私が帰国して数年後、電話を取りつけたと知って、何度か電話をかけたことがある。
ほとんどがイギリスに着いた直後、ヒースロー空港から。

「五日後ぐらいにお邪魔しても良い?」

そう聞くと、用事があればちゃんと断ってくれて、そうでなければ歓迎してくれた。
当日に近くの駅まで来て「あと三十分ぐらいで着く」と電車の時刻を伝え、出迎えは要らない、そうどんなに強く言っても、ファザーは必ず駅まで歩いて迎えにきてくれた。

日本からかけたのは、ほんの一、二回。
ちゃんとおぼえているのは、私の母が亡くなった時だ。





実際、今はどうなっているのか、知らないままでいる。
手紙での交流も途絶えてしまった。
住所は今でも暗記しているから、手紙ならいつでも書ける。
ただ、返事が怖くて連絡をとれずに、数年が過ぎてしまった。

引っ越したらちゃんと手紙を出そうと思う。
イギリスの郵便配達は優秀だ。届かないならそれなりの対応をしてくれる。
それか、思いきって電話をするか。

本当は会いに行きたい。
それがお墓でもいい。

ちゃんとあのリビングのランプが灯っているか。

ふたりがあの家を去ったのだとしても、あのふたりのランプは灯っているか。

いつか訪れて、再会して、知りたい。
そう、願っている。



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